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05.呼吸

夜。

俺はシャワーを浴びていた。

いつものラブホテルだ。

俺の頭の上からは、湯気の立つお湯が降り注がれている。

でも……熱いのか、ぬるいのか、冷たいのか。

俺にはよくわからない。

ただ濡れた感触。

湯気が立っているし温度が表示されてるから、きっとあったかいんだと思う。

俺は女の子の匂いを消すためにシャワーを浴びた。

匂いなんて俺にはよくわからないけど。

だからこそ気になるから。


シャワーを止めてバスタオルで体を拭く。頭をゴシゴシ拭きながら、でっかいダブルベッドの中を覗き込んだ。そこにはハダカの女の子が熟睡している。

……サキちゃん、寝顔もきれいだね。

ハルちゃんに似ている子のAV映像は、かなり燃えた。

でもハルちゃんじゃない。

決定的に違うのは、サキちゃんは俺の現実じゃないってこと。

ついでに性別かな。

ま……どうでもいいよ。性別なんて。

ハルちゃんは性別を超えた存在だから。

……俺の神様だから。


俺はパンツだけ穿くと、短いタオルを熱いと思われるお湯に浸して絞る。

「きれいにしてあげるね。」

一応話しかけて、ぐったりとした女の子の体を優しく拭いてあげた。

サキちゃんの体はふにゃふにゃしていたけど、適度に引き締まっている。土曜日にジムに行くのが趣味だと言っていた。

かっこいいプロポーションだなぁ。

きっとハルちゃんが女の子なら、やっぱりこんな感じ。

でもハルちゃんは運動なんかしないんだろうな。

ハダカは見た事がない。


……いや……

本当は一度だけ見たことがあるけど。

本人は覚えていない。

だから。

昼間の俺も覚えていない。

でも今は。

どうやったらもう一度見れるか、女の子とエッチする度に考えてる。


濡れたタオルで体中を拭いているのに、サキちゃんはピクリともしなかった。

「……よく効くね。」

睡眠薬。

俺はサキちゃんを拭き終わると、大きなバスタオルで包んであげた。

お腹周りはもう一枚厳重に。

女の子は冷えるといけないしね。

その上から、軽い毛布と、ふかふかの羽毛布団を丁寧にかけてあげた。

これでよし。

明日は土曜日だからね。朝までゆっくりオヤスミ。

俺の……夢の中の人。


俺は首にかけているタオルで、まだ自分の頭を乱暴に拭く。

そのまま液晶テレビの後ろに回った。床に近い壁を押すと、そこがひっくり返る。

俺は中にあるボタンを押した。カチンと遠くで音がする。俺にしかわからない程度の、小さな音。

俺はそこを元通りにすると、トイレに入った。

トイレのタンク……その奥の壁が少しだけ浮いている。

俺はそこを迷わず押した。


中は真っ暗だ。

右手の壁のスイッチを押すと、やけに明るいライトが中を照らした。

六畳ほどの小さな部屋だ。パイプ椅子と小さな机がぽつんとある。机の上には、いつくかの携帯電話が並んでいた。突き当りには、服を入れるケースがある。

その隣のパイプの棚には、簡単な医療道具と俺の商売道具。

狭い部屋の奥には、黒くて四角い箱。

中身は大量の札束。

なぜかあるんだ。

……お金なんて。

どうでもいいのに。


俺は突き当たりのクリアケースから黒のジャージを取り出して、手早く着た。そこにある白い靴下に、安めのジョギングシューズも履いた。ニットの帽子に、フリース生地のマフラーも身につけた。白くて薄い手袋をはめる。


……女の子なら誰でもいいんだ。

ここの隠し部屋を使いたいから。

ただ、それだけ。

朝まで女の子と一緒にいたってことになっていれば、あとはどうでもいいしね。

サキちゃんは……これからも、使えそうだ。


俺は机の上の携帯電話を一つ取った。

履歴は、たった一つしかない。俺はそこに電話をかけた。

しばらくして女の人が出る。

「……あら、結構のんびりしていたわね。今夜はもう寝るのかと思ったわ。」

俺は少し笑った。

「ふふ……冗談。一日何もしないと、遅れを取り戻すのに二日かかるんだよ?」

「へぇ、そういうモノ?」

「そうそ。事務員さんにはわからないかもしれないけどさ。」

女の人は少し笑った。

「……そうね。でも、いつもより遅いじゃない。そんなに燃えちゃった?」

「……」

「ふふ……似ているものね。あなたのKey(カギ)に。」

カチンときた。

大事なハルちゃんを、そんな風にからかわれたくない。

でも俺は、ふふっと笑った。

「それ……言ったら殺すよ?前にもそう言ったはずだけど?」

「……冗談よ。自分より上のコードメンバーに逆らったりしないわ……J」

「ふぅん……スリル求めてるのかと思った。」

「……まさか、くせになったりしないわ。」

「……」

昨日と同じこと、言うんだね。


俺専属のUは、ため息をついてから言った。

「今夜も何も命令はないわよ。最近、めっきりヒマになったわね。」

「ふぅん、いいことじゃない。嬉しいね。」

「ええ……そうね。」

最近、ヒマになったのは、俺を動かしたくないからだ。

そこに(エース)の慎重な思惑がある。

それを……彼女は知らない。


俺は気を取り直して言った。

「それより俺、昨日からつけられてるみたいなんだけど。」

「え?」

彼女は、緊張した声を出した。

「……誰?」

「心配ないよ。俺の顔見知り。」

「そう……もしかして消すの?」

「んにゃ……放っておくよ。どうせすぐ諦める。」

「ふぅん……でも、そんなの初めてじゃない?気になるわね。何者?」

「ああ、刑事さんだよ。」

彼女は急に焦ったように言った。

「……ちょっと!ほんとに放っておく気?」

「うん、むしろ放っておいた方がいいよ。」

「どうして?」

「……あの人普通じゃないんだ。半日も、つけられていることに気が付かなかった。尾行の仕方も、かなり離れている。下手に動くと危ないよ。」

「……そう、あなたがそう言うなら。」

……冗談。

ハルちゃんを巻き込めるかってぇの。

俺はちょっとだけ笑うと移動した。

話しながらトイレから出る。

「大丈夫だよ、俺は尻尾を出さない……絶対にね。」

なぜなら……昼間の俺は全部。

ウソじゃないから。

あんなに頭のいいハルちゃんも。

ウソじゃない俺を、見抜くことはできない。


「……そうね、それは知っているわ。もし動きがあったら教えてちょうだい。それまでは上に黙っておくから。」

「ありがと。」

俺はサキちゃんのカバンを開けた。

なるべく中を動かさないように、黒くて長いサイフだけ指でつまんで取り出す。手袋のまま中を開けて、免許証を取り出した。

「一枚、地図を送ってくれる?今から住所言うし。」

「いいわよ。」

俺はそこに書いてある住所を言った。

「おっけー、切ったらこの携帯に送るわ。」

「ありがと。」

「じゃあね。」

携帯を切ると、そのまま免許証と財布を元通りにしまった。

「……いってきます。」

すやすや眠るサキちゃんに話しかけて、俺は部屋を出た。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


俺を乗せたエレベーターは、下へ行かずに上へ登っていった。

最上階から非常階段で屋上へ。

重たい鉄のドアを開くと、そこはビル風に包まれていた。


俺はマフラーで顔の下半分を隠すと、屋上から下の道を覗き込んだ。

……誰もいないみたいだ。

一つ息を吐く。集中の準備だ。

そして……いきなり屋上から飛び降りた。


落ちる途中で、壁を蹴る。

向かいのビルの非常階段へ飛び移った。

ビィィン……

飛び移った先の手すりが鳴る。

あれ、ちょっと失敗だ。

俺はそれを手で掴んで止めた。


そのまま階段で下りる。

足音を立てないように、つま先だけで。

地面までたどり着いた先に。

要刑事が歩いていた。


彼は後ろ姿だ。

駅まで歩いている途中みたいだった。

俺は身を潜めながら感心した。

……へぇ。

まだいたんだ。

寒いだろうに、ご苦労さま。

でも、もう帰るみたいだ。夜はこれからなのにねぇ。

俺は小さく手を振った。

バイバイ。

すると要刑事は立ち止まった。

……おっとぉ?


俺は、さっと隠れた。

こっそり様子を見ると、要刑事は上を向いて、ぐるっと空を見渡している。

雑居ビルの立ち並ぶ、狭い空。

……ふぅん……

やっぱりこの人。

普通じゃない。


要刑事が見ているのは、夜空なんかじゃない。

……知っているんだ。

俺たちが、上を移動できることを。


頭の上なんて誰も見ないから、移動しやすい。

やっぱり下に降りてきて正解だ。

あのまま移動していたら、見つかるところだった。


……でもすごいな。

あの人。

ただ立っているだけなのに隙がない。

本当に直接対決は避けたいな。

何よりハルちゃんが巻き込まれる。


要刑事はそのまま歩き去った。

ちゃんと駅まで見送ってあげた。

俺は今度こそ手を振った。


また明日ね。

要刑事。

何日でもつきあってあげるよ。

君が諦めるまで。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


俺は真夜中の夜道を走っていた。

ジャージの上はパーカーでマフラーに帽子。

どこからどう見ても深夜のマラソンだ。

パトロール中のパトカーに見られたけど、特に何も言われなかった。

住宅街の道に入ると、真夜中だから誰もいない。

俺はマラソンの走りから、ぐんぐんとスピードを上げていった。

忍び走りに変える。地面につくのは俺のつま先だけ。

もっと速度を上げていく。

目の前に下りの階段。

俺は階段の手すりに乗って、シャッと靴底を滑らせて降りた。

スピードをつけたまま、民家の塀へ跳ぶ。

ブロック塀の上を、スピードを落とさずに走った。


ここってやっぱり、夢なのかもしれない。

どんなに走っても息が上がらないし、疲れない。

汗だってかかないし、体が熱くなることもない。

でも丸ニ日走った時は、急に体が動かなくなったから、一応、限界はあるみたいだった。


住宅街の細い道は、大通りに面していた。

俺は塀の上から飛び降りて、スピードを緩めずに走った。

俺には、自分が走っている姿が見える。

大通りの状況も。

深夜で、車はまばらなのに、派手なトラックが走ってくる。

大通りの向こうから、小さな黒猫が、闇夜に紛れていた。

……バカだな。

猫ちゃん。

そのまま行ったらトラックに轢かれるよ。


俺は足を速めた。限界まで速度を上げる。

派手なトラックの目の前に、黒猫が飛び出した。

俺も同時にスライディングで飛び出して、黒猫を片手ですくい上げ、そのまま走り抜ける。

トラックは急ブレーキをかけて、少しだけ後輪をドリフトさせた。

キキーッ!!

激しいタイヤの音が、空気を切り裂いた。


トラックが完全に停止すると、運転席が開いて、おじさんが怒鳴り声を上げた。

「あ……危ねえじゃねえか!バカヤロウ!!」

おじさんはトラックを降りたけど、キョロキョロと辺りを見回して俺を探した。


……俺は上からそれを見ていた。

電柱に片手でぶら下がっている。俺の片手には黒猫が固まっていた。

よっぽどびっくりしたみたいだ。俺の腕の中で、ぬいぐるみのようにカチコチに固まっていた。

おじさんは不思議そうにしていたけど、まるで幽霊を見たかのような表情になって、慌ててトラックに乗り込むと走り去って行った。


俺は電柱を掴んでいる手を離した。

ストンと地面に降り立つと、黒猫を優しく下ろしてあげる。

猫ちゃんは慌てて走って行った。

俺は住宅街の方へ消えていく黒猫に、手を振った。

バイバイ。

もう飛び出しちゃダメだよ。


そのまま大通りを突っ切り、夜の街を走り続ける。

誰の目にも止まらないような、そんな速さで。


―――体を鍛える事は、呼吸(いき)をするのと同じ。

死んだ父さんがよく言っていた。

遺言も、ただ一言。

息をしろ。

それだけ。


ずっと父さんを殺したいと思っていた。

いつか殺されると思っていたから。

敵だと思っていた父さんが、実は味方だったと知ったのは、死んでからだ。

父は俺を足抜け……つまり堅気にしようとしていた。

組織からの足抜けを促した。だから殺された。

交通事故に見せかけられて。

高校の時、俺をやったのと同じ手口だ。

でも、それについて何か思ったりしたことはない。

どちらかというと、ほっとしていた。

血が繋がっていないからかもしれない。

父さんは俺を拾って育てた。

いや、育てたわけじゃない。

……生かしただけだ。

普通の家庭じゃない。そう気がついたのは小学校のときだった。

普通はご飯食べてるときに天井から刃物が降ってきたりしない。

寝ているときに首を絞められて殺されかけたりしない。

お風呂のときにいきなり沈められそうになることもない。

テストでいい点を取ったら、普通は褒められる。

でもうちは逆。

殴られる。

―――勉強する時間があるなら息をしろ。死にたいのか!


毎日、ナイフで肌を切られて、銃で脅されて、水に沈められて……でも違うんだ。

本気で俺を殺す気なら、とっくに生きてはいない。

父さんは俺の心を鍛えようとしていた。

殺されかける事に慣れるようにしていた。

そうやってもう一人の俺が生まれた。


親子喧嘩は、いつも殺し合い。

最後にやった派手な殺し合いは、大学受験を巡ってのことだ。

―――俺の才能は一つじゃない!

―――違う!お前の取り柄は暗殺だけだ!

大学は今しかできないカムフラージュで、学生の方が自由に動ける。

そう言って父さんを説き伏せた。

……殴り伏せたというか。

俺はその時初めて、父さんに勝った。


父さんに抱き締められた思い出なんか一度もない。

それでも、人前で頭を撫でてくれた時は嬉しかった。

父さんは。

俺を愛していた。

だから突き放した。

今なら、わかるよ。

父さん……

俺は走りながら、ハルちゃんの優しい微笑を思い出した。


大事なものは、しまっておくべきなんだ。

きれいにしておきたいものは、動かしちゃいけないんだ。

傷付けたくないなら、離れておくべきなんだ。

本当に大切なものは、遠くから見てなくちゃいけないんだ。


……でも。

あの時ほど、近くにいられない事が悔しいと思ったことはなかった。

五年前。

初めてハルちゃんの前で人を殺した。


ストーカーって怖い。

見ず知らずの男は、いきなりハルちゃんをさらった。

当時は住んでいた場所も別々で、通っていた大学も違くて。

週に何度か電話をするぐらいしか接点がなかった。

たまに偶然を装って、同じ電車に乗るくらいしかできなかった。

もし狙われている事を知っていたら、もっと早く助けられたのに。

ハルちゃんは秘密主義だから。

ストーキングに遭っていることを教えてくれなかった。


この時俺は、初めて赤い翼でよかったと思った。

組織には内緒で、自分の情報網を使った。

連絡が取れなくなって三日目。

やっと見つけ出した。


その時のハルちゃんを忘れられない。

暗い地下室で、ベッドに鎖で縛られて、目隠しされて……何度も犯されて……首に付いていた、ひどい青アザ。きっと何度も首を絞められたんだ。

しかも何か薬を飲まされて、ほとんど意識がなかった。

何かの薬品の匂い。

部屋中に張られたハルちゃんの写真。

狂ったような笑い声。


すぐに助けてあげたかったけど、できなかった。

犯人を自殺に見せかけて殺した。

そのまま、ほとぼりが冷めるまでアメリカに留学……

でも日本の大学に戻ったときは、そのことをすっかり忘れていた。

アメリカで何があったのか知らないけれど、そのこと自体を忘れている。


俺は余計に心配になった。

もし困ったことがあっても、ハルちゃんは何も話してくれない。

なんでも一人で解決しようとして、俺には何も見せてくれない。

別々に暮らしていて、違う大学に通っていたら、ハルちゃんに何かあったときに、気がついてやれない。

できれば大事なハルちゃんに近付きたくなかった。

きっと危険なことに巻き込んでしまうから。

けど、どうしようもなくなって家におしかけた。

あれからもう五年も経つのに。


―――油断してた。

まさかハルちゃんがこんなことに巻き込まれるなんて。

本人がセフレを作って遊んでいるとは知らなかったから。

だからこんなことに……

俺のせいだ。

俺が油断してたから、こんなことに。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……あれ。」

考え事しながら走っていたら、目的地についていた。

二時間くらい走り続けたから、結構な距離だ。

ポケットから携帯を取り出して位置を確認する。

ああ、あのマンションだ。

俺は赤いレンガの素敵なマンションを見上げた。結構な高級マンションに見える。

……へぇ。

秘書ってやっぱり給料いいんだ。

ここの八階かぁ。

いいところに住んでるんだなぁ、サキちゃんって。


俺はマフラーで顔の半分を隠して、マンションの前を走って通り過ぎた。

うーん、やっぱりオートロックか。

となると、やっぱ裏かな。

真夜中のせいか、マンションの周辺には誰もいない。

俺は素早く周りを確認すると、マンションの駐車場に入った。


奥の鉄格子を見ると、そこに向かって一直線に走る。助走をつけて、そのまま跳んだ。

鉄格子を手に持って、思いっきり開脚。跳び箱の要領でそこを飛び越えて、マンションの中に侵入した。

……思った通り。裏には監視カメラがない。

だって入り口がないから。


非常階段の入り口に、鉄のドアがある。

俺は白い手袋のまま、それをそうっと引いてみた。

……カギが開いている。

非常階段の中には電気が付いていた。

―――やっぱり。

俺は予感が的中して、ふっとため息をついた。


そのまま音を立てずに中へ侵入する。

ゆっくりと階段を上りながら、耳を済ませた。

……誰かいる。

この上に、誰かが息をひそめていた。

俺はその人物に会いに来た。


音もなく八階まで登ると、そこに座り込んでいるスーツ姿に声をかけた。

「……こんばんは。橋本さん。」

「!!」

非常階段に響いた俺の声で、橋本主任は驚いて立ち上がった。

「な、なんっ……!」

俺は顔を隠しているし、ニット帽を被っているので、向こうからは俺がわからないと思う。

面識もないし。

それなのに、橋本主任はガクガクに震えていた。

「だ誰だ、お前は……!!」

俺は冷静に言った。

「今野咲は、来ないよ。」

「なにっ!?」

「今夜はここに帰って来ない。待ち伏せしてもムダだよ。朝まで他の男と一緒。」

橋本は俺を焦ったように指差した。

「お前っ、お前はっ……!サキのなんなんだ!」

俺は笑った。

「落ち着きなよ。フラれたのは、あんただけじゃない。」

「なに……!?」

「俺もそうなんだ。サキは俺とも付き合ってたんだ。あの女はね……あんたに遊ばれてる振りして、本当は遊んでたんだよ。俺ともね。」

「なっ……なんだとっ……!」

橋本の目に異常な光が見えた。敵意むき出しの目だ。

「あの……アバズレが……っ!」

俺はおかしくなって笑った。

この人が、あまりにも滑稽に見えて。

「ふふっ、あんた自分がサキより上だと思っていたんだね。あんたの言う事ならなんでも聞くと思ってたんだ。おもしろかったよ?あんたが主人ヅラして、サキに命令している姿はさぁ……実際に遊ばれていたのは、あんたの方だったのにね。あっははは……!」

俺が肩を震わせて笑うと、橋本は真っ赤な顔でポケットから包丁を取り出した。

「貴様ぁっ……!」

俺は、からかって笑った。

「あははっ……それなに?準備してたの?誰を刺す気だったの?」

橋本は興奮して怒鳴った。

「うるせぇっ!」

……やっぱりそうなんだ。

会社の屋上で、橋本主任はそのまま立ち去ったけど。

あんなに異常な殺気を放ってちゃ、誰だってわかるよ。

殺す気だったんだね。

サキちゃんを。

そんな度胸があるなら、今朝、彼女を助けてあげれば良かったのに。

自分より強い男に逆らう度胸はなくて。

自分より弱い女の子には、どこまでも強気で。

ホントは気が弱いくせに。

プライドだけが高くて。


「あの女ぁ、俺をコケにしやがって!ぶっ殺してやる……!」

「……へぇ、あんたにできんの?」

橋本は俺に血走った目を向けた。

「試してみるか?まずはお前からだ!」

俺はヘラヘラ笑った。

「どうぞ?」

「っ……!」

橋本は悔しそうにギリリと歯を食いしばると、俺に向かって突進してきた。

包丁を突き出しながら。

……バカだな。

こんなに狭い非常階段の踊り場で、そんなに勢いつけてどうするんだか。

勢い余って階段から落ちても知らないよ?


……殺意って、色がある。

白だ。

この人、ほんとに俺を殺す気なんだ。

包丁に稲妻のような白いものが、まとわりついている。

電気みたいに、パチパチ光ってる。

だからすぐにわかるよ。

あんたは会社の屋上でも光ってた。


俺は逃げなかった。

ただ、立ち位置を変えた。

たったそれだけの動きで、その刃物は避けられる。

だって、あまりに遅いから。

目の前を包丁が行過ぎる。

俺は右手を左横に振りかざした。


ついくせで、手の中から銀色のナイフがパチンと飛び出す。

おっと……危ない。

俺はそれを使わずに、飛び込んでくる橋本の喉を、肘で思いっきり打ち倒した。

「ぐうぅっっ!!」

まるで猫が潰れたような声を出して、橋本は非常階段の踊り場で倒れた。一瞬呼吸が止まったらしい。そのままのた打ち回る。

「ガハッ!ゲホゲホ……!」

橋本の持っていた包丁が、床でくるくると回転していた。

俺はその包丁を、靴で踏んで止めた。

「まったく……あんた素人なんだからさぁ。どうせやるなら、手首と包丁を縛って固定しておかないと、大事な時にずれるよ?」

「き、さま……何者だ……!ゴホッ、ゲホッ……」

俺は細いナイフを素早く袖の中へしまった。

軽く笑って、悶絶する橋本を冷たく見下ろした。

「……あんたを殺す気はない。でもついでだから、使い込みの清算でも受けてもらおうか。アテがあるんだろ?」

「なに……!なぜそれを……!!」

「サキを強盗に見せかけて殺せば、埋め合わせできるもんな。」

「っ……!」

愕然とする橋本を見下して、俺は微笑んだ。

「今後サキに近付いたら殺す……脅しじゃない。本気だ。」

「っ……ひっ……!」

橋本の表情が、見る見るうちに青くなった。

でも立ち上がれなくて、無様に尻込みする。

「本当は今からお前を殺せば済むことだけど……まぁ一回くらいはチャンスをやるよ。素人だしな。」

「う、うぅ……お、お前はっ……!」

俺はすっと目を細めた。

「ずっとサキを見てる……俺から逃げられると思うなよ。」

俺は軽い足音を立てて、一瞬で間合いを詰めた。

逃げられる前に、橋本のこめかみを目掛けて、右足を降り抜く。

まるでサッカーボールを蹴るように。

ドゴォッ!

「グッ……!!」

橋本は頭を蹴り飛ばされ、うめき声を漏らした。

もちろん本気じゃない。

俺が本気で蹴ったら死なれちゃうから。

でも橋本は、そのままがっくりと弛緩した。

「……オヤスミ。」


俺は動かなくなった男をじっと見下ろして、ため息をついた。

「はぁ……」

……サキちゃんて、ほんとに男運が悪いんだなぁ。

パチスロ覚せい剤の次は、ほかの人と結婚してる勘違いストーカー。

しかも会社のお金を使い込んでいた。

きっと調べられたら警察にバレちゃうだろうね。

そして……

その次も。

俺は、クッと目を細めた。

暗殺者アサシンとはね……


しかも、サキちゃんの事なんかどうでもいいと思っているようなヤツだ。

ただ、呼吸(いき)のついでだから、助けただけ。

さっき助けた、あの黒猫と同じ程度だよ。

……ごめんね。

本当はどうでもいいんだ。

―――君のことも。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


俺は気を失っている橋本をそのままにして、元の通りのルートで外に出た。

一番近くの公衆電話から、非常ボタンを押して警察へ電話。

電話の向こうは冷静な男の人が出た。

「警察です、事件ですか、事故ですか?」

俺は自分の中では一番高い声を出した。

「あたし、この近くのマンションに住んでるんですけどぉ、変な男の人が刃物持って、大声で叫んでるんですぅ。怖くって眠れないわぁ。なんとかしてよぉ。」

「え、どこのマンションですか?住所と、あなたのお名前を教えてください。」

「……」

俺はそのまま何も言わずに受話器を置いて電話を切った。

最近の警察は、ちゃんと発信元をわかっている。

俺は電話ボックスを飛び出して、真夜中の街を走った。

急いでサキちゃんが眠るホテルへ戻る。

誰かに、見られない内に。



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