03.雨
俺は自分のベッドで夢を見ていた。
今回は悪夢じゃない。ちゃんとした夢だ。
でもハルちゃん抜きの現実よりリアルだった。
俺はブレザーの制服で、ぼうっとしていた。
学校の近くの商店街を歩いていた。
手にカバンは持っているけど、いつもより軽い。
体育バックがないから。
今にも雨が降り出しそうな空。
どんよりしてて、薄暗い。
色褪せている世界が、もっと暗く見えた。
時間は夕方。
でも、もうすでに真っ暗だ。雲がどんよりとしているから。
俺は、トボトボ歩く自分を見ながら、わけがわからなくなっていた。
なんで、どうでもいいのに……こんなにショックなんだろう。
サッカーできなくなったからって、なんだっていうんだ。
どうでもいいよ。
そんなコト。
それなのに俺の胸の奥は、空と同じように、どんよりした雲が立ち込めていた。
……足なんて痛くないのに。
事故った時は骨がバラバラになったけど。
でもあれは事故じゃなかった。わざと俺を狙った。だってあの車、一度俺を轢いてバックしてきたし。でも痛くなかった。自分の血の色でさえ白黒に近い。
やっぱこの世界って、現実じゃないんだ。
だって痛くない。
それに恐くなかったし。
お墓の方が、よっぽど恐いよ。
でも……夢の中なのに、サッカーできないんだ。
……なんでかな。
お医者さんがダメって言ったから?
なんでダメなのかな。痛くないのに。
いいじゃないか。夢の中なんだから、歩けなくなったって。
でもサッカー部のみんなは、俺を相手にしてくれなかった。
あんなに楽しくやってたのに。
手の平を返したように。
みんな、サッカーのできない俺には用がないんだ。
だから口も利いてくれないんだ。
俺は気分が落ち込んで、歩きながらため息をついた。
……どうでもいいよ。
……そんなコト。
どうでもいいのに。
なんだか変だ。ぼうっとして……
商店街を歩いている人たちも、どこかぼんやりしている。
塾に行く子供……
買い物中の主婦……
店のおじちゃん……
変だな……いつもより、よく見えないや。
俺は濃い霧のかかる街を歩きながら、ぼんやり考えた。
もしかしたら……俺が何かやっちゃえば、警察に捕まるのかな。
そしたら警察は俺たちのこと、調べてくれるよね。
今まで、当たり前すぎて気付かなかった。
警察に言えばいいんじゃん。
―――殺される前に。
でも、なにかキッカケがないとさぁ……やりにくいよね。
ふっと近くにあった本屋に入った。
じゃあ……なんでもいいよね。とにかく、何かやればいいんだから。
でも……こんなことするの、初めてだ……
これだって、どうでもいいコトだよね……
だって夢の中なんだから……
目の前にあった本に手を伸ばして……自分のカバンに入れようとした。
でもその瞬間。
あったかい手が、俺の手首を掴んだ。
「!」
俺はびっくりして顔を上げると、そこには……
きれいな人がいた。
黒縁眼鏡をかけたその人は、息を切らしていた。走った後みたいだ。
「……運動部三年A組。杉田友宏だな。」
まるで警察みたいな喋り方だけど、俺と同じ制服を着ている。
襟足の長い黒髪だ。前髪も伸びてしまっていた。目に入りそうだ。
その目は少し吊りあがっていて、二重だった。
白い頬に、薄紅色の唇。
俺はその人に見とれている間に、変なことに気が付いた。
あ……あれ……
あれ……?おかしいよ!?
俺が見えない。
俺はそれにびっくりして、キョロキョロと周りを見た。
なんて鮮やかな世界。
聞こうともしていないのに、勝手に音が耳に入ってくる。
それなのに自分が見えない。俺の視界だけだ。
まるで……自分の目だけで、見ているようだった。
すると、きれいな人は言った。
「……落ち着け。まだ未遂だ。」
「え……?」
その人は俺の手から本を取ると、その辺に置いた。
「来い。」
短く言って、そのまま俺の手首を引っ張る。
「あ……」
なにがなんだかわからなくなって、俺はそのままズルズル引きずられた。
俺は連れて行かれている間、ずっとキョロキョロしていた。
相変わらず空はどんよりしていて、夜みたいに暗いのに……
なんて……鮮やかな世界なんだ!
小学生が赤い自転車に乗っている。真っ赤だ。見たことないくらいに赤い。
中年の主婦が、薄い黄色のカバンを持っていた。でもぼんやりしているわけじゃない。ハッキリしている。買い物袋からはみ出したネギが見える。鮮やかな緑色だ。
すごい……!
聞かなくても、勝手に音が耳に流れ込んでくる。
遠くの車の音、自分の足音。
八百屋のおじさんが手を叩いてお客さんを呼び込みしている。
すれ違った人のイヤホンから、シャカシャカと音が漏れていた。
頬に、風を感じた。
俺の髪が揺れている。
いい匂いがする。
え……匂い?
匂いなんて、俺……!
な、何の匂い!?
まさか……この人の……!
俺の先を行くその人の匂いは、おいしそうなカレーの匂いとは違った。
わさびのツンとした匂いでもない。
芳香剤のキツイ香りでもない……
ふんわりふわふわ。
いーい匂い。
さっきまでとは、まるで別の世界だ。
俺は初めて、ここが現実だと……思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺に現実を見せたその人は、近くの公園に入って、俺の手を離した。
そこは広い公園だ。サイクリングコースで小学生たちが自転車で遊んでいた。
「あ……」
その人に手を離された瞬間。
また夢の中のような、ぼんやりした風景に戻った。
俺が、俺を見ている。
周りの景色も見える。
ただし、ぼんやりしたまま。
まるで曇りガラスを通して見ているようだった。
俺は、がっかりしてその人を見たら……
「……!」
なんと、その人だけが、鮮やかだった。
いや、その人と、その周りだけが……丸く切り取られたように、まるで穴があいたように、その人の後ろがよく見える。
う、うそ……なにこれ……
俺は思わず言いそうになった。
……なんだろ、これ……
今、何が起きているんだろう……
俺は開いた口が塞がらなかった。
その人は、眼鏡の奥から呆然とする俺を睨んだ。
「まったく……何を考えてるんだ。あんな目立つところで……」
「え?」
俺は首をかしげた。
本当に何のことだか、わからなかったから。
「やるなら、もっとうまくやれよ。面倒かけやがって……まったく。」
「……君……誰……?」
するとその人は、呆れたように俺を見た。
「なんだ。お前は自分の学校の生徒会メンバーも…………知るわけないか。運動部が自由参加の生徒集会に出席するはずがない。」
「生徒会……」
「そうだ。お前ら運動部は、部費問題になると血相を変えるくせに、いつも……」
一度言葉を切って、つまらなそうに言った。
「……まあいい。」
その人は、バカらしいという表情をした後で言った。
「進学部三年B組、城戸春人。生徒会書記だ。」
「きど……はると……」
「覚えなくていい。俺はお前の犯罪を止めるために、わざわざ声をかけた訳じゃない。」
「え、犯罪?」
俺はなんだかわからなくて、また首をかしげた。
「そうだ。万引きは立派な窃盗罪にあたる。これは覚えておけよ。」
「あ……そっか。」
ハルちゃんは呆れたように言った。
「どうせ、なんでもよかったんだろ?あの本が欲しかった訳じゃない。」
「え……うん……なんでわかんの?」
ハルちゃんは、一つため息をついた。
「お前が『日本経済の夜明け』なんていう刊行本を欲しがる訳がないだろう。」
「ああ……そう……」
そんな本だったんだ。
あんまり見てなかったから、よくわからなかった。
「犯罪なんかやめておけ。リスクが高すぎる。しかも何の解決にもならないぞ。もしストレスがたまっているなら、別の方法を考えるんだな。」
「う、うん……」
「それに、お前には無理だ。初めてなんだろ?バレバレなんだよ、挙動不審め。」
「う……ごめん。」
ハルちゃんは畳み掛けるように言った。
「……やってしまえば、謝って済む問題じゃなくなるんだぞ。小学生じゃあるまいし。」
「だからっ、ご、ごめんって……」
ハルちゃんは、またため息をついた。
「まあいい。俺はそんな説教臭いことを言いに来たわけじゃない。」
「え?」
「これだ。」
ハルちゃんはそう言って、自分の学生カバンの中から紙を二枚ほど取り出した。
俺は首を傾げたけど、それを受け取った。
なにこれ。
補習授業のお知らせ……?
「単位が足りないようだな、杉田。このままじゃ卒業できないぞ。」
「へ?」
俺はびっくりして、ハルちゃんを見た。
鮮やかな彼を見ながら、慌てて言う。
「じ、授業にはちゃんと出てるよ!?サボってないし!」
「ああ。退院してからはな。だがそれだけじゃ足りないんだ。入院中に単位を落としている。」
「へえぇ……」
「今年中に、単位の足りない不良どもを集めて、補習授業を行うことになった。それに出席すれば、ちゃんと卒業できるらしい。よかったな。」
「うへぇ……」
俺は嫌な顔してみせたけど。
なんだ。
そんなどうでもいいこと、言いに来たのか。
「まったく本来なら先生がやらなければならない事を、なぜか俺が……されて……まだあと二人ほど……冗談じゃ……できれば校内で渡し……不良どもめ……何を考えて……」
ハルちゃんはブツブツと何か言っていたが、俺はほとんど聞いていなかった。
二枚のプリントを持ったまま、じっとハルちゃんの手の周り……
現実と夢の境目をじっと見ていた。
なんなんだろう、これ。
モヤモヤと、クッキリの境目。
こ……この辺かなぁ。
「おい、聞いているのか?」
急にきれいな人に覗き込まれて、ドキッとした。
「う、うん……ごめん。」
でもそのドキッは、そのまま止まらなくて、ずっと胸の奥でトクトクしていた。
なんだろ。これ……
ほんとに、変だ。こんなの初めて……
ハルちゃんは俺を見て、しばらく沈黙した。
「……」
俺を気遣うように見ていたけど、すぐに視線を逸らして言った。
「ふん……ぼうっとしやがって。また車に轢かれるぞ。」
「あぁ、うん。そうだね……」
俺は目の前にいるきれいな人の瞳を、ずっと見れなかった。
もう一人の俺は、ちゃんと周りを見ていたけれど。
「……まあいい。確かに伝えたからな。」
「うん……」
俺は呆然と言うと、ハルちゃんは一つため息をついた。
「一応言っておくが、その補習に出席しようがしまいが、俺は困らない。好きにしろ。だがお前の将来を考える上では、ちゃんと出席した方が今後有利だと思うぞ。」
「うん……そうだね……」
どうでもいいよ。
そんなコト。
それより……なにより……
今、目の前にある奇跡が気になってしょうがないんだけど。
でも俺の奇跡は、あっさりと後ろを向いて素っ気なく言った。
「じゃあな、俺は忙しい。」
「えっ!?」
う、うそ!
もう行っちゃうの……!?
「ちょ、ちょっと待って!」
俺は慌ててその背中に声をかけた。ハルちゃんは面倒くさそうに顔だけ振り向いた。でもまだ背中を向けたままだ。今にも立ち去りそうだった。
「……なんだ。まだ何かあるのか?」
「お……お願い……」
「―――え?」
ハルちゃんは驚いて俺を見た。
「もう少しだけ……そばにいて……」
「!」
ハルちゃんは愕然として、ガンッと学生カバンをその場で落とした。
―――俺が、泣いていたから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
公園の中、池のすぐ近くにある東屋で、俺たちは降り出した雨を避けていた。
自転車で遊んでいた小学生たちは、雨に降られて歓声を上げて去って行った。
俺たちの周りには、誰もいなかった。
ただ雨が降っていた。
俺たちは同じベンチに座っていた。
俺は濡れた地面を見ながら、心の中に一つだけ引っかかっていたことを話した。
するとハルちゃんは言った。
「そうか……サッカー部員が、お前を無視したのか。」
俺はどういう顔をしたらいいのかわからなくて、弱く笑った。
「うん……きっとサッカーのできない俺は嫌いなんだよ。俺の取り得ってサッカーだけだからさ……それ、思い知らされちゃったんだよね……」
「……それはどうかな。」
「え?」
俺は座ったままハルちゃんを見た。
でもハルちゃんは俺を見ていなかった。池に降り注ぐ雨を見つめている。
「今まで、一緒にやってきた仲間なんだろ?」
「うん……」
「俺にはよくわからないが、青春してたんだろ?まるでドラマやマンガのように。」
「……う、うん……」
本当にドラマみたいだったけどね。
俺はMFのポジションにいて……ボールや、みんなの動きがよく見える。
いいパスを出すと、評判だった。
ハルちゃんはつまらなそうに言った。
「ふん……それなのに退院した途端に豹変か。しかも全員が示し合わせたように。」
「うん……何しに来た、まで言われちゃってさ……」
ハルちゃんは自分の座っている脇に手を置いて、ちらりと俺を見た。
俺はその手に、ドキッとした。
なんて……きれいな手なんだろう。
すらっとして細くて……爪もいい形。
……似てる。
あの悪夢に出てくる、神様の手に。
だってこんなに、鮮やかな肌色。
「で?なぜもうサッカーはできないってわかっていたのに、サッカー部へ行ったんだ?退部なのがわかっているだろ。」
「う……」
俺は答えに困った。つい、その手から目を逸らす。
「なんとなく……いつも通りに、自然に……」
「習慣ってやつか。まだ諦めきれていないんだな。」
俺はため息混じりになってしまった。
「そうかな……そうかも……」
あれ……
今まで、どうでもいいと思っていたのに。
ハルちゃんと話していると、まるで現実のような気がしてきた。
俺、本当に……
二度と、サッカーできないのかな。
「……で。お前の足に今度何かあったら、一生歩けなくなると医者から脅されているというわけか。」
「うん、でも、でもさぁ……何もなければいいわけで……」
ハルちゃんは呆れたように言った。
「そんなわけにいくか。お前が一番よく知っているはずだろうが。サッカーは接触の多いスポーツだ。このまま続けたら、何かあるに決まっているだろ。」
俺はうつむいて、しどろもどろになった。
「それは……そうだけどさ……」
「ま……頭ではわかっていても……というやつか。」
「……」
俺たちは、そのまましばらく沈黙した。
でも、ハルちゃんは軽く笑った。
「ふん……なるほどな。それでか。」
「え?」
なにが……それでなんだろう。
俺が真剣に首を傾げていると、ハルちゃんはベンチに手をついたまま、またちらりと俺を見た。
「……ワザとだよ。部員の連中はワザとお前を無視したんだ。実際にみんなで示し合わせた。」
「!」
俺は急に情けない声になってしまった。
「え……ワザと……?なんで……?そんなのイジメじゃん……」
ハルちゃんは冷静に言った。
「お前にサッカーを諦めさせるためさ。」
「!」
「お前の仲間は、お前の将来を考えて、サッカーを辞めさせることに決めた。たとえサッカーができなくなっても、歩けなくなるよりはいい。サッカーはチームプレーだ。仲間の協力がないとやっていけない。逆にそれを利用したな……仲間のいなくなったお前には、サッカーができない。だがそれはお前の足を守る結果になる。お前の将来もな。」
「……!」
俺はやっと、どういうことかわかった。
初対面のハルちゃんに全部説明してもらって、やっと……
俺って……バカだ。
どうでもいいなんて、ウソだった。
サッカーができなくなった事は、俺にとって大きなことだった。
俺はそれに気付かなかった。
痛みのない、夢の世界だと思っていたココは、現実だったんだ。
体の痛みは感じなくても、心の痛みは感じていたんだ。
それを、どうでもいい振りして。
本当は、大事なことだと気付くのが恐かっただけ……!
ただ痛みを知るのが恐かっただけ……!
ハルちゃんは静かに言った。
「いい仲間を持ってるんだな……俺にはいない。悪役になってまで、将来を守ろうとしてくれる仲間か……羨ましいよ。」
「っ……」
俺の膝の上に乗せていた手が震えていた。
胸の奥が、何か熱くなって……また、涙が溢れていた。
ハルちゃんはそれ以上何も言わずに、そっと俺の肩に手を置いた。
その瞬間。
また世界が変わる。
サァァ……と雨の音が耳に入ってきて。
曇っていたガラスが、すっきりと拭き取られたように見えて。
でも視界がいっぱいに濡れて歪んで。
ハルちゃんの手が、やけにあったかくて。
俺はその手に集中して……
でも耐え切れなくて、うつむいて肩を震わせた。
「っ……なんで……」
俺の声は、勝手に震えていた。
「なんで……君まで、泣いてるの……?」
ハルちゃんは冷静な声で横を向いて言った。
「……泣いてねぇよ、タコ。」