この命だけは――(忙しい人向けの悲劇)
剣が振り下ろされる瞬間、私は視線をそらした。
石畳に重なった二つの影が、妻と娘の最期を物語っていた。
私はかつて、王国に剣を捧げた騎士だった。
郊外に屋敷を構え、家族と静かに暮らしていた。元騎士であるがゆえ、城下の商人や町役人、兵に至るまで多くの知己がいた。その一人である町の守備隊長が、密かに知らせを寄こした。
先月、王権転覆を企てた一派が処刑され、王命により残党と子らにも捕縛の通達が出たという。
名を連ねる者の中で、私の知る名はベール卿だけだった。
貴族にしては奇特で、義を重んじる男だった。後妻を迎えず、一人娘と暮らしていると聞いていた。
書面には、娘の名もあった。
気づけば馬を走らせ、ベール卿の領地へ向かっていた。
見張りの姿はどこにもなく、庭の井戸で、少女がひとり水を汲んでいた。
まさかと思い名を尋ねると、やはりベール卿の娘だった。
衣は裂け、泥に汚れ、顔色はひどく青ざめていた。
私が問いかけても、少女はか細い息を漏らすばかりだった。
通達を知る者は限られている。
一瞬のためらいののち、私は少女を馬に乗せた。
妻と娘は匿うことを受け入れ、息子は迷いを見せたが頷いてくれた。
少女は疲れが抜けぬ様子で、「はい」か「いいえ」としか返さず、食事も勧められるまで手をつけなかった。
朝を待ち、私は信頼を寄せる人物を訪ねた。
修道院同士の連絡役を務め、寄進を続ける男で、今も巡礼のため国境を越えている。
事情を話すと、すぐに便宜を図ってくれた。
疫病で家族を失った預け子として、国境近くの修道院に引き取られる手筈となった。
少女を託し屋敷へ戻ると、いきなり兵が踏み込んできた。
名を呼ばれ、拘束されてようやく、私は彼に密告されたのだと分かった。
私たちに告げられた罪は、反逆罪。
妻と娘は即日処刑された。
私と息子は牢に入れられ、引き離された。
日の昇り降りさえ数えられぬまま、冷たく湿った牢の中で、私は自らの愚かさを呪っていた。
少女を守れず、我が家をも滅ぼした。
善意も信も、過ちだったのだ――。
鉄格子の開く音が響いた。
鎖の擦れる音と足音が近づき、私の牢の前で止まる。
立っていたのは息子だった。
両脇にいる衛兵は、戦場で私の指揮下にあった者たちだった。
彼らは声ひとつ発さず、私を見ることなく、息子が噛まされていた布を慎重に外した。
「父上。私は胸に問い続けておりました。人の道とは何か。騎士にも誇りを捨て、欲に溺れる者はおります。しかし、父上は正しき道を貫かれた。真に高潔なる騎士は、父上です」
その眼差しに、喉が詰まった。彼らは再び布を噛ませ、息子を引き立てていった。
水も食事も満足にとれぬ身でありながら、去りゆく背中は真っすぐ伸びていた。
与えられた猶予は、私に耐えがたい苦痛をもたらした。
陽が傾きはじめた城門前広場には断頭台が置かれ、民衆が集まっている。
王はその傍らに腰を下ろし、騎士団は微動だにしない。
壇へ上げられたところへ、騎士がひとりの子供を連れてきた。
――あの少女だった。
胸が凍りついた。私は顔を上げず、声を張った。
「陛下! どうか、この者のみはお救いくださいますよう。罪なき子にございます!」
王は鼻で笑い、低く言った。
「案ずるな。その娘を処すことはない。親も無く、寄る辺もない者よ」
哀れみがかすかに混じって聴こえた。
ベール卿は落ち延びられなかったのだろう。
私もまもなく終わる。
それでも守ろうとした命は、まだ息づいている。
「その娘はベール卿の家に仕えていた使用人にすぎぬ。己が子を逃がすため、偽りの名を負わせていたのだ。洗礼記録が示す正統の子は、すでに我が手中だ」
「使用人……」
息が止まった。少女は頭を下げ、身を固くしている。
「卿の働きは、所詮は無に帰した。されど、汝の罪は神とて赦しはせぬ」
王の言葉を受け、私の首は断頭台へと据えられた。
民衆がどよめき、騎士が即座に制する。
額を伝う汗が目元を曇らせ、脂で固まった髪が頬に貼りついた。
歯を思いきり食いしばっていると、唾液が糸を引いて落ちた。
「……騙ったのか」
空っぽの胃の奥から濁った声がせり上がる。
全身の震えは、恐怖のせいではなかった。
「我々がどうなるか、わかっていて……尚も名を騙り続けたのか!」
わなないても、俯いたままの少女を射抜かんとする視線は揺るがなかった。
命を懸けた存在に、私は家族を奪われた。
この命だけは――決して赦してなるものか!
「ぼろをまとった乞食風情が! 我が家族を殺した下賤の悪魔め!
地獄で這いずれえええええ!」
歪んだ視界の中で、少女の伏せた瞼に刃の影が重なった。
シェイクスピアぶりました。




