05.呼吸
夜。
俺はシャワーを浴びていた。
いつものラブホテルだ。
俺の頭の上からは、湯気の立つお湯が降り注がれている。
でも……熱いのか、ぬるいのか、冷たいのか。
俺にはよくわからない。
ただ濡れた感触。
湯気が立っているし温度が表示されてるから、きっとあったかいんだと思う。
俺は女の子の匂いを消すためにシャワーを浴びた。
匂いなんて俺にはよくわからないけど。
だからこそ気になるから。
シャワーを止めてバスタオルで体を拭く。頭をゴシゴシ拭きながら、でっかいダブルベッドの中を覗き込んだ。そこにはハダカの女の子が熟睡している。
……サキちゃん、寝顔もきれいだね。
ハルちゃんに似ている子のAV映像は、かなり燃えた。
でもハルちゃんじゃない。
決定的に違うのは、サキちゃんは俺の現実じゃないってこと。
ついでに性別かな。
ま……どうでもいいよ。性別なんて。
ハルちゃんは性別を超えた存在だから。
……俺の神様だから。
俺はパンツだけ穿くと、短いタオルを熱いと思われるお湯に浸して絞る。
「きれいにしてあげるね。」
一応話しかけて、ぐったりとした女の子の体を優しく拭いてあげた。
サキちゃんの体はふにゃふにゃしていたけど、適度に引き締まっている。土曜日にジムに行くのが趣味だと言っていた。
かっこいいプロポーションだなぁ。
きっとハルちゃんが女の子なら、やっぱりこんな感じ。
でもハルちゃんは運動なんかしないんだろうな。
ハダカは見た事がない。
……いや……
本当は一度だけ見たことがあるけど。
本人は覚えていない。
だから。
昼間の俺も覚えていない。
でも今は。
どうやったらもう一度見れるか、女の子とエッチする度に考えてる。
濡れたタオルで体中を拭いているのに、サキちゃんはピクリともしなかった。
「……よく効くね。」
睡眠薬。
俺はサキちゃんを拭き終わると、大きなバスタオルで包んであげた。
お腹周りはもう一枚厳重に。
女の子は冷えるといけないしね。
その上から、軽い毛布と、ふかふかの羽毛布団を丁寧にかけてあげた。
これでよし。
明日は土曜日だからね。朝までゆっくりオヤスミ。
俺の……夢の中の人。
俺は首にかけているタオルで、まだ自分の頭を乱暴に拭く。
そのまま液晶テレビの後ろに回った。床に近い壁を押すと、そこがひっくり返る。
俺は中にあるボタンを押した。カチンと遠くで音がする。俺にしかわからない程度の、小さな音。
俺はそこを元通りにすると、トイレに入った。
トイレのタンク……その奥の壁が少しだけ浮いている。
俺はそこを迷わず押した。
中は真っ暗だ。
右手の壁のスイッチを押すと、やけに明るいライトが中を照らした。
六畳ほどの小さな部屋だ。パイプ椅子と小さな机がぽつんとある。机の上には、いつくかの携帯電話が並んでいた。突き当りには、服を入れるケースがある。
その隣のパイプの棚には、簡単な医療道具と俺の商売道具。
狭い部屋の奥には、黒くて四角い箱。
中身は大量の札束。
なぜかあるんだ。
……お金なんて。
どうでもいいのに。
俺は突き当たりのクリアケースから黒のジャージを取り出して、手早く着た。そこにある白い靴下に、安めのジョギングシューズも履いた。ニットの帽子に、フリース生地のマフラーも身につけた。白くて薄い手袋をはめる。
……女の子なら誰でもいいんだ。
ここの隠し部屋を使いたいから。
ただ、それだけ。
朝まで女の子と一緒にいたってことになっていれば、あとはどうでもいいしね。
サキちゃんは……これからも、使えそうだ。
俺は机の上の携帯電話を一つ取った。
履歴は、たった一つしかない。俺はそこに電話をかけた。
しばらくして女の人が出る。
「……あら、結構のんびりしていたわね。今夜はもう寝るのかと思ったわ。」
俺は少し笑った。
「ふふ……冗談。一日何もしないと、遅れを取り戻すのに二日かかるんだよ?」
「へぇ、そういうモノ?」
「そうそ。事務員さんにはわからないかもしれないけどさ。」
女の人は少し笑った。
「……そうね。でも、いつもより遅いじゃない。そんなに燃えちゃった?」
「……」
「ふふ……似ているものね。あなたのKeyに。」
カチンときた。
大事なハルちゃんを、そんな風にからかわれたくない。
でも俺は、ふふっと笑った。
「それ……言ったら殺すよ?前にもそう言ったはずだけど?」
「……冗談よ。自分より上のコードメンバーに逆らったりしないわ……J」
「ふぅん……スリル求めてるのかと思った。」
「……まさか、くせになったりしないわ。」
「……」
昨日と同じこと、言うんだね。
俺専属のUは、ため息をついてから言った。
「今夜も何も命令はないわよ。最近、めっきりヒマになったわね。」
「ふぅん、いいことじゃない。嬉しいね。」
「ええ……そうね。」
最近、ヒマになったのは、俺を動かしたくないからだ。
そこにAの慎重な思惑がある。
それを……彼女は知らない。
俺は気を取り直して言った。
「それより俺、昨日からつけられてるみたいなんだけど。」
「え?」
彼女は、緊張した声を出した。
「……誰?」
「心配ないよ。俺の顔見知り。」
「そう……もしかして消すの?」
「んにゃ……放っておくよ。どうせすぐ諦める。」
「ふぅん……でも、そんなの初めてじゃない?気になるわね。何者?」
「ああ、刑事さんだよ。」
彼女は急に焦ったように言った。
「……ちょっと!ほんとに放っておく気?」
「うん、むしろ放っておいた方がいいよ。」
「どうして?」
「……あの人普通じゃないんだ。半日も、つけられていることに気が付かなかった。尾行の仕方も、かなり離れている。下手に動くと危ないよ。」
「……そう、あなたがそう言うなら。」
……冗談。
ハルちゃんを巻き込めるかってぇの。
俺はちょっとだけ笑うと移動した。
話しながらトイレから出る。
「大丈夫だよ、俺は尻尾を出さない……絶対にね。」
なぜなら……昼間の俺は全部。
ウソじゃないから。
あんなに頭のいいハルちゃんも。
ウソじゃない俺を、見抜くことはできない。
「……そうね、それは知っているわ。もし動きがあったら教えてちょうだい。それまでは上に黙っておくから。」
「ありがと。」
俺はサキちゃんのカバンを開けた。
なるべく中を動かさないように、黒くて長いサイフだけ指でつまんで取り出す。手袋のまま中を開けて、免許証を取り出した。
「一枚、地図を送ってくれる?今から住所言うし。」
「いいわよ。」
俺はそこに書いてある住所を言った。
「おっけー、切ったらこの携帯に送るわ。」
「ありがと。」
「じゃあね。」
携帯を切ると、そのまま免許証と財布を元通りにしまった。
「……いってきます。」
すやすや眠るサキちゃんに話しかけて、俺は部屋を出た。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺を乗せたエレベーターは、下へ行かずに上へ登っていった。
最上階から非常階段で屋上へ。
重たい鉄のドアを開くと、そこはビル風に包まれていた。
俺はマフラーで顔の下半分を隠すと、屋上から下の道を覗き込んだ。
……誰もいないみたいだ。
一つ息を吐く。集中の準備だ。
そして……いきなり屋上から飛び降りた。
落ちる途中で、壁を蹴る。
向かいのビルの非常階段へ飛び移った。
ビィィン……
飛び移った先の手すりが鳴る。
あれ、ちょっと失敗だ。
俺はそれを手で掴んで止めた。
そのまま階段で下りる。
足音を立てないように、つま先だけで。
地面までたどり着いた先に。
要刑事が歩いていた。
彼は後ろ姿だ。
駅まで歩いている途中みたいだった。
俺は身を潜めながら感心した。
……へぇ。
まだいたんだ。
寒いだろうに、ご苦労さま。
でも、もう帰るみたいだ。夜はこれからなのにねぇ。
俺は小さく手を振った。
バイバイ。
すると要刑事は立ち止まった。
……おっとぉ?
俺は、さっと隠れた。
こっそり様子を見ると、要刑事は上を向いて、ぐるっと空を見渡している。
雑居ビルの立ち並ぶ、狭い空。
……ふぅん……
やっぱりこの人。
普通じゃない。
要刑事が見ているのは、夜空なんかじゃない。
……知っているんだ。
俺たちが、上を移動できることを。
頭の上なんて誰も見ないから、移動しやすい。
やっぱり下に降りてきて正解だ。
あのまま移動していたら、見つかるところだった。
……でもすごいな。
あの人。
ただ立っているだけなのに隙がない。
本当に直接対決は避けたいな。
何よりハルちゃんが巻き込まれる。
要刑事はそのまま歩き去った。
ちゃんと駅まで見送ってあげた。
俺は今度こそ手を振った。
また明日ね。
要刑事。
何日でもつきあってあげるよ。
君が諦めるまで。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺は真夜中の夜道を走っていた。
ジャージの上はパーカーでマフラーに帽子。
どこからどう見ても深夜のマラソンだ。
パトロール中のパトカーに見られたけど、特に何も言われなかった。
住宅街の道に入ると、真夜中だから誰もいない。
俺はマラソンの走りから、ぐんぐんとスピードを上げていった。
忍び走りに変える。地面につくのは俺のつま先だけ。
もっと速度を上げていく。
目の前に下りの階段。
俺は階段の手すりに乗って、シャッと靴底を滑らせて降りた。
スピードをつけたまま、民家の塀へ跳ぶ。
ブロック塀の上を、スピードを落とさずに走った。
ここってやっぱり、夢なのかもしれない。
どんなに走っても息が上がらないし、疲れない。
汗だってかかないし、体が熱くなることもない。
でも丸ニ日走った時は、急に体が動かなくなったから、一応、限界はあるみたいだった。
住宅街の細い道は、大通りに面していた。
俺は塀の上から飛び降りて、スピードを緩めずに走った。
俺には、自分が走っている姿が見える。
大通りの状況も。
深夜で、車はまばらなのに、派手なトラックが走ってくる。
大通りの向こうから、小さな黒猫が、闇夜に紛れていた。
……バカだな。
猫ちゃん。
そのまま行ったらトラックに轢かれるよ。
俺は足を速めた。限界まで速度を上げる。
派手なトラックの目の前に、黒猫が飛び出した。
俺も同時にスライディングで飛び出して、黒猫を片手ですくい上げ、そのまま走り抜ける。
トラックは急ブレーキをかけて、少しだけ後輪をドリフトさせた。
キキーッ!!
激しいタイヤの音が、空気を切り裂いた。
トラックが完全に停止すると、運転席が開いて、おじさんが怒鳴り声を上げた。
「あ……危ねえじゃねえか!バカヤロウ!!」
おじさんはトラックを降りたけど、キョロキョロと辺りを見回して俺を探した。
……俺は上からそれを見ていた。
電柱に片手でぶら下がっている。俺の片手には黒猫が固まっていた。
よっぽどびっくりしたみたいだ。俺の腕の中で、ぬいぐるみのようにカチコチに固まっていた。
おじさんは不思議そうにしていたけど、まるで幽霊を見たかのような表情になって、慌ててトラックに乗り込むと走り去って行った。
俺は電柱を掴んでいる手を離した。
ストンと地面に降り立つと、黒猫を優しく下ろしてあげる。
猫ちゃんは慌てて走って行った。
俺は住宅街の方へ消えていく黒猫に、手を振った。
バイバイ。
もう飛び出しちゃダメだよ。
そのまま大通りを突っ切り、夜の街を走り続ける。
誰の目にも止まらないような、そんな速さで。
―――体を鍛える事は、呼吸をするのと同じ。
死んだ父さんがよく言っていた。
遺言も、ただ一言。
息をしろ。
それだけ。
ずっと父さんを殺したいと思っていた。
いつか殺されると思っていたから。
敵だと思っていた父さんが、実は味方だったと知ったのは、死んでからだ。
父は俺を足抜け……つまり堅気にしようとしていた。
組織からの足抜けを促した。だから殺された。
交通事故に見せかけられて。
高校の時、俺をやったのと同じ手口だ。
でも、それについて何か思ったりしたことはない。
どちらかというと、ほっとしていた。
血が繋がっていないからかもしれない。
父さんは俺を拾って育てた。
いや、育てたわけじゃない。
……生かしただけだ。
普通の家庭じゃない。そう気がついたのは小学校のときだった。
普通はご飯食べてるときに天井から刃物が降ってきたりしない。
寝ているときに首を絞められて殺されかけたりしない。
お風呂のときにいきなり沈められそうになることもない。
テストでいい点を取ったら、普通は褒められる。
でもうちは逆。
殴られる。
―――勉強する時間があるなら息をしろ。死にたいのか!
毎日、ナイフで肌を切られて、銃で脅されて、水に沈められて……でも違うんだ。
本気で俺を殺す気なら、とっくに生きてはいない。
父さんは俺の心を鍛えようとしていた。
殺されかける事に慣れるようにしていた。
そうやってもう一人の俺が生まれた。
親子喧嘩は、いつも殺し合い。
最後にやった派手な殺し合いは、大学受験を巡ってのことだ。
―――俺の才能は一つじゃない!
―――違う!お前の取り柄は暗殺だけだ!
大学は今しかできないカムフラージュで、学生の方が自由に動ける。
そう言って父さんを説き伏せた。
……殴り伏せたというか。
俺はその時初めて、父さんに勝った。
父さんに抱き締められた思い出なんか一度もない。
それでも、人前で頭を撫でてくれた時は嬉しかった。
父さんは。
俺を愛していた。
だから突き放した。
今なら、わかるよ。
父さん……
俺は走りながら、ハルちゃんの優しい微笑を思い出した。
大事なものは、しまっておくべきなんだ。
きれいにしておきたいものは、動かしちゃいけないんだ。
傷付けたくないなら、離れておくべきなんだ。
本当に大切なものは、遠くから見てなくちゃいけないんだ。
……でも。
あの時ほど、近くにいられない事が悔しいと思ったことはなかった。
五年前。
初めてハルちゃんの前で人を殺した。
ストーカーって怖い。
見ず知らずの男は、いきなりハルちゃんをさらった。
当時は住んでいた場所も別々で、通っていた大学も違くて。
週に何度か電話をするぐらいしか接点がなかった。
たまに偶然を装って、同じ電車に乗るくらいしかできなかった。
もし狙われている事を知っていたら、もっと早く助けられたのに。
ハルちゃんは秘密主義だから。
ストーキングに遭っていることを教えてくれなかった。
この時俺は、初めて赤い翼でよかったと思った。
組織には内緒で、自分の情報網を使った。
連絡が取れなくなって三日目。
やっと見つけ出した。
その時のハルちゃんを忘れられない。
暗い地下室で、ベッドに鎖で縛られて、目隠しされて……何度も犯されて……首に付いていた、ひどい青アザ。きっと何度も首を絞められたんだ。
しかも何か薬を飲まされて、ほとんど意識がなかった。
何かの薬品の匂い。
部屋中に張られたハルちゃんの写真。
狂ったような笑い声。
すぐに助けてあげたかったけど、できなかった。
犯人を自殺に見せかけて殺した。
そのまま、ほとぼりが冷めるまでアメリカに留学……
でも日本の大学に戻ったときは、そのことをすっかり忘れていた。
アメリカで何があったのか知らないけれど、そのこと自体を忘れている。
俺は余計に心配になった。
もし困ったことがあっても、ハルちゃんは何も話してくれない。
なんでも一人で解決しようとして、俺には何も見せてくれない。
別々に暮らしていて、違う大学に通っていたら、ハルちゃんに何かあったときに、気がついてやれない。
できれば大事なハルちゃんに近付きたくなかった。
きっと危険なことに巻き込んでしまうから。
けど、どうしようもなくなって家におしかけた。
あれからもう五年も経つのに。
―――油断してた。
まさかハルちゃんがこんなことに巻き込まれるなんて。
本人がセフレを作って遊んでいるとは知らなかったから。
だからこんなことに……
俺のせいだ。
俺が油断してたから、こんなことに。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「……あれ。」
考え事しながら走っていたら、目的地についていた。
二時間くらい走り続けたから、結構な距離だ。
ポケットから携帯を取り出して位置を確認する。
ああ、あのマンションだ。
俺は赤いレンガの素敵なマンションを見上げた。結構な高級マンションに見える。
……へぇ。
秘書ってやっぱり給料いいんだ。
ここの八階かぁ。
いいところに住んでるんだなぁ、サキちゃんって。
俺はマフラーで顔の半分を隠して、マンションの前を走って通り過ぎた。
うーん、やっぱりオートロックか。
となると、やっぱ裏かな。
真夜中のせいか、マンションの周辺には誰もいない。
俺は素早く周りを確認すると、マンションの駐車場に入った。
奥の鉄格子を見ると、そこに向かって一直線に走る。助走をつけて、そのまま跳んだ。
鉄格子を手に持って、思いっきり開脚。跳び箱の要領でそこを飛び越えて、マンションの中に侵入した。
……思った通り。裏には監視カメラがない。
だって入り口がないから。
非常階段の入り口に、鉄のドアがある。
俺は白い手袋のまま、それをそうっと引いてみた。
……カギが開いている。
非常階段の中には電気が付いていた。
―――やっぱり。
俺は予感が的中して、ふっとため息をついた。
そのまま音を立てずに中へ侵入する。
ゆっくりと階段を上りながら、耳を済ませた。
……誰かいる。
この上に、誰かが息をひそめていた。
俺はその人物に会いに来た。
音もなく八階まで登ると、そこに座り込んでいるスーツ姿に声をかけた。
「……こんばんは。橋本さん。」
「!!」
非常階段に響いた俺の声で、橋本主任は驚いて立ち上がった。
「な、なんっ……!」
俺は顔を隠しているし、ニット帽を被っているので、向こうからは俺がわからないと思う。
面識もないし。
それなのに、橋本主任はガクガクに震えていた。
「だ誰だ、お前は……!!」
俺は冷静に言った。
「今野咲は、来ないよ。」
「なにっ!?」
「今夜はここに帰って来ない。待ち伏せしてもムダだよ。朝まで他の男と一緒。」
橋本は俺を焦ったように指差した。
「お前っ、お前はっ……!サキのなんなんだ!」
俺は笑った。
「落ち着きなよ。フラれたのは、あんただけじゃない。」
「なに……!?」
「俺もそうなんだ。サキは俺とも付き合ってたんだ。あの女はね……あんたに遊ばれてる振りして、本当は遊んでたんだよ。俺ともね。」
「なっ……なんだとっ……!」
橋本の目に異常な光が見えた。敵意むき出しの目だ。
「あの……アバズレが……っ!」
俺はおかしくなって笑った。
この人が、あまりにも滑稽に見えて。
「ふふっ、あんた自分がサキより上だと思っていたんだね。あんたの言う事ならなんでも聞くと思ってたんだ。おもしろかったよ?あんたが主人ヅラして、サキに命令している姿はさぁ……実際に遊ばれていたのは、あんたの方だったのにね。あっははは……!」
俺が肩を震わせて笑うと、橋本は真っ赤な顔でポケットから包丁を取り出した。
「貴様ぁっ……!」
俺は、からかって笑った。
「あははっ……それなに?準備してたの?誰を刺す気だったの?」
橋本は興奮して怒鳴った。
「うるせぇっ!」
……やっぱりそうなんだ。
会社の屋上で、橋本主任はそのまま立ち去ったけど。
あんなに異常な殺気を放ってちゃ、誰だってわかるよ。
殺す気だったんだね。
サキちゃんを。
そんな度胸があるなら、今朝、彼女を助けてあげれば良かったのに。
自分より強い男に逆らう度胸はなくて。
自分より弱い女の子には、どこまでも強気で。
ホントは気が弱いくせに。
プライドだけが高くて。
「あの女ぁ、俺をコケにしやがって!ぶっ殺してやる……!」
「……へぇ、あんたにできんの?」
橋本は俺に血走った目を向けた。
「試してみるか?まずはお前からだ!」
俺はヘラヘラ笑った。
「どうぞ?」
「っ……!」
橋本は悔しそうにギリリと歯を食いしばると、俺に向かって突進してきた。
包丁を突き出しながら。
……バカだな。
こんなに狭い非常階段の踊り場で、そんなに勢いつけてどうするんだか。
勢い余って階段から落ちても知らないよ?
……殺意って、色がある。
白だ。
この人、ほんとに俺を殺す気なんだ。
包丁に稲妻のような白いものが、まとわりついている。
電気みたいに、パチパチ光ってる。
だからすぐにわかるよ。
あんたは会社の屋上でも光ってた。
俺は逃げなかった。
ただ、立ち位置を変えた。
たったそれだけの動きで、その刃物は避けられる。
だって、あまりに遅いから。
目の前を包丁が行過ぎる。
俺は右手を左横に振りかざした。
ついくせで、手の中から銀色のナイフがパチンと飛び出す。
おっと……危ない。
俺はそれを使わずに、飛び込んでくる橋本の喉を、肘で思いっきり打ち倒した。
「ぐうぅっっ!!」
まるで猫が潰れたような声を出して、橋本は非常階段の踊り場で倒れた。一瞬呼吸が止まったらしい。そのままのた打ち回る。
「ガハッ!ゲホゲホ……!」
橋本の持っていた包丁が、床でくるくると回転していた。
俺はその包丁を、靴で踏んで止めた。
「まったく……あんた素人なんだからさぁ。どうせやるなら、手首と包丁を縛って固定しておかないと、大事な時にずれるよ?」
「き、さま……何者だ……!ゴホッ、ゲホッ……」
俺は細いナイフを素早く袖の中へしまった。
軽く笑って、悶絶する橋本を冷たく見下ろした。
「……あんたを殺す気はない。でもついでだから、使い込みの清算でも受けてもらおうか。アテがあるんだろ?」
「なに……!なぜそれを……!!」
「サキを強盗に見せかけて殺せば、埋め合わせできるもんな。」
「っ……!」
愕然とする橋本を見下して、俺は微笑んだ。
「今後サキに近付いたら殺す……脅しじゃない。本気だ。」
「っ……ひっ……!」
橋本の表情が、見る見るうちに青くなった。
でも立ち上がれなくて、無様に尻込みする。
「本当は今からお前を殺せば済むことだけど……まぁ一回くらいはチャンスをやるよ。素人だしな。」
「う、うぅ……お、お前はっ……!」
俺はすっと目を細めた。
「ずっとサキを見てる……俺から逃げられると思うなよ。」
俺は軽い足音を立てて、一瞬で間合いを詰めた。
逃げられる前に、橋本のこめかみを目掛けて、右足を降り抜く。
まるでサッカーボールを蹴るように。
ドゴォッ!
「グッ……!!」
橋本は頭を蹴り飛ばされ、うめき声を漏らした。
もちろん本気じゃない。
俺が本気で蹴ったら死なれちゃうから。
でも橋本は、そのままがっくりと弛緩した。
「……オヤスミ。」
俺は動かなくなった男をじっと見下ろして、ため息をついた。
「はぁ……」
……サキちゃんて、ほんとに男運が悪いんだなぁ。
パチスロ覚せい剤の次は、ほかの人と結婚してる勘違いストーカー。
しかも会社のお金を使い込んでいた。
きっと調べられたら警察にバレちゃうだろうね。
そして……
その次も。
俺は、クッと目を細めた。
暗殺者とはね……
しかも、サキちゃんの事なんかどうでもいいと思っているようなヤツだ。
ただ、呼吸のついでだから、助けただけ。
さっき助けた、あの黒猫と同じ程度だよ。
……ごめんね。
本当はどうでもいいんだ。
―――君のことも。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺は気を失っている橋本をそのままにして、元の通りのルートで外に出た。
一番近くの公衆電話から、非常ボタンを押して警察へ電話。
電話の向こうは冷静な男の人が出た。
「警察です、事件ですか、事故ですか?」
俺は自分の中では一番高い声を出した。
「あたし、この近くのマンションに住んでるんですけどぉ、変な男の人が刃物持って、大声で叫んでるんですぅ。怖くって眠れないわぁ。なんとかしてよぉ。」
「え、どこのマンションですか?住所と、あなたのお名前を教えてください。」
「……」
俺はそのまま何も言わずに受話器を置いて電話を切った。
最近の警察は、ちゃんと発信元をわかっている。
俺は電話ボックスを飛び出して、真夜中の街を走った。
急いでサキちゃんが眠るホテルへ戻る。
誰かに、見られない内に。