第2話 レビュー地獄と炎上ギルド
翌朝、王都の空はうすい灰色で、吐く息の白さが昨日よりも長く伸びた。ギルドの扉を押すと、湯気まじりの暖気がむわっと顔にかかる。壁一面の掲示板には、夜のあいだに新しい紙が増えていて、その真ん中に大きな字で貼られていた。
——チーム★2残念。
ユウトの足が、その一枚の前で止まった。紙の端には小さな星が散っている。貼った誰かの冗談だろうか、金粉みたいにきらきらして、指で触れると冷たい。冷たさが指から肘へ、肘から肩へ、じわりと上がっていく。掲示板はいつも冷たい。夜になると、誰もいないのに紙が増えるからだ、という噂を思い出す。
依頼主レビュー 星1
服を泡だらけにされた
態度は誠実
でも謝りすぎて逆に怖い
読めば読むほど、舌が乾いた。喉の奥で謝罪の形がすべって、危うく声になるところを、ユウトは奥歯で挟んで止めた。紙の下には、薄い鉛筆書きのメモがあった。「人を見ている。見過ぎている?」誰が書いたのかわからない。字だけがやけに整っていて、整いすぎた線は機械のものみたいに見えた。
サクラが肩越しに覗き込んだ。粉雪みたいな笑い声が耳に触れる。
「星なんて、気にしない。あれは天気と同じ。勝手に降って、勝手に溶ける」
「でも、これじゃ依頼が来ない」メイが腕を組んだ。鎧の継ぎ目が軽く鳴る。「星が低い店には、誰も入らない。パン屋でも宿でも同じ。ギルドもそう。生きていくには、星が必要」
「星、多いと腹が膨れるの?」トゥルがカウンターの影から顔を出した。「俺、星三つ分くらい食べたい。借金の味しそうだし」
「そういう味はしない」ロッドがページをぱたりと閉じ、カバーの穴からひとつ目でこちらを見る。「だが、星は現金化される。依頼の回数、単価、回ってくる仕事の質。星は門番。門番が笑っていれば通れるし、眉間に皺が寄れば外で凍える」
「で、どうするの」メイの声に棘が混じる。「昨日の泡は、正直に言って、楽しかった。でも現実は星1。笑ってるだけじゃ、死んじゃう」
「死なせない」サクラがすぐに言った。「死ぬのは、わたしたちの部署では一番の失点よ」
「その部署の話、いつか詳しく聞くからね」ユウトは掲示板から目を離し、手袋の中で指をぎゅっと握った。内側の布地に、昨日の熱の名残が固くなって残っている。
「解決案、提示」ロッドが乾いた声で言うと、周囲の視線が集まった。ページが自動でめくれ、紙の上に小さな図が浮かぶ。魔導書の中に、さらに小さな窓。その窓の中で、人の手が動き、文字が流れ、笑いが流れ、星が降る。
「バズり対策。依頼の様子を魔導配信。露出を増やす。見え方を設計する」
「見え方……?」ユウトはその言葉の冷たさと甘さを同時に舐めた。「冒険を見せる?」
「冒険を演じる、とは言っていない」ロッドは淡々。「ただ、起きていることを、起きているとおりに、見たい人に見せる。人は見ることに飢えている。見たという感覚が満ちると、星を投げる」
「それ、ずるくない?」メイが眉をひそめる。「真面目にやって星をもらうのが、本筋じゃないの?」
「本筋、という線は、誰が引いた?」ロッドの声は揺れない。「いま回っている星制度は、冒険そのものより、“見せ方”に反応するよう作られている。なら、見せることも仕事の一部だ」
「……嫌いじゃない。やろう」トゥルがにやりと笑った。「撮影、俺がやる。指が早いから、コメントも拾える」
「コメント?」ユウトは聞き返す。「言葉が飛んでくるの?」
「飛んでくる。見えない窓の向こうから。見られてる感じはするけど、顔はわからない。わからない顔ほど、強い」
ギルドの裏庭に出ると、白い息と蒸気が混ざって、世界がぼやけた。ロッドが空中に小さな光の台を配置し、その上に透き通る板を立てる。板の中に、もうひとつの裏庭が映った。映った裏庭には、こちらと同じ雪、同じ壁、同じ空。けれど、そこには見えない観客の目が、薄い星の粒として漂っている。目が集まりすぎると、粒は泡になり、泡は弾ける。そのたびに、板の端に数字が生まれた。数字は増えたり減ったり、息をするみたいに動く。
「練習から行こう」サクラが袖をまくり、指を鳴らした。「昨日はくしゃみで泡を増やしすぎた。今日は、花を出す。冬の花。看板くらいの大きさで、香りは控えめ。飛ばない。燃えない。誰も転ばせない」
「条件多いな」トゥルが笑い、板の横で指をすべらせる。透明な板の向こうに、文字が流れ始めた。こんにちは、初見、駄女神? がんばれ、星2、泡くれ、泡やめろ、鎧かわいい、盗賊だ、返せ、返しません、返せ。
「どれが誰の声かわからないのが、逆にうるさいね」メイが肩を回しながら呟いた。鎧の縁に小さな凍りがついていて、動くたびにちいさな音を立てた。
サクラは一歩前に出る。指先に、薄い光が集まった。彼女の奇跡は、理性を削って起こる。削られる瞬間、顔の奥の影が一瞬だけ薄くなる。ユウトはその影を見ないように、サクラの指先だけに目を置いた。光は針の頭ほどの点から花びらに広がっていき、ひとつ、ふたつ、三つ。冬の空気に浮かぶ白い花。落ちる前にふっと消える。香りは、ほとんどない。ただ、消えるときの音が、雪の上を指で弾いたときの音に似ていた。
コメントの流れが変わる。かわいい。駄女神かわいい。泣きそう。花。星あげる。あげない。あげた。既視感。祈り? 左遷? 左遷てなに。尊い。泡は?
数字がわずかに上がった。ロッドがページでそれを指す。ユウトは息を吐き、白が広がるのを見た。白はすぐに空に溶けていく。溶けてなくなるものは、やさしい。やさしいものは、すぐに疑われる。
「上がった。上がったよ、ほら」トゥルがユウトの肩を叩く。「コメント欄も平和だ。駄女神、いい響きだな」
「駄、は余計」サクラは少し頬を膨らませ、しかしすぐに笑顔に戻った。彼女の笑顔は、見せるための笑顔の形を持っている。形を知っている笑顔は、手に取ると薄い紙みたいに軽い。軽さは危険。だが、救いにもなる。
そのとき、透明板の隅が赤く光った。メッセージが太く流れはじめる。売名。最低。泡で迷惑。星乞い。星泥棒。事故商法。顔出せ。出すな。出せ。出すな。鎧はレンタル? 盗品? 盗んだな。盗んでない。盗んだ。死ね。死なない。死ね。死なない。
「は?」メイの眉がぴくりと跳ね、次の瞬間にはもう板の前に立っていた。指を叩き、文字を撃ち落とすみたいな速さで返す。返す。返す。「盗んでない。領収書ある。泡は事故。被害者にも菓子折りを持って謝った。謝罪が多いのは性格。星は乞うものじゃない、投げるもの。投げたくないなら投げるな。死ねって言うな。そんなに簡単に言う言葉じゃない」
コメントの動きが一瞬止まり、すぐに速度を増した。正義厨。きれいごと。人気ほしいだけ。女神のくせに人間くさい。人間のくせに女神のふり。バランス悪い。嫌い。好き。好き。好き。嫌い。既読スルー。即レス偉い。偉くない。偉い。
「メイ、やめよう」ユウトはそっと袖を引いた。袖の金具が冷たく、皮膚にひっつく。「ここで言い合っても、誰も見ないよ。いや、見てるけど、見て笑うだけかもしれない」
「見て笑う、それで傷つく人もいる」メイは低く言い、指を止めた。彼女の肩がわずかに上下した。吐く息が、白くふくらんではしぼむ。「ごめん。……謝らないって決めてたのに」
「謝るのは悪いことじゃない」ユウトはつぶやいた。「ただ、謝り方に、星がつく」
「それが、気持ち悪い」メイは目を伏せた。「ごめん、って言う言葉に、数字がぶら下がってるみたいで」
ロッドが静かに板を小さくした。数字は変わらず、文字はまだ流れ続けている。見ている目は、見ているだけでは満足しない。見て、触れて、評価して、流す。流し終えると、次のものを探す。冬の風みたいに。
「今日はここまで」サクラが言った。声は柔らかく、しかし、どこかで切れていた。「見せ方の練習は必要。けれど、呼吸を取り戻す時間も必要」
「呼吸、ね」ユウトは自分の胸に手を当てた。鼓動が早い。早さは寒さのせいか、目の数のせいか。ギルドの建物の影が、午後の角度で長く伸び、裏庭の雪の上に黒い三角を作った。黒い三角の中に、誰かが立っているように見えた。見えるだけだ。見えるだけなのに、背中がひやりとして、肩に乗っているロッドが少し重くなった。
日が落ち、王都の蒸気はさらに濃くなった。夜のギルドは昼より静かなはずなのに、今日は違った。表の掲示板の前に人だかりができ、裏口のほうからは「売名チーム」「駄女神」といった声が漏れ聞こえてくる。透明板を片付けても、目は消えない。目は壁に残り、床に滲み、窓ガラスに薄く貼りつく。窓の外を通る人の影が、その目を踏んでいく。
「少し、散歩しよう」ユウトは言った。頭の中の文字のざわめきから逃げるには、白い息で耳の内側を冷やすのが一番いい。サクラとメイはうなずき、トゥルは「変装してくる」と言ってフードを深く被った。ロッドは自分からページを閉じ、「夜間観測モード」と表紙に小さく印字した。印字はすぐ消えた。消える字は、安心する。安心しすぎると、足を滑らせる。
路地は静かだった。昨日の泡の名残が端に寄せられ、星形の薄い跡を残している。星形の真ん中に、目の絵を描いた子どもがいたのだろう。目が笑っている。笑いは紙の上だとやさしいが、夜の光に反射すると刃物みたいに光る。ユウトは目を踏まないように歩いた。踏むと、靴底から冷たさが上がってくる気がしたからだ。
「ねえ」ロッドが、珍しく独り言のような声で言った。「この星制度は、冒険を評価していない。“見せ方”を評価している」
「昼にも言ってた」メイが応じる。「聞こえなかったふりをしてたけど」
「ふりを剥がすのは、夜のほうが楽だ」ロッドの穴の目が、街灯の光をひとつ飲んだ。「冒険の本質は、たぶん、誰にも見えないところで起きる。怖さもそう。人に見せられる怖さは、怖さの表側。表側を磨けば星は増える。けれど、裏側は痩せる」
「裏側が痩せると、表側は軽くなる」サクラがつぶやいた。「軽さは危険。けれど、救いにもなる。わたしは、どこまで削るべきかな」
「削りすぎないで」ユウトは笑った。笑いは冬の夜に似合わない。でも、ここで笑わないと、何かが固まりすぎる。「僕の中の、怖がる場所は残しておきたい。怖がるから、誰かの手を握れる。怖がるから、謝る。でも謝る前にできることを、覚えたい」
「謝りすぎて逆に怖い、って書かれてたね」メイが肩をすくめる。「あれ、刺さったなあ」
「刺さる言葉は、当たってる言葉」トゥルがフードの影から口だけで笑った。「でも、言葉の投げ主の顔は見えない。見えない顔の言葉は、刺さりっぱなしだ」
ユウトは空を見上げた。蒸気が低く流れ、星は見えない。見えないのに、視界のどこかで星が瞬く。掲示板の、数字にならない星。窓ガラスの、描かれた目の真ん中の光点。見えないものは、見えるものの穴として存在する。穴のふちに触ると、指が冷たくなる。冷たさは、眠気を追い払う。
「でもさ」ユウトは小さく笑った。「見て、笑ってくれるなら、少しは救われるかもな。笑いって、軽いけど、軽いものが人を浮かせることもあるし。足が地面から少し離れると、ぜんぶが違って見える」
サクラが横目でユウトを見て、少しだけ口角を上げた。笑いはやさしい。やさしいものは疑われる。疑われるものを、わたしたちは抱いて歩く。抱いているあいだは、まだ大丈夫だ。
ギルドに戻る前、裏通りの角で、ユウトは気配に気づいて立ち止まった。石壁の向こう、ガス灯の影から、細い人影がこちらをうかがっている。逃げ腰ではない。むしろ、決心して立っている、という芯の固さがあった。ロッドがわずかに重くなる。サクラが肩を並べ、メイが半歩前に出る。トゥルは影を踏んで別の影になった。
「こんばんは」ユウトが声をかけると、影は少しだけ揺れ、出てきた。年齢はユウトたちと同じくらいか、少し下。厚手のコートの袖が長すぎて、手首が見えない。目は驚くほど澄んでいた。澄んだ目は、夜の中だと冷たい。
「あなたたち、配信、見ました」影の主は言った。声はよく通る。「駄女神、かわいかった。泡も、きれいだった。……でも、わたし、怖くて」
「怖くて?」サクラが首を傾げる。
「見ていた自分が、いちばん怖かった。笑って、星を投げて、画面を閉じて、布団に入って、そのあと、目を閉じたら、泡の中に目がたくさん浮かんでて、わたしの目もそのなかに混ざってて、笑ってるのに、笑ってる顔がひび割れて、ひびの中から言葉が落ちてきて、起きたら朝で、朝は静かで、でも、静かじゃなかった」
ユウトは、背中の冷たさが、胸まで回ってくるのを感じた。たぶん、この子は正しい。見ている側が揺れるとき、何かが本物に触れている。触れすぎると壊れる。壊さないように、手の形を変える必要がある。
「……依頼が、あります」その子は言った。袖の先から紙切れが覗く。紙の端は、誰かが何度も握って皺になっていた。「わたしの友だちが、星の中に落ちて、戻ってこない。見つけてください。あの配信の人たちなら、たぶん、届く」
ロッドが小さくページを震わせた。震えは合図だ。合図の先で、世界がまた少しズレる。ズレは細い溝。溝の向こうに、目の海。目は星の形で、星は泡の形で、泡は言葉の形で、言葉は人の形をまねる。
ユウトは紙切れを受け取り、丁寧に折り直した。折り目が増えると、紙は弱くなる。弱くなった紙は、懐で温かい。
「引き受けます」ユウトは言った。声は思ったよりまっすぐ出た。「星は増えないかもしれない。でも、あなたが眠れるようになるなら、それは……それで」
「星はあとからついてくる」サクラが、いつもの調子で言いかけて、ふっと言葉を止めた。「いや、ついてこないかもしれない。でも、ついてこない星も、夜道の目印にはなる」
メイは肩の鎧を軽く叩き、トゥルはフードの影で小さくガッツポーズをした。ロッドはページを開き、夜間観測モードの文字を、今度は消さなかった。消さない字は、重い。重さは、確かさのかわりになる。
ギルドに戻ると、掲示板の星は、ほんの少しだけ増えていた。数字にはならない星だ。目の形の光点が、紙の隙間で瞬いて、消えない。誰がつけたのかは、相変わらずわからない。わからないまま、わかっている気がする。窓の外の蒸気は濃く、夜はまだ長い。長い夜の向こうで、誰かが目を閉じられずにいる。
ユウトは息を吸い、白く吐いた。白はすぐに夜に溶け、跡に薄い冷たさだけが残った。その冷たさを胸の奥にしまい、彼は、掲示板の紙に目をやる。
——チーム★2残念。
その言葉の向こう側で、静かに、次の依頼の扉が、音もなく開いた。




