想い、伝えていますか?
「田中さん、今日は体調が良さそうですね。」
柔らかな声が病室の空気をゆっくりと振動させる。看護師の言葉に、田中高志(75)はわずかに首を傾け、うなずく。ベッドの上で静かに横たわりながら、その身にはいくつもの管や機器が繋がれていた。春の日差しが窓から差し込んで、病室の白いシーツを淡く照らしている。その窓の向こうには、満開の桜。九条通りの桜並木が、今年も変わらず、揺れていた。
末期がんで余命半年と告げられてから、彼はこの京都第一赤十字病院で過ごしていた。まもなく、その「半年」がやってくる。もはや、日に日に身体は思うように動かず、節々の痛みが彼を日常から遠ざけていた。そんな時は、ふと、人生の終わりを望む気持ちすら芽生える。誰にも頼らず、誰にも縋らず、そんな生き方をしてきた。友も少なく、結婚もしなかった。長い人生を一人で歩いてきた彼の病室に顔を見せるのは、妹・弘子の孫娘、「さくら」だけだった。
さくらは十九歳。大学進学を機に広島から京都へ引っ越し、一人暮らしを始めたばかりだった。血のつながりは遠くても、その気遣いと優しさに、高志は心の中で何度も救われていた。ほとんど会った事も無かったが、「親戚」という血の繋がりだけで、こんなに壁を感じずに話せるのは、それはさくらだからなのかもしれないが、死を間近にして、親戚という今まで感じたことの無い感覚を知るとは皮肉なものだ。
週に数回、彼女はキャンパスから直接病院に通い、大学での出来事や、母の愚痴などを吐き出したり、最近流行の音楽なんかの話もする。その気遣いの無さが心地よかった。
さくらは大学で新聞サークルに所属し、同じサークル仲間の哲也(20)と一緒に病室に来ることもあった。哲也も地方から京都に出てきており、まじめで好感の持てる青年で、明らかにさくらのことを意識しているようであった。
「哲也君のこと、どう思っているんだい?」
さくらが一人で来ているとき、投げかけてみると、さくらはきょとんとして、ただのサークル仲間の友達だよ、それ以上でもそれ以下でもない。と井にも介さない様子。
「おじさんはずっと独身だけど、好きな人とかいたんじゃないの?」
少し前までは、「いない」の一言で片づけていたが、さくらのまっすぐな目と、窓の外の桜がそうさせたのか、最近は会話もできない日も多かったが今日はすこぶる体調も良い事も手伝って、違う言葉が口から出ていた。
「・・・そうだね。」
桜の季節がやってくるたび、人は過去を振り返るらしい。そんな言葉を、いつか誰かが言っていた。窓越しの九条通りに咲く桜を見ながら、高志は、痛みとは別の、懐かしさとも切なさともつかない感情に胸をしめつけられる。誰かを待っていた過去、誰かをあきらめた過去。
そして高志は病室の引き出しから一枚の写真を取り出した。そこには京都市電1900型車両を挟んで、若き日の高志と一人の女性が映っていた。
昭和五十年、春——
桜が咲き誇る京都。風はまだ冷たいのに、街はやさしく色づき始めていた。九条通りに面した京都市電の九条車庫では、ピカピカに磨かれた1900形車両が朝陽を受けて静かに佇んでいる。
「今日も頼むよ、イチキュー。」
田中高志、二十五歳。伏見工業高校を卒業してすぐに市電職員となり、今年ようやく運転士の資格を得て九条車庫に配属されたばかりだった。ひとり車両をぐるりと点検し、方向幕を確認し、愛機に軽く触れながらつぶやくその声には、確かな誇りと旅の安全を願う祈りが宿っていた。
ゆっくりと始発停留所へ向かう市電。そのホームに、いつも先頭で並んでいるひとりの女性の姿があった。肩まで伸びた髪を揺らし、少し背の高いすらりとした立ち姿。春風にたなびくスカートの先から、明るい声が跳ねてくる。
「運転士さん、今日もありがとう!」
そう言いながら彼女が見せるのは、夾竹桃の刺繍が施された珍しい花柄のパスケース。
それが彼女、小早川華子(21)との最初の記憶だった。日赤病院前で降りると、まるで時間に追われるように小走りで病院へと向かっていくその背を、高志は運転席から見送った。病院勤務、きっと看護師の卵だろう、そんな想像だけで、胸の中が少しだけ温かくなる。
ある日のこと、終点での車両点検中、座席の隙間に見覚えのあるパスケースを見つけた。翌朝、困った表情で乗ってきた華子にそれをそっと手渡すと、まるで桜が咲き誇るような笑顔で「ありがとう!」と微笑まれた。
それからの日々、電車が空いている朝には、彼女は運転席の近くに立ち、少しずつ話しかけてくれるようになった。広島の高校を卒業し、今春から推薦で京都赤十字病院に勤務を始めたという。夾竹桃の刺繍は、原爆の焼け野原に初めて咲いた花。復興の象徴だと、彼女は誇らしげに話していた。
ある日、いつもと様子が違う華子が降車時に切り出した。
「最近できた祇園七条のレストラン、今度、ご一緒しませんか?…あの、定期券のお礼に。嫌でなければ…」
恥じらいが混じった誘いに、高志はただ「はい」と返すのが精一杯だった。
「やったね!」友人から声を掛けられながら、顔を真っ赤にして停留所から逃げるように去って病院に駆け込んでいく。
オムライスが評判の洋食店で、華子の給料日に行く約束。その日を迎えるまでの一週間、高志は勤務の合間にも流行雑誌を読みあさり、服装や会話を頭の中で何度もシミュレーションした。気がつけば、出発前のつぶやきも少し浮ついた声になっていた。
「先輩、デートですかっ!?」
休憩時間に読んでいた雑誌を慌てて隠す高志。軽口混じりに声をかけてきたのは、後輩運転士の井上雅也(22)だった。スマートな顔立ちに、どこか洒落た身のこなし。仕事は生活の一部と割り切り、余暇はとことん自分のために使う、そんな、今どきの若者らしいタイプ。
「ダサい男は嫌われるんですよ。女性は最近流行のロングスカートで来ますから、合わせないと!」
そうまくし立てると、翌日にはスリーピースのジャケットにブリーチジーンズまで持参してきて、高志に強引に手渡す。「これ、俺の勝負服ですから!」と得意げに言う井上に、高志は曖昧に笑うほかなかった。
待ち合わせの当日、いつもの停留所前に現れた高志の姿は、長袖のシャツにベージュのズボンという、普段と変わらない服装。対する華子も、淡いピンクのワンピース——地味ながら、春の街並みによく似合っていた。後で聞くと、華子も友人からいろいろと注文をつけられていたようで、ふたりは思わず見つめ合い、心の中で「ほっとしたね」と微笑み合った。
話題の洋食レストランは満席で、並ぶ時間は長かった。けれど、それが不思議と苦ではなかった。市電の話、病院の仕事の事、広島での事や高校時代の思い出。ふたりの声が通りに溶けていく。会話が途切れそうになっても、不思議と沈黙が怖くない。
食事が運ばれ、評判のオムライスを口に運ぶ。
(・・・美味しい!)
お互い同時に見つめ合い、同時に笑い出す。
高志の口元に付いたケチャップを見て華子が笑い、その笑顔の鼻先にも同じように赤いしずくが。お互いを指差しながら笑い転げる二人。
レストランをあとにしたふたりは、木屋町の通りをそぞろ歩く。夜風が少し冷たく、街灯の下の桜がひっそりと揺れていた。
「せっかくだし、今日のお礼に何か…」 高志がそう言って、通り沿いの雑貨屋の小さな木戸をそっと引いた。
店内には、和柄の小物や扇子、ちりめんの髪留めなどが所狭しと並んでいる。その中で華子の目を引いたのは、織物の袋に香木が仕込まれた「におい袋」だった。手に取るとほんのりと白檀の香りが漂ってきた。
「これ、広島の祖母がよく持ってたの」 華子が懐かしそうに語ると、高志もその静かな香りに心を落ち着かせながらうなずいた。
結局ふたりは、それぞれ同じ柄のにおい袋をひとつずつ購入した。
四条木屋町から帰りの市電。運転席に座っていたのは、偶然にも井上だった。
「あー!先輩!なんで俺の服着てないんですか!?」
勤務中にもかかわらず声高に言う井上に、高志は少しバツが悪そうに俯いた。でもそれを遮るように、華子がやさしく笑って口を開いた。
「私も実は、いろいろ服装のアドバイス受けたんです。でも、結局いつもの格好で来ちゃいました。」
その言葉に高志がうなずくと、ふたりは目で合図を送り、不承不承の井上を横目に静かに笑い合った。
市電がゆっくりと夜の九条通りを滑っていく。
「特別ですよ」と、終点の九条車庫前から、九条車庫内まで高志と華子を載せたままイチキューは所定の場所に停車する。
「じゃーん!」
得意げに井上が見せるのは、最近発売されたばかりのキャノンのカメラ。写真を撮ってあげるといえば、いろんな女性と知り合いになれるからと、大枚をはたいて購入したらしい。
勤務中にもかかわらず肌身離さず持っているという。
「記念に1枚撮ってあげますよ!この井上カメラマンが!」
車庫の中でイチキューを真ん中に、ぎこちない表情で写る二人。
「はい、チーズ!」
それからというもの、ふたりは自然と会う頻度を重ねていった。はじめは休憩の合間、次は休日の午後、仕事終わりの九条車庫前で待ち合わせて一緒に返ることもあった。
何気ない夕暮れの中に華子の笑顔があることが、当たり前の日常になっていった。高志は、気づかぬうちに彼女を目で追い、声を聞くと胸の奥がふわりと揺れた。彼女に対して抱く感情が、友人のそれではないと気づくのに時間はかからなかった。
そしてそれは、言葉にしなくとも、互いにじわりと伝わっていた。
「次の日曜、三人でピクニックに行こうよ!」
そう声をかけてきたのは華子の親友で途中の停留所から乗車してくる高木春名だった。看護学校からの同期で、今は同じ病院で働く仲。背は小さく、お団子ヘアにクリクリとした瞳が印象的で、笑顔が絶えない活発な女性、華子をやさしさの春に例えるなら、春名は春という字はあるものの元気いっぱいの「夏」という存在。
日曜の昼、下鴨神社近く、鴨川のほとりにレジャーシートを広げ、華子が腕をふるって用意した色とりどりのお弁当を前に、思わず高志と春名が声をあげた。
「これ全部作ったの?すごいなぁ。」 「私は食べる係だからね!」
そう宣言した春名は、高志よりもさらに豪快な食べっぷりで、華子はその様子を見て、呆れたように笑った。
川の浅瀬で水遊びをする華子の声が遠くから届く。
「こっちおいでよ〜!水が冷たくて気持ちいいよ!」
満腹で芝生に寝転ぶ高志と春名はそろって手をばつ印にして応じる。その姿に「もうっ!」と軽くむくれる華子の後ろ姿が陽にきらめいていた。その隙を縫って、春名がふと声を潜めて言った。
「ねぇ、高志さん。華子のこと、どう思ってるの?」
突然の質問に言葉を詰まらせた高志は、苦笑して曖昧に頷くしかなかった。
しばらくして、華子が水辺から戻ってくると、春名の姿がない。
「あれ?春名は?」
「急に用事思い出したみたいで。先に帰ったよ。」
「そっか。」
鴨川の風景は夕暮れの気配をまとうようになり、川面には淡く紅が差していた。荷物をまとめようとする華子の背中に向けて、高志は不意に言葉を投げた。
「華子さん……僕と、付き合ってください。」
一瞬、足を止めて振り返った華子の瞳に驚きが浮かんだ。けれどすぐに、それはやわらかな笑みに変わり。
「うん。」
たった一言で、世界は音もなく動いたようだった。
「高志さん、一つだけ、約束して。」
「何?」
「お互いに嘘は絶対につかない事。」
夕陽の中で指切りする二人。
帰りの市電。窓の外には祇園の街並みの灯りがゆらめき、車内は心地よい揺れの中に沈み、華子は高志の肩にもたれて、すぅ…と眠りについた。
春名の言葉が、高志の脳裏にふとよぎる。
「華子はね、人に笑ってほしい子なの。どんなに自分が疲れてても、人の幸せを願える人。でもその分、誰かにちゃんと守ってもらわなきゃ、無理をしちゃう。田中さんが隣にいてくれるなら、それだけで救われると思う。」
高志は、そっと華子の手に目を落とした。小さくて柔らかいその指先に、自分のこれからの人生の意味が宿るような気がした。
静かな鼓動のように、イチキューが祇園の坂をゆっくりと駆けていく。
将来の話が出るようになったのは、ごく自然なことだった。 車窓から見える九条通りの桜並木、そして隣に座る華子の柔らかな笑顔。その光景は、言葉にしなくても二人の未来を静かに映し出していた。
けれど、街は変わろうとしていた。
高度経済成長の波が押し寄せ、マイカーの普及、都市の再開発。京都は、静かな歴史の色を塗り替えられようとしていた。議会では市電の不要論が大勢を占め、「市電は時代遅れだ」「自動車の邪魔になる」との声が飛び交う。市長も、廃止の方針へと舵を切り始めていた。
市電が廃止されたら、制服組は新設されるバス事業へと異動できるが、技術畑の運転士や整備士はそうはいかない。職を追われ、閑職に流されるか、やがて肩を叩かれるだろう、そういった噂も現実味を帯びていた。彼の望みはひとつだけだった。市電を守ること、それは彼自身の誇りであり、華子との未来を守ることでもあった。
昔から断るのが苦手だった性格が災いし、高志はいつしか組合の副委員長を任されていた。 委員長の島田良平(33)は整備士出身で物静かながら芯の強い人物だった。 島田、高志、そして後輩の井上ら若手を中心とした技術系職員は、夜を徹して組合会合に参加し、団体交渉を重ねた。市との折衝、市会議員への陳情、他組合との調整、仕事の合間を縫っての活動は、次第に彼らの生活を削っていった。
政務調査室の無機質な廊下を歩くたび、職員の視線が冷たく刺さる。 交渉が長引けば、職場に戻るのは深夜。休みの日も、交渉の資料に向き合い、議員への説明に奔走する。華子との時間は、目に見えて減っていた。それでも高志は、迷わなかった。
最近、華子が高志の姿を見るのは、通勤の市電だけだった。九条から日赤病院へ向かう車両の中で、顔を合わせる数分間。 新聞の見出しがサラリーマンの肩越しにのぞく。「どうなる京都市電」——その文字に目を留めるたび、華子の胸はざわついた。
車内に佇む高志の顔には、疲労の色が濃く染みついていた。 けれどその表情は、無理やり笑みを貼りつけた仮面のようで、彼が自分に心配をかけまいと頑張っていることが、逆に胸を締めつける。
島田委員長や井上たち若手職員らの強硬な姿勢と、市幹部との板挟みの中で、高志は副委員長という難しい役割に耐え続けていた。そんな高志のそばにいて、華子は、何も言えずにいた。高志が自分のためにも頑張ってくれている事が痛いほどわかるだけに、どんな声をかけても、今は届きそうになかった。
市電廃止の流れは、すでに止められそうにない。だが 職を失えば、未来は遠ざかる。閑職への左遷。最悪は、解雇。 華子との暮らしの夢も、路線のように寸断されてしまうのか。そんな日々が半年、そして一年と重なった頃だった。ある朝、高志の元に一本の電話が入った。
入社直後に多くを教えてくれた尊敬する先輩、北見輝夫からの誘いだった。 北見は島田の同期。運行計画課でダイヤ編成を担当する人望の厚い技術者で、市電存続の共闘を誓った別の組合の幹部をしていた。昨日、ようやく団体交渉が一区切りを迎えたこともあり、情報交換も兼ねて、翌日北見と会うことになった。
その翌朝、運転席の高志に華子が、そっと声をかけた。
「ねえ、今日…少しだけ、話せない?」
「…ごめん華子。先輩と会う約束がある。大事な話があるんだ。」
言い終えた瞬間、華子は小さく微笑んだ。
「そっか。大丈夫。行ってらっしゃい。」
この時、その笑みの裏側に、いつもとは違う寂し気な後ろ姿に気づいてやれなかった。 それに気づいたのは、もっともっと後になってからだ。
約束の喫茶店に着いた高志は、奥の個室の扉を開けるなり違和感を覚えた。 そこにいたのは、先輩・北見輝夫の他に、市の人事局の幹部数名、スーツに身を包んだ男たちが、沈黙の中に座していた。
「まあ、座れ。」 動揺する高志に、北見が低く声をかけた。
「もう時代の流れは止められん。」
「スト?それこそ愚の骨頂や。」
共闘を誓っていた北見らの保線系組合が、市との協調路線へ舵を切っていた事実を、ここで初めて突きつけられた。 彼らの目的は島田ら強硬派組合員を説得し、ストを阻止すること。 高志にその工作を頼みたい、と告げられた。
もちろん高志には望み通りのポストを用意するという条件で。
「島田たちは頭が固すぎる。田中、悪いことは言わん。家族や将来のことを考えろ。」
その言葉に、一瞬だけ華子の顔が脳裏に浮かんだ。けれど同時に、汗と油にまみれて働く仲間たちの姿もよぎる。その選択は、彼にとってはただの“裏切り”だった。
「申し訳ありません。……お断りします。」
高志は言い残し、席を立った。
翌朝、出勤すると職場はざわめいていた。人事局の幹部と同席する高志の姿、その場で撮られた写真が、何者かによって意図的にリークされていた。
「裏切り者」 「市に寝返った卑怯者」 浴びせられる言葉は鋭く、何を言っても言い訳としかとらえられず、逃げ場もなかった。
無言の島田、冷ややかなまなざしを向ける井上や組合員たち。その視線は氷のように冷たく、言い訳すら許されない空気の中、彼は静かに沈んでいった。目の前で崩れていくのは、信頼だけではなかった。 高志自身の、将来そのものだった。
華子は何度も心配して訪ねてきた。 けれど、高志は扉の前に立つ彼女に声をかけることができなかった。
「間もなく職も失い、もう俺には不幸の未来しかない。…華子を幸せになんかできない。」
彼の中で、未来を共に語り合った記憶が、罪のように重なっていた。
そして、ついに——
京都市議会での市電廃止案が正式に可決された。薄暗い部屋のブラウン管のテレビに映るのは、議会での万歳三唱と、会議場前ではうなだれる島田や拳を握りしめる井上が映し出された。「市電廃止絶対反対」の抗議の横断幕が空しく風にたなびいている。
高志はテレビを消して毛布に蹲った。
いよいよ決められた市電廃止の日が近づき、街のざわめきは少しずつ落ち着き始めていた。 騒がしかった議会の声も、抗議の横断幕も、今は風に溶けていた。
ある日、乗務を終えた高志の前に、春名が現れそっと封筒を差し出した。
「華子から。」
裏には、見覚えのある筆跡。 「華子より」と、小さな文字で記されていた。
ひとりになった車庫の控え室で、静かに封を開いた。 紙の上に浮かぶ文字は、どこまでも優しく丁寧で、どこか儚かった。
「高志さん、お元気ですか?」
その冒頭だけで、彼の胸はぎゅっと締めつけられた。
手紙には、昨年来ずっと体調を崩していた母親が、ついに手術を受けることになったこと。 妹たちの生活を支えるため、広島へ戻ったこと。勝手に帰ることになったことを申し訳なく思っている事。高志の体調を気遣うことばなどが、どこまでの優しく綴られていた。
いつ戻るか、この先どうするのか。 そんなことは一切触れられていない。 ただ、静かに、柔らかく。そこには華子らしい気遣いだけが丁寧に並んでいた。
「華子はね、病院も辞める覚悟みたい。…誰も頼る人がいないから。」
春名から手紙を渡されるときの言葉。春名のその目は、あの日「華子を守って」と託した自分への静かな抗議だった。けれどそれは怒りではなく、諦めに近い、さみしさを含んだまなざしだった。
高志は、拳を握りしめた。
思い返せば付き合ってからの月日は、仕事と組合活動に追われるばかり。 そんな自分を何度も華子は支えてくれた。 不安も疲れも、口にせずただ微笑んでいた。
今こそ、その手を取って、支えてやらなきゃいけない時なのに。 今の自分は、何も差し出せるものを持っていない。市電廃止後の異動先は、京都市衛生局の雑務部署に内定していた。 だが組合の島田、井上らは今も宙ぶらりんの状態。おそらく、退職の道しか残されていないだろう。
高志は、仲間を裏切ってポストを得た、そう揶揄する声にさらされ続けた。 言葉にはしないが、職場の視線はそれを語っていた。
そして、この日の朝、高志は辞表を提出していた。
部屋の真ん中で、大の字になって横になっていた。 天井を見ながら、ひとりごとのようにつぶやいた。
「幸せにしてやるどころか、追いかける資格すらない。……これが、どん底ってやつか。」
そして、ふと目についたのは、棚の隅に置かれた「におい袋」。
あの春の日、木屋町の雑貨屋で、華子と選んだ匂い袋。そっと手に取って香りを嗅ぐと白檀の穏やかな香りが鼻をくすぐる。
その瞬間、何も言わず、ただ涙だけがぽたりぽたりと落ちた。音もなく、心がほどけていくような、春の終わりだった。
「そんなドラマチックな恋があったなんて。」
病室に柔らかな夕光が差す中、さくらがぽつりと呟いた。
「半世紀以上も前の昔話だよ。」
高志は枕に頭を預け、ぼんやりと天井を見つめた。思い出の中に華子の笑顔が、今も鮮やかに残っている。
「それから一度も会ってないんでしょう?華子さん、今どうしてるんだろうね。」
しばしの沈黙。 写真の中の若き二人。市電1900型車両を挟んで笑い合う姿が、桜のように過去を揺らした。
「昔話は終わり。」写真を引き出しにしまおうとした瞬間、突如全身に激痛が走り、写真が床へと落ちた。痛みに顔がゆがむ高志。
「叔父さん!叔父さん大丈夫!?」
さくらは慌ててベッド脇に駆け寄り、高志の背をさすりながら、急いでナースコールを押す。 数分後、医師と看護師が駆けつけ、応急処置が始まった。点滴の痛み止めが効き始める頃、ちょうど哲也も病室に現れた。さくらは泣きじゃくりながら、高志の手を握りしめていた。
点滴が効き始めてきたのか、少し話ができるようになった。
「心配かけたな、さくら……哲也君も。」
「いよいよお迎えも近そうだ。」高志が声を振り絞ると、さくらは胸にこみ上げる感情を押さえられず、嗚咽した。
最初、さくらはこの遠い親戚の世話を頼まれた時、正直気が進まなかった。 期待に胸ふくらむ大学生活。末期がんの叔父と週に一度過ごす時間は、暗く重く感じられた。けれど祖母から預かった生活費に、小遣いが加算されると聞いた瞬間、割り切って引き受けた。
不思議なことに、約束以上に病室を訪れる回数が自然と増えていった。寡黙な叔父なのに、言葉の少なさが心地よかった。 それに、いつ消えてしまうかわからない命と過ごす時間は、どこか特別だった。
床に落ちた写真を拾い、さくらが静かに差し出す。
「これ……古い、広島の市電?」
「いや、昔の京都市電だよ。」
「えっ、広島でもこれ走ってるよ。私、毎日使ってる!“広電”!」
その時ちょうどテレビが広島駅改良のニュースを映し出していた。 広島駅の新しくなるターミナル駅。その橋上に広島電鉄が乗り入れ、市内のアクセスが大幅に良くなるという。
「あ、ほら、これ!」 画面に一瞬だけ、懐かしい車両が映り込む。
見間違いではなかった。見間違うはずが無かった。京都市電1900型。あのイチキューだ。
「京都の名前がついた路面電車、たくさん走ってるよ。私も通学でよく乗った!」
スマホで調べる哲也。京都市電が廃止された年に15両の車両が広島電鉄に譲渡され、今後順次引退していく予定らしい。
ベッドの上で目を細めた高志の脳裏に、かつての風景が蘇っていた。 満開の桜。揺れるスカート。夾竹桃の刺繍。イチキューの優しい鼓動。華子と過ごしたあの時間が、音もなく心の奥から流れてきた。
彼の「過去」が形を変えて、今も「未来」を走っている。その事実に、高志は生まれて初めて「行きたい」と強く思った。
華子が去ってからというもの、高志は働く目的を見失い、抜け殻のような日々を送っていた。 旅行に行くこともなく、京都を出たのは妹の結婚式くらい。 広島にも、恋にも、外の世界に心を向けることはなかった。 ただ、淡々と。時だけが過ぎていった。
けれど、50年の時を経てテレビ越しに見たイチキューの姿は、彼の中に眠っていた“願い”を呼び起こした。
「最後に……あの市電に乗りたい。触りたい。」
自然と口から出たその言葉は、高志にとって生まれて初めての“旅の目的”だった。 心の奥が急かされるように疼き、体の痛みを押してでも動きたいと思った。
「行かなければならない。」
その焦燥感に突き動かされ、医師や看護師に高志は懇願した。さくらと哲也は、こんなにも感情を表に出す高志を見て息を呑んだ。
「よし!おじさんの最後の望みを、僕たちで叶えてあげよう!」
興奮気味の哲也に、さくらは振り返ってピシャリ。
「“最後”って何よ。デリカシーがないんだから。」
問題はいつ行くかだ。高志の体調から先延ばしにすればするほど体力が落ちていくのは目に見えている。かといって今はまだ2月、冬の移動は体にこたえる。
「後にも先にも、桜が咲き始める3月末!」
ここしかないタイミングに合わせて、二人は迷うことなくすぐに動き始めた。
それからさくらと哲也は分担して調べ始めた。車いすで行く広島までの新幹線の乗車方法、現地での移動手段から、救急対応可能な医療機関。広島で現役の市電の車両の種類、そして、高志が行きたいという場所の整理まで。おそらく最後になるだろう、高志のこの旅を何が何でも絶対に成功させると意気込んでいた。
主治医の説得は難航したが、何が起こっても自己責任であるという誓約書を提出することで最終的に外出許可が下りた。
病室では、高志が静かに「藤色のにおい袋」に触れていた。 広島へ向かう旅は、始発を待つ電車のように、そっとその胸に灯っていた。
「高志おじさんを広島に連れていく。」
さくらの真っすぐな一言に、弘子は目を丸くした。だがその気迫に押されるように、反対の言葉は出なかった。
今まで遠ざけてきた親戚づきあい。 名ばかりのつながりだと思っていたはずなのに。その日から、高志の胸には人のあたたかさが静かに灯り始めていた。
そして出発の日。 新幹線の窓から流れる景色は、かつて見たことのない光に満ちていた。 広島駅に着いた頃、高志の体は予想以上にこたえていた。オンラインで日赤病院の看護師とも相談をし、さくらと哲也は、今日は無理をせず、まず弘子の家に向かいしばらく高志を休めることにした。
何十年ぶりに顔を合わせた義弟・芳雄(68)は、急な来訪者を快く高志を迎え入れてくれた。 昔と変わらぬ笑顔で、「ほんと、久しぶりだなあ」と声もかけてくれた。そして翌日もすぐ動けるようにと、車椅子に対応したレンタカーまで手配してくれていた。
その夜、高志は痛み止めを飲みながら眠りに落ちていった。 夢の中で、華子の声がいくつも重なって聞こえた。
夾竹桃のパスケースを見せながら、みんなで手入れした小学校の花壇の夾竹桃の話をする笑顔の華子。
通学路のある公園でお気に入りの黄色いブランコを智くんと取り合いになって、泣いて帰ったことを話すふくれっつらの華子。
勉強を頑張ったご褒美に、母が駅前のパーラーで、初めてサクランボが乗ったフルーツパフェを食べさせてくれて、ほっぺが落ちそうになったと両手で頬を押さえる華子。
どれも他愛のない話ばかりだが、何十年経っても八重歯がのぞく華子の笑顔は鮮明に覚えている。
やっと痛みが引いて、穏やかな呼吸が戻ったのは、空が白みかけてきた頃だった。
翌日、哲也の運転で、さくら、弘子、高志の4人を乗せた車は、瀬戸内の海沿いの道を走った。
最初に訪れたのは、華子の母校・広島市立玉田小学校。 街並みは変わっていても、校舎の佇まいは昔のままのようだ。 裏手にある花壇には、パスケースの刺繍でしか見たことのない夾竹桃が今も咲いていた。 生徒たちが仲良く水やりをする姿を、車椅子の高志は静かに見守っていた。
次に向かったのは、近くの公園。 そこにはまだ黄色いブランコが残されていた。 平日の昼間のせいか、人影はまばらでブランコは誰も使っていない。哲也と弘子が支えながら、ブランコに腰掛ける高志。子供用でも十分に座れるくらい、高志の体はやせ細っていた。
「フルーツパフェを、4つ。」
商店街の中に、懐かしい佇まいの「パーラー」がひっそりと残っていた。 運ばれてきたのは、昔ながらのガラスの器に盛られたパフェ。 たっぷりのクリームの頂に、真っ赤なサクランボがちょこんと乗っている。普段は甘いものが苦手な高志だったが、そのパフェは、どこか胸の奥まで沁みわたる味だった。
「今、その華子さんは……どうしてるのかしら?」
弘子が何気なく口にした言葉に、高志は応えることなく、ゆっくりとパフェを口に運んでいる。さくらは高志の目元にわずかに浮かんだ寂しげな影を見て、胸が少し痛んだ。
弘子もそんな様子を見ながらため息まじりに一口パフェを頬張った。
「……あら、これ、本当においし。」
帰りの車の中、バックミラー越しに見える高志の横顔は、何かを思い巡らせるように、ずっと外を見ていた。
「元気で、幸せに暮らしていてくれていれば。・・・それでいいんだ。」
誰に向けてでもなく、ぼそりと呟いたその言葉に、助手席のさくらはそっと目を伏せた。
「・・・ここは・・・」
翌朝、広島電鉄の車庫に降り立った四人。
哲也とさくらからの依頼を聞いた広島電鉄の職員たちは、事情を聞いて車庫を全面解放し、案内の職員も付けて協力してくれていた。敷地内には、全国各地から集められた古い路面電車や最新鋭の車両が並び、職員たちが忙しなく点検作業に追われていた。
そこへ現れたのは、恰幅のいい体格の男性。 かつて京都市電で共に闘った先輩整備士、元委員長・島田良平(83)だった。
「高志、久しぶりだな。」
その声には、若き日の強さと、今の柔らかさが混ざっていた。一時は全国を放浪した島田だったが、京都市電の車両が広島に譲渡されるのをきっかけに、広島電鉄で再び整備士として働きはじめ、定年までこの街を守り続けていたのだった。
「イチキューの整備は一筋縄ではいかないからな。」と破顔した。
「先輩、お久しぶりです。」
傍らには、後輩運転士だった、あの井上雅也(72)の姿もあった。彼もまた、島田と一緒に広島で運転士として第二の人生を歩んでいたのだ。定年退職後の今でもまだオシャレなスーツを着こなしていた。
「みんな、年を取りましたね……」
懐かしさが胸にこみあげる。 けれどその視線の先に、もうひとつの再会が待っていた。
「高志、見ろ。……イチキューだ。」
案内された先には、かつて京都の九条通りを駆け抜けていた1900形、通称イチキューが、静かに停まっていた。
高志はしばらく言葉もなく、車両の姿をじっと見つめていた。 そしてゆっくりと車椅子から立ち上がり、皆を驚かせた。外観には少し手が加えられていたが、確かにそこには、高志が何度も運転した、あのイチキューが息づいていた。
ふらつく足で一歩ずつ近づきながら、車体の表面に指を這わせる。 時間の重みが指先を伝い、思い出の鼓動が胸に返ってくる。足を滑らせかけたところを、井上がそっと支えた。 ゆっくりと、車両の中へと上がっていく。
車内は改修されていても、ところどころに残る面影。 1957年製のイチキュー。高志と同年代。 自分は今、痛みと老いに満ちている。 けれどこの車両は、今も街を走り続け、誰かを目的地まで運んでいる。 その姿が、誇らしくもあり、うらやましくもあった。
運転席に座る高志の目には、すでに半世紀前のあの日と同じ光景が広がっていた。運転台に座り、「今日も頼むぞ、イチキュー」と小さく声をかけ手を添える。 機器類の配置。指差し確認、油圧、メータ類の確認。半世紀も前の動作が、ここに座れば自然と身体の中からよみがえってくる。
そしてギアを入れれば、車両は静かに動き出す。車庫を出たその先——両側に桜が咲く九条通り。 最初の停留所「九条」。 ドアが開くと、待ちきれないように、華子が真っ先に駆け込んでくる。運転席を回転させて、彼女の夾竹桃のパスケースを確認する。
(……ああ、なんて幸せな日々だったんだろう。)
目を閉じると、涙がぽとりと零れた。
「運転士さん、今日もありがとう。」
その声が聞こえた瞬間、車両の中にいた誰もが時を忘れた。
高志はゆっくりと目を開ける。 目の前には見覚えのあるものより少し古びた夾竹桃の刺繍が施されたパスケース。 そして、その持ち主は、初老の女性。 間違いなかった。華子だった。
「高志さん、お久しぶり。」
変わらぬ肩までの髪に、 笑うと八重歯がのぞく竹を割ったような笑顔。 髪には白いものが混じっていても、そのあふれ出る優しさは何ひとつ変わっていなかった。
夢を見ているのだと、高志は思った。
この再会を導いたのは、島田と井上だった。 高志の病状を聞いたふたりは必死で華子を探した。
哲也もまた、病院で医師に頭を下げ続けた。 個人情報が厳しく守られる時代。 それでも人間の心は、書類の外にもある。その看護師は何気ない顔で、目の前に住所録を広げてくれた。 その場で筆を走らせ、華子の居場所を突き止めた。
「哲也、グッジョブ!」と、さくらが哲也の肩をたたく。
島田と井上は書かれた住所の場所へ駆けつけたが、建っていたのは再開発されたマンション。けれどふたりは諦めなかった。市役所、病院、中国新聞の記者、尋ね人の広告まで出して、ようやく華子を見つけ出したのだ。
「どうして、そこまで……」
高志は、あふれる感情の中で言葉を絞り出した。
あの“裏切り者”の噂が、写真の捏造だったことを知ったのを島田と井上が知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。一緒に闘った仲間を信じてやれなかった。その結果二人の仲も引き離してしまった。その事実が、ずっと心を重くしていたのだ。
「広島電鉄への依頼の電話、偶然俺が電話を取ったんだ。……運命だと思った。」
島田は静かに語る。 「最後に、神様が罪滅ぼしの機会をくれたんだ。」
そして今。 イチキューの車両の中、春に舞う記憶のなかで。 再び出会ったふたりの時間が、そっと動き始めた。
車庫の中庭。
桜の花が今まさに満開を迎えようとしている中、華子が車椅子をゆっくりと押して歩いている。その歩みは、まるで失われた時間を一歩ずつ取り戻すようだった。
遠くからその姿を見つめるさくらの瞳に、涙が溢れる。
「連れてこれてよかった」
そう胸の中で呟くと、隣に立つ哲也もまた、静かに肩を震わせていた。
「華子は、結婚したのか?」
高志の視線が、華子の左手の薬指にとまる。 そこには、小さな指輪が光っていた。
「ええ。」
「……幸せか?」
華子は、短くうなずいた。
「よかった。」
それだけで十分だった。 生涯で唯一愛した女性が、笑顔のある人生を送っていた。 そのことがわかっただけで、高志の心は満たされた。
夾竹桃の刺繍が入ったパスケース。華子の手の中に握られているそれを見つめて、高志は口を開いた。
「そのパスケース……おっちょこちょいなおかげで、俺たちは出会えた。」
華子が、ふっと微笑む。
「……あれ、わざとですよ。」
「えっ?」
「あなたに近づくために、必死で考えたの。 病院についたらね、もう次の日の朝の停留所が待ち遠しくて。 ありったけの勇気を振り絞って、あの作戦、決行したの。」
「嘘は嫌いって、言ってなかったか?」
「ええ。嫌いよ。」
そう言って、悪戯っぽく笑う顔は、あの春と何も変わっていなかった。
「高志さんと一緒にいた時間、私は、本当に幸せだった。ありがとう。」
高志の頬を、涙が静かに流れていった。
人生で最後に味わった、ほんとうの幸せ。 それはかつて一度失われた光だった。 けれど今、さくら、哲也、弘子、島田、井上、多くの人たちに支えられて、霧の中にいた半世紀が、静かに晴れていった。
「ありがとう……みんな。」
そうつぶやいた言葉は、夕暮れの空に、そっと溶けていった。
その日、広島の街は、桜のようにあたたかな茜色に染まっていた。
そして間もなく、高志は旅立った。
イチキューの鼓動がまだ耳に残るなかで。 晴れやかな顔で、静かに。
ー1か月後ー
広島市内の少し高台にある静かな墓地。華子と桜の二人の前で 夾竹桃の花が、風に揺れている。
華子が静かに手を合わせるその墓前には、 “田中高志之墓”と、やわらかな筆致で刻まれていた。
墓前には香木の入ったにおい袋が二つ、仲良く並んでいる。
ふと、さくらが華子の左手に目を留める。
「華子さん……指輪、してないんですね。」
「あ……それね。」
華子は、そっと微笑んだ。
「あの指輪は、高志さんに会いに行く日、途中で買ったの。おもちゃの指輪。100円ちょっとだったかな。」
さくらは目を見開いた。
「結婚は……」
「家族のために、お見合いは考えたわ。母を安心させたかった。でも……亡くなった母の寝顔を見たとき、それは違うって思ったの。」
華子は、少し遠くを見つめて言葉を続ける。
「生活は苦しかった。姉妹三人、力を合わせてなんとかやってきた。でも、一番辛かったとき、私は高志さんを支えることができなかった。」
「それでも、いつか……再会できる日が来ると、自分に言い聞かせながら生きてきたの。」
その目は、迷いなく澄んでいた。
「高志さんがそれを知ったら、きっと自分を責めると思ったの。末期がんだと聞いて。だから最後に、嘘をついたの。彼の心だけは、曇らせたくなかった。」
「嘘は嫌いって、言ってたけどね。」
墓石の前で静かに語りかける。
「高志さん、ごめんね。あなたに、二つも大きな嘘をついちゃった。」
夾竹桃の花が、風に揺れて音もなく頷いた。
帰り道。 高台の坂を下りながら、さくらは問いかける。
「どうして……どうして、お互いに気持ちを伝えなかったんだろう。こんなに長い間、待ち続けてたのに。……悲しいです。」
華子は、しばらく考えるように足を止めてから言った。
「そうね。どちらかが一歩踏み出していたら、違う未来があったと思う。でも、私たちにはこの再会があった。最高の形で、終われる未来。」
「そう思えてるの。心から。」
さくらには、まだすべてを受け止めきれなかった。
「おーい!」
遠くから哲也が息を切らせて走ってくる。
「ごめん!道に迷って……」
「もう!何やってるのよ、ほんっとどんくさいんだから!」
さくらが拳を振り上げると、哲也は慌てて逃げ出した。
そんなふたりのやり取りを、華子はほほえましく見守る。
「さくらちゃん。想いは、ちゃんと伝えなきゃ。」
「……え?いや、違うんです、違います!!」
哲也が困惑顔で問いかける。
「え?何が違うんですか?」
「あなたには関係ない話!……また叩かれたいの!?」
笑い声が響く高台の帰り道。 見下ろす夕暮れの陽に染まる広島の街の中を、
今日も、イチキューが静かに走っていた。
終わり。