トイレットペーパーダイアリー
それは突然起きた。
いや、実際にはずっと前から起きていたんだけど、我々がちゃんと気づいたのは、トイレットペーパーが棚から消えた日だった。
政府の発表よりも、専門家の警告よりも、人々は「お尻を拭けなくなる」という情報に、心の底から動揺した。
そして彼らは走った。車で、バイクで、徒歩で。
町のスーパーマーケットへ。
戦場だった。理性の抜け殻たちが争っていた。
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私は見た。
老婦人が泣きながら、最後の1ロールをカゴに入れた瞬間、隣の若者がそれを奪い取って逃げた。
その若者の背中には「LOVE & PEACE」と書かれたTシャツ。
神は沈黙した。多分笑ってた。
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その頃、マスクも消えていた。
手作りマスク、紙マスク、布マスク、果てはパンツマスクまで登場した。
「このパンツは母の形見です」と語る男がニュースに出た。
人類は誇りを捨て、顔面に下着を着けることを選んだ。
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子どもたちは家に閉じ込められ、
大人たちは「オンライン飲み会」で友情の最終処分をした。
「今度こそ世界は変わる!」と誰かが叫んだ。
もちろん、変わらなかった。
変わったのは体重計の針と、Zoom越しの人間不信くらいだった。
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公園には「立ち入り禁止」のテープが張られた。
人間はウイルスの宿主であり、同時に互いにとってのバイオテロリストになった。
隣人を疑い、親を避け、祖父母を画面越しに見るだけの季節が来た。
人類史上初めて、誰かを守るために近づかないことが愛になった。
誰も感動しなかった。みんな疲れていたからだ。
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その年のクリスマス。
私はベランダで一人、コーヒーを飲んだ。
隣の家の子が、窓越しにサンタの帽子をかぶっていた。
その姿は滑稽で、哀しくて、どこか希望に満ちていた。
私は手を振った。
子どもは、親に連れて行かれた。
どうやら不審者だと思われたらしい。
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で、どうなったか?
コロナは収まったり、また流行ったり。
人類はワクチンを作り、理性を取り戻し、再び外に出て、そして同じだけバカなことを繰り返した。
そう、それが希望だ。
我々はいつだって、馬鹿をやりながら前に進んできた。
歴史は繰り返す。
最初は悲劇、次は喜劇。
それからは、テレビ番組のネタになる。
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そして今、私はトイレットペーパーの山の中で暮らしている。
ちょっと買いすぎただけなんだ。