愛の温度
未熟な愛の形みたいなのが書きたかった。
今日は彼女と付き合い始めて1年目の記念日だ。いつにも増しておめかしをしている自分が鏡に映り少しだけ頬が緩む。バラの花束なんて去年の自分が見たら鼻で笑っていたに違いない。それほどに彼女の存在は自分の中でとてつもなく大きかった。彼女と出会ってからというもの毎日が光り輝いて見えた。こんなに充実感のある1年は生まれて初めてだとすら思えた。彼女と付き合うようになって身なりにも気を使い始めたおかげか自分にも自信がついてきたのを感じるし、仕事に向かう姿勢も変わったためか周りからも評価されるようになった。そんな自分を変えてくれた彼女との出会いはまさに運命だった。
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それまでは毎朝乗りたくもない満員電車に揺られ、聞きたくもない上司の小言を聞かされる毎日。自分は自分なりに必死に頑張っているのに認められない。上司と話す度に上司の目が自分の存在など替えの効く、取るに足らないものだと主張をしているようにも思えた。だが食べるために、生きるためにと自分に言い聞かせ生活のために身を粉にして働く。そんな日々に心は疲弊し弱り、そのうち言いようのない孤独感が胸を締め付けるようになった。悲しみのフィルターが自分の心を覆い、どんな感情も悲しみに変換されている気さえした。彼女と出会うまでの自分は人生に疲れ切っていたようにも思える。彼女と出会えたのはそんなルーティンから外れたいと思い一歩を踏み出したおかげだった。
その日はたまたま定時に上がることができたため、少し寄り道をすることにした。どうせいつも寝るのは日が変わってからだし、今帰っても時間を持て余してしまうと思ったからだ。そこで、その日は最近できたらしいショッピングモールに行きコンビニ弁当以外の食事をとることにした。
「意外と人が多いなぁ…」
ついそんな言葉が漏れてしまうくらいに人で賑わう店内を歩く。周りにいるカップルも、遠い世界の出来事で自分には縁のないものだと割り切れば気にならない。自分で心を殺している事にも気づかず歩き続け、ようやくフードコートにたどり着いた。しかし、ちょうど夕食時であったためかフードコートは人でごった返しており、座るスペースがなかった。
「なんだよ…。本当に…」
ほんの少しの幸せを感じることすら許されないのか、と涙があふれそうになった。
フードコートで明るい賑やかな世界が広がっているのとは裏腹に、自分の世界はスポットライトが落ちた舞台袖のように真っ暗だった。
「帰ろう…」
そう思い振り返ると、彼女はそこに立っていた。
少し遠くで浮かない顔をしていたが、こちらを真っ直ぐ見てほほえんでいる。
「あなたも私と同じなのですね」と言っているようなその表情を見て、周りの喧騒がかすんでしまうような錯覚を覚えた。目と目が合った瞬間に息を飲むのを忘れ、一瞬が一生に思えるほど長い時間見つめ合っていたように感じた。
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あの時から自分の人生は変わった。いや、彼女のために人生を変えようと努力するようになった。仕事がうまくいった日は彼女に報告して喜びを一緒に共有したし、うまくいかなくても愚痴を言い合って「酷い話だ!」と最後には笑いあった。彼女が出不精だったこともあり、遠くに出かけることはなかったが、それでも彼女の笑顔を見ることが自分の生活の一部で、自分を好きだと言ってくれる彼女の事を一生大切にしたいと思うようになった。
そんな決意と給料3か月分では少し足りない大事な指輪を胸にしまいこみ、待ち合わせの場所へと向かう。彼女と出会ったショッピングモールへ。この日のために何度も何度もシミュレーションをした。プロポーズのセリフはどうしようとか、どう指輪をはめてあげようとか、その後どう運んであげようとか、何通りも何通りも考えて最終的な答えを出すまでに1週間近くかかった。ただ、どんなシチュエーションを選んでも、笑顔の彼女しか想像できなかった。電車の中でそんな笑顔の彼女を想像して顔がにやける。
しばらくするとショッピングモールの最寄り駅へ到着した。駅は人でごった返しており、駅へ駆け込む人は口々に物騒な言葉を言い合っている。
「あそこのクレープ屋めっちゃ好きだったんだけどな~」
「ね~」
「まだ人が取り残されてるらしいぞ」
「大丈夫かよ…」
「お前行って来いよw」
「ふざけんなww死にたくねぇよww」
人の流れはショッピングモールから続いている。何かあったのだろうか。彼女は大丈夫だろうか。嫌な予感に胸がざわつく。ショッピングモールの方角は夜だというのにとても明るく、時折、煙がうねりを上げて立ち上る。それを見た瞬間足は勝手に動き、駆け出さずにはいられなかった。のど元までこみ上げてくる嗚咽を必死に抑えて走る。服が乱れるのも汗が飛び散るのも彼女の生死に比べれば些細な事だ。
一心不乱に走りようやくショッピングモールに着いたが、炎が轟々と燃え盛りショッピングモールを包み込んでいる。彼女が中にいる事を確信していた私は火の手の上がるショッピングモールへと飛び込んだ。真っ先に向かったいつもの場所。やはり彼女はそこに立っていた。燃え盛る炎と立ち込める煙の中にぽつんと一人たたずんでいる。
「助けに来たぞ!!」
こちらを見てほほえむ彼女。そうだ。この笑顔を守るんだ。
彼女に駆け寄ろうと駆け出す。
しかし駆け出した瞬間、崩れた瓦礫がこちらへ倒れ込む。
全身に酷い痛みと熱を感じる。
体が動かない。
視線を体に向けるとコンクリートの塊が体を押し潰していた。
重い
熱い
苦しい
苦悶していると目の前に人が倒れ込んできた。
彼女だった。
彼女はこちらを向きあのいつもの笑顔を浮かべている。
1年前に一人で苦しんでいた自分を救ってくれたあの笑顔を。
そんな彼女の硬い体を自分の方へ抱き寄せる。
温かい。
おもむろに胸ポケットにしまっていた指輪を取り出し、ポリエステルでできた彼女の指にはめる。相手がマネキンだなんてそんなことはどうでもいい。
いつもの笑顔。変わらない笑顔。それが見られればどうでもいい。
溶ける。溶けおちる。笑顔のまま溶ける。
ショーウィンドウの中からいつも覗かせていたあの笑顔のまま。良いことも悪いこともすべて受け止めてくれたあの笑顔のまま。遠くへ連れ出したかったあの笑顔のまま。
何もかも溶かすこの炎の温度は愛の温度に違いない