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エッセイ

元号や天皇制は必要なのか? 「元号廃止論」と「近代日本=昭和」と「現代=令和」という【公私混同】の【権威】が創る元号

作者: 隠居老人

【】で括られた言葉について記憶や知識が曖昧な場合は、WIKIなどの参照をお勧めします。








 某国首脳からは、「指令と調和」という意味などと語られた新元号が発表されたので、元号について一考してみました。


 ネットでは、原点は漢詩「帰田賦」の「初春令月、気淑風和」や万葉集の「初春令月、気淑風和」だとか、国粋主義や民族主義的観点での話が多く取り上げられています。


 現首相を嫌う者達は、「命令を日本に下す自分を称えるナルシズム」などと皮肉を言っているようです。


 けれど、元号の本質という意味では、どれにしろ変わらないので、国内への建前としては万葉集で、「属【唐】国家の王だった皇室【権威】」の慣例に配慮して漢詩なども出展といえる元号選びをしたというところでしょうか。


 同時に国内の国粋主義者向けの意味として某国で語られた「指令と調和」に近い意味合いを持っている気もします。


 それというのも、令月は陰暦2月の異称ですが、令という字は権威の意味合いを持つ字で「権威ある=気高い立派な月」という令月の意味を考えると、ただの「指令と調和」という意味ではなく、もっと【権威主義】的な意味を持つ「【権威】ある政治【権力】による調和」を願う元号だと考えられるからです。


 明治以降、元号というのは、時の実質的【権力】を持った【権威】が考えるせいか、実際の世相の逆を現しているかに思えます。


 権力者の「未来への願い」が全て上手くいくわけがない事を考えれば当然なのでしょうが、西洋列強に従属し始めた暗い時代に「明治」となり、皇室利権を持つ勢力以外の公家勢力が古い【権威】を失い腐敗し始めた時代に「大正」となり、軍事国家として暴走を始めた暗い時代に「昭和」と元号は名づけられました。


 そして【権力】に従い滅びへと導かれ、太平洋戦争によって大日本帝國が滅び、新たな国が生まれます。


 同時に、近代【法治主義】国家の要である【権威主義】の旧憲法も廃され、新たに【民主主義】の新憲法が創られる事になりました。


 こうして、弾圧されていた日本の【民主主義者】によって創られた新憲法による「表面上は【民主主義】国家の日本国」が生まれました。


 しかし、【大日本帝國憲法】が廃され、【日本国憲法】が新たな【法治主義】国家としての理想となっても、連合国の外部権威による押し付けであると反抗し、【大日本帝國憲法】の法の権威を守ろうとする「大日本帝國の残党」も皇室利権を中心に残ります。


 国内の血統【権威主義】と米国の【金権権威主義】の妥協が、【民主主義】を理想とする法治国家でありながら、表面上は【民主主義】国家の日本国」を創りあげた事で、【権力】と【権威】が理想を否定する「堕落を(すす)める政治」の時代が幕を開けます。


 国民に表向きで【民主主義】を(すす)めながら、裏で「反民主主義」の道を(すす)める時代。


 それは「【大義】を掲げた戦前」と真逆の「【道義】を貶める事が出世の条件となる昭和の始まりでした。


 政治は妥協の産物だという観点で見れば当然なのでしょう。


 既に【冷戦】時代へと続く未来を連合国の首脳達は見据えていたからこそ、米国は「大日本帝國の残党」と妥協して、皇室を残し日本を米国の統治下に早急に組み込む必要があったからです。


 けれど、米国の統治は、【善悪】の観点で見た場合、大日本帝國の【権威】という必要悪を残すのではなく、表面上はあくまでも「日本の【民主主義】者の解放」という形をとったものでした。


 後の【冷戦】の【大義】やイラクなどでも行われた「米国の【民主主義】者」への主張のためです。


 こうして、この列島に住む人間の中身が変わったわけではなくても、権力によって服従させる力を失くし、国民を威圧できなくなれば、「大日本帝國の【権威】」という公的な必要悪は滅びます。


 けれど、人が消え去るわけではなく、私的に「自分の中だけでは必要悪」という想いを持ちながら、公的には悪である【権威】を頼りに、「理想なき大日本帝國の残党」は、【権力】にしがみつきます。


 こうして、属米国家としての【権力】が構築されて、現代の属米世襲政治屋達と大日本帝國残党の【権威】とが混在する暴力と混乱と復興の占領下の時代が訪れました。


 筆者が少年時代を過ごしたのは、そういう常識と価値観が逆転していく渦中の時代でした。


 昨日までの正義は悪に変り、連合国軍という「新たな正義を騙る殺戮と弾圧のための組織が日本を征服占領します。


 現総理の祖父が、属米国家としての【権威】を使って暗躍した時代です。


 「元号廃止論」が世に出たのも、この頃でした。


 当然、馬鹿でなければ、子供でも【権力者】の誤魔化しや悪意に気づかぬわけはなく、誰もが政治に不信を感じていましたが、軍事統制の恐怖を知る世代が民主主義を掲げる事はなく、子供にできる事はなく、戦後生まれの子供達が大人になるまでに米国の占領下で植民地のように属米権力基盤は完成します。


 1950年代とはそんな時代。


 大日本帝國の【権威】という必要悪が消えた中で、連合国の【権威】を利用した権力闘争という悪が蔓延る暗殺と暴動の時代でした。


 そうして他の勢力を抑えた大日本帝國の旧権力者からのみ発信される軍事国家の報道規制が消えた中、争い合う権力者の「未来への願い」は様々な形で発信されます。


 その大きな二つの要となったのが大日本帝國憲法の【権威主義】の理念と、日本国憲法の【民主主義】の理想でした。


 日本の【権威主義】者によって創られた大日本帝國の【権威主義】の理念は、「大日本帝國の残党」と「属米【権威主義】」の利権を獲得するため利用されました。


 しかし、【公私混同】で形骸化されていき、近世法治主義による立憲君主制を政商による議会選挙制でコントロールする制度と変えた「本音と建前」の保守政治の方法論が使われたため、現在でも行われているその主張は誤魔化しに満ちた主張となりました。


「表面上は【民主主義】国家の日本国」としての建前を守りながら、反民主主義である「【権威主義】による愛国論」という本音を押し通そうというのだから、まともに政治知識を持つ者なら矛盾を感じて当然だからです。


 対して、日本の【民主主義】者が創った【民主主義】の理想は、本当に【民主主義】を望む【民主主義】者以外に、【冷戦】時代を背景とした「反属米【権威主義】」勢力が利用しようとしていました。


 そうして、【民主主義】者と「【民主主義】を形骸化しようとする【権威主義】者」の主張を柱にして、在日米軍という裏の権力を残しGHQが表向きでは撤退した後の日本では権力闘争が激化しました。


「解放された部落民」や「東西の連合国【権威】を利用する在日朝鮮人」や「農地解放で余裕を持った【民主主義】者」と「大日本帝國の残党」と「属米【権威主義】」と「社会主義を利用した利権集団」が国内勢力を競い合う中、国外の連合国【権威】に対して、「政界プロレス」と揶揄される馴れ合いによる「55年体制」が東西陣営のどちらが【冷戦】に勝利してもいいように「大日本帝國の残党」と「属米【権威主義】者」によって用意されます。


 10年近くをかけて、権力者の権力闘争が安定していく中、国の内外では、「第二次世界大戦戦とその後の利権争いに倦んだ人々」が、暴力原理で動く【権威主義】者の誤魔化しを否定し「平和運動」と「人権運動」が広まっていきます。


 世界大戦の原因となる権力者の悪意で家族や友人を亡くした者達の嘆きを聞いて育った若い世代が、【権威主義】者の誤魔化しを糾弾して【公私混同】を無くして、形だけではない【民主主義】を実現したいと考えたからです。


 暴力原理の【権威主義】に抗する運動は、【民主主義】の理想と結びつき、「ラブ&ピース」という共存原理に基づく「形骸化されていない【民主主義】」による思想運動として広まったその流れが日本で広まったのは、【権威】の悪意を実感して育った者達が育った1960年代でした。


「【民主主義】教育」と「軍国教育」で育った学生達が、「学生運動」を、「軍国教育」の崩壊した混乱の中で育った労働者達が「労働運動」を始める余裕ができたのが1960年代。


 あらゆる偏見を排除した「‘ 権力者の【公私混同】による身勝手 ’によって創られた【権威】に従わない自由」と、「【権威】に捉われない【民主主義】に基づく公正な法制度の下の平等」と、「暴力原理で動く【権威主義】を否定した平和」の理想が語られるのとは裏腹に、戦後の混乱により台頭した者達や利権回復しようとする者達が、ただ思想を利権のために利用しようとする者達が暗躍した時代でした。


 復職した【特別高等警察】上がりの公安警察官や、役人が表や裏で有形無形の暴力で弾圧し、大麻や向精神薬やヒロポンなどを使った洗脳や、マインドコントロールによって、学生運動は「日米安保条約」を切欠に「民主主義を騙る一部の革命【権威主義】」によって暴走を初めます。


 共存原理である【民主主義】を捨てて、社会【権威主義】を使い、敵の【権威主義】を暴力原理で攻撃する方法論が学生運動にばら撒かれ、戦前に【特別高等警察】が得意とした【マッチポンプ】の火種としていわゆる【過激派】が生まれたのです。


 そういった案件に対する証拠や証言は多くあるものの闇から闇に葬られ、新聞やテレビではセンセーショナルな感情論を流し、一部週刊誌の記事もデマ扱いされ【マッチポンプ】は都市伝説と化します。


 思えば、日本のマスコミの利権体質が造り始められたのは、この頃だったのでしょう。


 【冷戦】下での【日米安全保障条約】の必要性を大義名分とした必要悪だと、見逃された悪意は、「非合法であるゆえに必要悪とはいえないもの」であるという観点の欠如を招き、政治の闇を深くしていきました。


 【公私混同】により必要悪と悪の境は崩れ、政治腐敗と暴力団と政治屋の癒着に、新興宗教との繋がりによる政教分離の曖昧化など社会問題を生み出します。


 そうした悪意ある手法は裏社会にも広がり、やがて時を経て、カルト組織を創るのにも利用され【冷戦】終結後には、同じ様に暴走したオウム真理教が【地下鉄サリン事件】を起こすことになります。


 権力者達の合法だが悪意ある政治手法の応用が裏社会に広まった例では「オレオレ詐欺=振り込め詐欺」のような「不特定多数を騙すという方法論」などもありました。


 そして、マスコミや創作物を使った印象操作が、海外で「外は黄色だが中は白いバナナ」と揶揄する米国文化崇拝の偏見に似た感覚や、大量消費社会の弊害である核家族化や結婚率の低下の原因となる米国型意識を若者に刷り込み始めます。


 こうして愚民政策とマインドコントロールという悪意ある方法論は、マスコミを通して【割れ窓理論】のように広まっていきました。


 そういう風潮に反対する穏健な活動も、【過激派】の仲間というレッテル貼りや、ヤクザを使った暴力に抗しただけで傷害罪を適応するような濡れ衣や、交通違反の過度の取締りに、公務執行妨害の疑いに、軽犯罪法などを利用した有形無形の暴力で多くが潰されます。


 そうして、合法・非合法の暴力原理による経済活動が常識となっていく過程の1970年代は、【あさま山荘事件】や七里ヶ浜抗争などの【暴走族】の暴力事件や【上尾事件】や【三菱重工爆破事件】に【北海道庁爆破事件】に未解決の【青酸コーラ無差別殺人事件】【日航機ハイジャック事件】【成田闘争】の【管制塔占拠事件】などの暴力が国内に常態化していきました。


 国内外の権力闘争の中で、【冷戦】下の合法・非合法の諜報員や工作員だけでなく、政党派閥や国際企業が雇う裏社会の仕事屋や子飼いのマスコミや役人。


 【公私混同】による利己的悪意が広まる中、政治闘争の勝者だった【田中角栄】派閥も、米国の圧力と、属米勢力に加担する検察の属米派によって【ロッキード事件】の暴露で排除されていきました。


 それは、農民利権の衰退を招き、同時に個人企業や小企業などの国民の大半を占めていた者達より、大企業を優遇する政治の明確な基点となりました。



 そうした時代背景の中で1980年代になると【ゆとり教育】の中で【愚民政策】が導入されて、「【民主主義】社会の主権者としての自覚と責任」を教育から排除したり、【日教組】などを衰退させる政策が同時に行われていきました。


 こうして、現在に至るまで日本の米国化とともに、民主主義の形骸化が進んでいきます。


 同時に米国との協調を掲げる【中曽根内閣】などの属米長期政権により、表向きの【一億総中流】という宣伝とは裏腹に、貧富の差や【身分制度】による【差別】意識以外の学歴差別や階級差別といった「【権威】に従う者がそれ以外を【差別】する意識」も、広められていきました。


 結果、現実的な【民主主義】国家として日本が成立していないという事実や、権力の【公私混同】で生まれた権威への警鐘のない形骸化された「多数決=民主主義」という誤解が広まる事になり、同時に「義務と責任」や【公僕】であるべき議員や公務員という【民主主義】の基本的常識が薄れることになります。


 その1980年代の半ば、国際社会は【冷戦】終結を向かえ、、議会民主制が「憲法違反の公私混同した掟」やゲリマンダーで壊され、「金権議会選挙制」になった日本では民主主義は野に下ります。


 その結果、三権分立も【公私混同】による利己的悪意で崩され、【違憲立法審査権】は有名無実となり、日本は国家の自浄機能を消失しました。


 一部で「司法の冬の時代」と呼ばれている世襲政治屋達と癒着した政商大企業とによる「国政の私物化」は、1980年代の後半のバブル期には年金の着服を合法化し、2000年代までに制度の本来の契約破棄にまで至りますが、マスコミは本質を誤魔化した【年金問題】報道に終始しました。


 「昭和」という時代は、こういう「暗争」の時代でした。


 そして、「平成」と1990年代が始まります。


 【グラスノスチ】と共にソビエト連邦の変化を促すための情報戦の一部として許されていた【バブル景気】は、ソビエト連邦の崩壊により、米国資本の刈り取りが始まった事で崩壊します。


 【バブル景気】という国民の経済意識を狂わせた大企業の祭りは終わり、欧米化が加速していきました。


 【バブル崩壊】後の政権闘争でも【日本新党】も【民主党】も民主主義の復興を試みる議員は少数だったため、属米政治の脱却を試みて潰されます。


 そうして、PCの普及と同時にOS革命とインターネット社会という昨今の皆さんに御馴染みの時代が始まります。


 テレビさえなかった戦後から、高度成長期と同時に始まったテレビの普及と同じ様に、新たな情報戦略が日本でも練られます。


 バブルで狂った経済界では、IT業界という新分野を巡っての利権闘争など、日本への米国資本参入の前段階としての経済界の米国化の末に、強制解雇という言葉の代わりにリストラという新語が生まれ、【ライブドア事件】と「野口英昭氏の不審死」のような財界の闇が垣間見える事件も報道されましたが、真相は闇のまま政府不信や警察不信が拡大します。


 そうして、倫理崩壊を民間に広めながら、属米軍産複合体派閥と属米共和権威派閥の二つの属米政権が、既得権益を保守しながら、米国型経済社会を造ります。


 それが、不特定多数の「民主主義の主権者達」のためでなく、【公私混同】で行われたという事は、結果から見たならば間違いとは思えません。


 単なる無能だという宣伝は、世襲政治屋達の既得権益が確保されている時点で虚構だからです。


 【権威主義】社会で【民主主義】が排斥されるのとは逆で、【民主主義】社会で【権威主義】を語るのは、言論の自由で許されています。


 問題は、【公私混同】を承知で権威に従属する「【民主主義】社会の主権者達」の中で【権威主義】者が増え、【民主主義】者に「脳みそお花畑」や「反日」や「老害」のレッテルを貼ろうとしている事でしょう。


 公平さを持って論を語るのなら、「【民主主義】社会の主権者」を騙って【権威主義】を広めるのは、悪意の拡散に他ならないのですが、理不尽を平気で語ったり、理不尽である事にすら気づかないのは、「論外」の暴力です。


 そういう暴力原理の【権威主義】によって、属米軍産複合体派閥と属米共和権威派閥の二つの長期政権が格差社会を創ります。

 

 前者の【小泉内閣】が造った下地を、後者の【安倍内閣】が完成させて、「自由と平等という民主主義の柱」を折った格差社会という金権差別による階級身分社会が実現していったのが「平成」。


 「平成」という時代は、「差築」の時代だったように思えます。


 では、「令和」は、「沌争」の時代なのでしょうか?


 「平成」では、愛国の名を掲げ、国内の争乱ではなく国外での戦争を望む者達が生まれています。


 バブル後の常識しか知らない世代に向けたマスコミは、冷戦時代の常識も、高度成長期の常識も、戦後の常識も、占領下の常識も、そして焼け野原になった街の常識も、振り返る必要のない過去として多くを伝えません。


 触れるべきでない近代史という禁忌でもあるかのように、憲法に記された表現の自由を護るより権威に従う自主規制が常識となった昨今。


 元号は必要なのか?

 天皇制は皇族の自由を奪う人権侵害で、平等を否定するための象徴なのではないのか?


 そういった観点も既に語られなくなって久しい中、21世紀初頭は終わろうとしています。


 【権威主義】社会を少しでも健全に運営するのなら、そのための理想が必要です。


「令和」とは、そういう理想を築きたいという権力者達の願いなのでしょう。


 ですが、それが成功した事がないのは、歴史が証明しています。


 世界が一つの経済圏となり金権権威で動く「資本【権威主義】社会」は、国家単位で「中世レベルの理想」を掲げても、必ず暴力原理が内包する【構造的暴力】で【公私混同】を生じさせてソビエトのように崩壊します。


 自然科学が進んだ現代では、それは致命的に拡大する危険を常に孕んでいて、二つの社会システムがぶつかった【キューバ危機】のように綱渡りを繰り返す事になります。


 ならば、【権威主義】社会を【民主主義】のルールで運営する事で倫理意識が低下するのも、社会【権威主義】社会を構築するのも、危機を拡大させる事になるだけです。


 前者は、冷戦時の東側の暗部だった組織が【地下鉄サリン事件】を起こしたように、倫理意識の低下した社会で責任転嫁と【公私混同】の末に矛盾を是正しようとするなら【過激派】のような暴走を招くからです。


 サリンが致命的な生物兵器だったなら、関東一円、あるいは日本がどうなっていたか?


 そういう話も今は昔となりました。


 後者は、近代の全体主義社会構築を資本主義権力がコントロールしようとした事で大戦に発展した歴史を考えれば、「正義で舗装された地獄への道」でしょう。


 地獄への道を敷くのは、何時でも‘ 客観的善意 ’ではなく、主観的な【公私混同】で「正義と騙られる‘ 権力者のための必要悪 ’」で、つまりは、‘ ただの悪意 ’です。


 政治の【公私混同】を許し、「【民主主義】社会の主権者」の自覚を忘れ、【権威主義】の中で利己的欲求と保身による立身出世を望む者が語るなら、必要悪も正義も ‘ ただの悪意 ’。


 その事に気づかないほど世襲政治屋達は愚かではないので、「令和」というのも本当の願いではないのでしょう。


 「では何か?」というのなら、「ただの【民主主義】の理想の否定」で、利己的な【権威主義】を広める‘ ただの悪意 ’なのでしょう。


 だからこそ、戦争や闘争をコントロールして、奪う物と切り捨てる者を選ぶ権力者でいられるのですから。


 そうでなく、本当に愚かで「中世レベルの理想」を掲げているのなら、日本は再び暴走を始める組織群を国内に抱え、それを鎮圧する大儀名分をもって、米国のように憲法を修正して、属米軍事国家に至るでしょう。


 何れにしても、「沌争」の時代の訪れです。


 もっと多くの「【民主主義】社会の主権者」の自覚を忘れた者達を切り捨て、現状の2万数千の「【日本の自殺】者という経済闘争社会の犠牲者」のみならず、更なる犠牲者を生み出す社会を造っていくのでしょう。


 けれど、学生達も酒場のサラリーマン達さえ、社会問題を語らなくなりました。


 そして、それが常識となっていっているようです。


 【権威主義】社会では、様々な常識を造るのは、その事象に関わる【権威】です。


 一つの観点が正しいかどうかではなく、‘ ただの悪意 ’に身を委ね、明らかに社会の矛盾を指摘する観点が広く語られない事が、戦前の思考停止していく歴史を思い起こさせます。


 この先の時代を生きられないと判っているから、子供達や孫達、年下の友人達の未来が心配になります。


 願わくば、「令和」が逆の意味を持つ時代になるのなら「律改」でありますように。


 経験からではなく、歴史から学べる者達の社会になりますように。


 生産的な生き方をせず、【権威】に従い【権威】の中で【権力】を得て「貴族」と自分を称えるような「何かに寄生する寄族」のように生きたいと願う「【権威主義】者達が弱い者イジメを楽しむような社会」に抗する者達が幸せになりますように。


 改元にあたって、そう願って止まない今日この頃です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 元号はなくなっても良いと思っています。ですが、 なくそうとすれば、政治運動としては、国民多数の反発を受け支持されないでしょうね。違う方法取るべきです、 [気になる点] 愚民主義を支持はして…
[良い点] 理想を語っておられますね。 [気になる点] 先生の理想とされるような民主社会は昔も今も何処にもありません。私たちは地獄に生きています。地獄であると同時に天国でもあるこの地上に。生きていくし…
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