ボクシング令嬢
「逃げずによく来ましたわね。誉めてあげますわ!」
よく通る澄んだ声が響いた。
輝くような美少女がリング上で『シュッ、シュッ』と短い息を吐きながら左右の拳で空中を突く動作を繰り返している。
頭に着けた赤いヘッドギアから零れる髪は黄金の色だ。
もう一人の美少女はリング下で遠い目になっていた。
ピンク色の髪を覆う青いヘッドギアがやけに重たく感じられる。
『なんでこうなった…』
事の起こりはアリーナム記念高等魔法学園の入学式である。
男爵令嬢キャロライン・ネンガーは前世の記憶を思い出した。
この景色、前世でやってた乙女ゲームと同じだ、と。
建物も同じ、制服も同じ、学園長の顔も見覚えがある。
おまけに同級生に第二王子やら騎士団長の息子やらがいる。
とするとピンク色の髪で男爵令嬢な自分は…ヒロインだ!
やったー、人生勝ち組!
モテ期が来たね!
キャロラインは単純に喜んだ。
自分が転生者だという事は幼い頃から分かっていたが、この世界の技術水準は21世紀地球とほぼ等しく、知識チートの出番無しだと密かに諦めていたのである。
だが乙女ゲームとなると話は別だ。
正直ゲームのタイトルや登場人物の名前なんかはうろ覚えだが、シナリオは覚えている。
バッドエンドは無かった。
酷いいじめも断罪もなく、ひたすら健全に競い合い、高め合う。
健全すぎてドラマ性が足りないと不評だったくらいだ。
健全な学園生活の中で友達を作って、彼氏を作って、学力と魔法の腕も磨けば、卒業後の進路はよりどりみどり。
選んだパートナーによって未来が変わるが、一つとして嫌なものはない。
よし、このままゲームのストーリーに乗っかって行こう。
まずは攻略対象と仲良くなるところからだ。
キャロラインは即座に走り出した。
目指すはとある廊下の曲がり角。
曲がれば王子とぶつかるイベントが起きるはず…。
ドーン!
「ちょっとあなた、どこを見て歩いて…ではなくて、走っていますの!?」
「あ、すみません!」
キャロラインはどこかの令嬢とぶつかった。
『おかしいな〜側近を引き連れた王子とぶつかって、それをきっかけに仲良くなるはずなのに』
首をかしげているキャロラインにその令嬢は柳眉を逆立てる。
「あなた謝罪する気ありますの!?」
「えっと、今したんですけど…」
「あれで謝罪になると思ってますの!?」
「すいません、貴族になって日が浅いもんで、マナーとかまだ…」
「言い訳ですの!?」
面倒そうな相手とぶつかっちゃったな〜、と内心で焦りながら平謝りにあやまって、なんとか解放された。
この人には二度と近づかないでおこう、とキャロラインは思った。
しかしなんの因果か、その後もその令嬢との接触は続いた。
「この鞄、どなたのかしら? ここは私の席なのですけど」
「あ、すみません。誰も座ってないから空席かと思って」
「ちょっとあなた、消しゴムのカスを床に落とすのやめて下さいません? 私の足元にまで飛んでくるのですけど」
「ああ、すみません。なんか熱中してると勢いがついちゃって」
「熱っ! お茶の雫がかかりましたわ!」
「あああ、すみません! わざとではないんです! なんか知らないけど跳ねちゃって!」
「ちょっとあなた! 間違えて私の教科書を持っていったでしょう! 残されたこれはあなたの教科書ですわよね? 落書きだらけの、こ、れ、は!」
「ああああ〜、す〜み〜ま〜せ〜ん」
結構迷惑かけてる自覚はあった。
だけど婚約者に色目使ったとかの悪意ある行動は取ってないし、あれやこれやは本当にただの偶然と不可抗力だ。
怒られる程の事ではないのでは?
そう思っていたのは私だけだったらしい。
隣の席の美少女、セアラパウラ・シャルトレイン公爵令嬢はゴージャスな金髪を怒りに震わせて宣言した。
「もう我慢できませんわ! キャロライン・ネンガー! あなたに決闘を申し込みます!」
決闘って、そんな物騒な。
え、貴族って女子でも決闘するの? とうろたえていると。
「今度の『ぶとうかい』で勝負ですわ!」
舞踏会。
ダンス対決か。
それなら女の子同士でもできるかな、とキャロラインは納得した。
「あ、でも私、パートナーがいないんですが」
一人で踊るか? と考えていると、
「ではネンガー嬢のパートナーは僕が務めよう」
第二王子が進み出た。
攻略対象キター!
「いいんですか? 有り難いですけども!」
「いいよ。これもクラスメイトとの親睦だよね」
眩しい笑顔にクラッとくるキャロラインであった。
「フッ、決まりですわね。私は兄と組みますわ」
「あ、私、着る物もないんですが。制服でもいいんでしょうか?」
この制服はおしゃれで可愛いデザインだが、ダンスには適していない。
結構高いし、破いたら母親に叱られるだろう。
「ある程度は学園に貸し出し用の物があるはずだ。サイズ調整が必要な物は僕が贈ろう」
「何から何まで有り難うございます!」
「これも親睦活動の一環だよね」
持つべきものは太っ腹な攻略対象だ。
キャロラインは第二王子に勢いよく頭を下げた。
そして当日。
物語は冒頭に戻る。
おかしいとは思っていたのだ。
入場前の着替えの時から。
生徒会執行部だという女子の先輩が手伝ってくれたのだが。
「この衣装、袖が無いですね」
「動きやすさ重視なのよ」
「あれ、スカートじゃないんですか?」
「ええ、『ぶとうかい』ですもの」
何が何だか分からないうちに両手に布を巻かれ、靴をはきかえさせられ、頭に何かをかぶせられ。
「これだけは個人のサイズに合わせて調整しないといけないのよね。はい、口開けて。しっかり噛んで」
白い物体を噛まされた。
その頃には自分の勘違いに気づいていた。
舞踏会じゃなかった、踊る方じゃないんだ。
だってこれは、だってこれは…。
「ボクシングのマウスピースじゃねえか!」
こうしてキャロラインは『アリーナム記念高等魔法学園武闘会』のステージに立たされたのだった。
コーナーポストの側でジャージ姿の第二王子が首にタオルをかけて囁いてくる。
「彼女は中等学園時代に女子部三位の実力者だ。スピードがあるから回避が難しい。よく見て行けよ」
セコンドかよ。
見ると、リング上では同じくジャージ姿の金髪美青年がセアラパウラの耳元に何かを囁いている。
あっちのセコンドか。
兄と組むと言ってたが、確かに顔がよく似ている。
てか止めろよ、兄なら、妹の暴走を。
なんで誰も止めないの?
リングの周りには大勢の観客。
なんでこんなに大勢いるんだ。
凄い熱気でどよめいている。
逃げたい。
が、逃げられそうもない。
キャロラインはノロノロとリングに上がる。
最悪タオル投げてもらえば終わるかな、と思いながら。
なかなかタオル投げない第二王子とか、開き直ったヒロインによる下町流喧嘩術とか、ノーガード戦法とか、激しい打ち合いとか、ゲームに隠された真実とか、イメージだけは浮かんでるのですが、そこまで描くと長くなるので、キリのいいところで終わります。