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beautiful days!!

作者: 白夜

⚠️少し血が出ます。


特殊なお話なので、ダメだ、と思った、バックターンしてください。


Prolog




俺は昔っからトマトジュースが大嫌いだった。

あの、異臭のする赤い液体を誤って口に入れた事のある者なら分かるだろう。あの、吐き気を催す、ドロリとした舌触り、鼻に何時までも残る生臭さ。

俺はあの日、父さんがこれは家族の証やら何やら言って、飲まされたのだが、そんな大層なトマトジュースがあるのかは知らないし、信じてはいないが、申し訳なくも、無残に噎せて吐き出してしまった。

俺は咄嗟に謝ろうとしたのだが、タチの悪いのが売りの父さんがいつもと違う凄い剣幕で、吐くな、飲み込め!とコップに半分ほど残った液体を無理矢理口に押し込み、喉に流し込まれた。

俺はその頃まだ小さい時だったから、あまりの辛さと理不尽さに大泣きしたし、めっちゃ父さんのことが嫌いになった。一週間ぐらい口も聞かなかったし、近寄りもしなかった。

それでも何事にも動じない、いじめがいのない俺の父さんは、何故かとっても嬉しそうに俺を見ては笑ってた。

それから、父さんは何度も言うのだ。「俺達は血のつながった家族だ、だから、俺らは桜桃の様に引っ付いて離れず、蜜柑の身のように身を寄せあうんだ」と。

馬鹿らしい、と思ったけど、喧嘩っぱやい父さんにそんな事言ったら絶対フルボッコだし、割といつもの巫山戯た顔が見えなかったから、頷くだけ頷いた。

意味なんて、分かんないけど。


さて、俺の名前は西篠きづなという。当然男。名付け親は俺の父さん。漢字に弱いから平仮名できづなと書く。父さんと対照的に頭が良くて美人な母さんが漢字で貴方の名前は“絆”や“結”と書くのだとマス目の大きい漢字帳に綺麗ですぅ、と洗練した字体で書いてくれた。その時、俺は湧いた疑問として、こういう場合は平仮名で“きずな”と書くのではないか、というものがあった。当然この名はおかしいと思ったが、母さんはただ笑うだけだし、名付け親の父さんは依然として、それは平仮名の“つ”にてんてんであってるんだ、と譲らない。

ま、そういうものかとあの時は納得してしまったけど、俺は本当は日本語に弱い父さんがうっかり“づ”と“ず”を間違えたんじゃないかと睨んでいる。無駄な意地を張り続けるのは良くないぜ?父さん。


……ああ、よく話が逸れるなぁ。申し訳ないことだが、実直馬鹿な父さんと無口な母さんに挟まれて育った俺が、あっかるいアットホームな雰囲気を家内で作り出すために、お喋りになる事はもはや当然、いや、必然であると言えるだろう。なかなか、会話の花が咲かない異様な家庭の風景に、日本昔話の花咲かじいさんの如く、話題という名の灰をバラ撒いてやっているのだ。それでも、家の中は湧かないので、俺が無理矢理、模造の桜の花を咲かしている顛末だ。母さんは仕方ないにしても、父さんも付き合えよ。そんくらいはよ。


前置きと俺の家話が若干長くなってしまったが、今から俺が話すのは、もう察しがついているのではないかと思うが、そう、俺達家族の話だ。家族構成は父と母と俺で3人。家は昔住んでいた老夫婦が亡くなって、すっかり厄介な物件と成り果てていたややこじんまりとした古い作りの一軒家だ。

すっかり事故物件扱いされてたそれを、渋々譲り受けて困ってた例の夫婦の息子さんから父さんは正面交渉し、息子さんは笑顔でその物件を父さんに押し付け、父さんはそれを笑顔で受け取った。

父さん曰く、「俺達には、この位のおかしな家じゃないと釣り合わん」らしい。

それ、釣り合うのって、結構不名誉なことなんじゃない?

お蔭さまで、夜の家の中に、「夏の夜の恐怖映像スペシャル」もビックリな恐怖体験っていうと、随分大袈裟だが、それなりに出るもんは出るし、不思議と母さんと俺は“そうゆうもの”が見える体質だったらしく、ほんと毎日げんなりだ。見えないのは父さんだけで、父さんだけで幸せなホームライフだ。あー羨まし。


そんなこんなな生活だけど、誰かに俺は是非聞いてほしいし、感じて欲しいんだ。

俺らは世間一般的に言うと、“狂ってる”ていうレッテルが貼られるだろう一家だけど、きっとどのそれにもある“大切なもの”だけは一緒なんだと。同じなんだと、

ーー知って欲しいんだ。



そこでいつも、俺はこう、誰かに聞くんだ。



“家族”って一体、世間一般的にはどんなものなんだろうねーー?






第1話 とある赤い飲み物のお話




目の前の景色を色で喩えるのなら、灰色だ。


持っているバケツの重みで震える腕をなんとか励ましながら、俺はぼんやりと思った。


今でもバケツを手放して、この薄汚れた床に水をぶちまけてしまえば、どれだけで楽で、気持ちのすっきりすることだろう。靴先が青のくすんだ上靴の前で並々に注がれた灰色の海が、ゆらゆらと波立っている。淵を危うく滑る透明の際を、あと一ミリ超えただけで、と考えると、妙に頭の中がぼんやりとして、どうにもダメだった。

ばしゃああん、と大きな音をたてて、床を叩く水飛沫の濁った色と、がららら、と口で弧を描いて転がっていくバケツ。しまった、と思ってももう遅い。俺は、脳内の危険信号の赤がグルグルと点滅して、自然と間抜けに空いた口が塞がらない為、そ、と左手を当てた。

そして、一瞬の空白、沈黙。そして、何かとても細くて脆いのに、よく張り詰めた琴線の様なものがプツン、と切れる音。


ああ、知ってる。俺だって、こんな俺だって、この後、何が起こるか位は簡単に予測する事が可能だ。

咄嗟にヒリついた頭の既に幾数もあるたんこぶを掌で撫でた。




このクラス、いや、この学校で【西篠 綱】が【出来損ない】なのは、とても有名だ。少し伸びた刈り上げた髪は荒れて、身につけた黒のタンクトップはボロの雑巾、底の剥がれた薄いサンダルは泥土で汚れ、日に焼けた浅黒い彼の肌は常に煤けている。更にやることなすこと粗暴で、消しゴムはすぐに数が増えるし、鉛筆は二つに折れる。じっともしないから、常に座った椅子をがたがた上下に揺らして、机上を指で仕切りにつつく。男の子の頬には忽ち青あざを拵えた。いつもイライラしているから、むしゃくしゃに引っ掻く黒の頭髪は薄いし、歯軋りで歯はでこぼこだ。

そして、彼は字が読めない。3歳児でも読める絵本すら声に出して読むことが出来ないのだ。


故に、彼は国語の授業中の今も、ろくに教材もノートも開かないで、頬杖をついて足を忙しなく動かしながら、窓の景色を眺めていた。一つ前の席に座る彼の表情は見えないが、きっと、彼は今、大きな目を少し眇め、口をつんと尖らせて、この世の退屈さを三で割って二を掛けたような顔をしているに違いない。時折、彼自身のリズムで頭が揺れる様子は、粗暴なんて言葉の一つすら掛からないぐらいに、呑気な光景だ。何となく握られた鉛筆は既にガムテープで割れ目を補強してあった。


私は彼を見ることが好きだった。

まるで風を人間の皮を着せたような、飄々たる彼の態度は、風情は、生き様は、とても、固い、硬い、堅い、殻の中に閉じこもった侭の私にとって、憧れる、まるで夏祭りの夜、賑わった店先に並べられたりんご飴みたいにキラキラしていた。

私は暫くそんな彼をぼんやりと眺めていたが、つとこちらを振り返った彼の不思議に光った緑がかった黒の目とかち合ってしまって、慌ててノートに黒板に書き込まれた字の書き写しを再開した。

どうか、彼の視力が悪いですように。

そんな願いを込めた筈の、ノートの隅に描かれたりんごの落書きは、妙に歪で不味そうだった。


昼休みが終われば、掃除の時間が始まる。

私は箒でさかさかと落ちている葉っぱを掃いていると、ふと、足元のそれが沸き立つように強くなった風が横髪を煽った。周りも見れば、同じ班の子は誰もいない。私は道端に投げ捨てられた青いちりとりを、哀れみを込めて眺めると、箒をロッカーに納めて、再び、風が先程より強く吹いた。見ると先程掃除した場所は、既に新たな葉っぱが落ちていて、妙に心がしん、と鳴った。ざくり、と落ちた緑を踏みしめて、廊下に向かった。


廊下の隅で見つめた先に、彼がいた。彼は隣のクラスの前で先生に羽交い締めにされている。彼は獣のように歯をむきだし、枯れ木みたいな足をばたつかせて、必死にもがいていた。向かい側には血まみれで涙を流す男の子が二人の先生と生徒に囲まれてていた。生徒達は忙しなく口を動かし、非難するような目は彼へと一斉に向けられていた。

そうか、と思った。私は、唯見つめているだけのは私は、理解した。

いや、何が彼と男の子の間で起こったのかは、分からない。騒音が光景でしか想像することの出来ない私には、到底、今起こっている事の詳細など、分からないだろう。


けれど。



周りには彼の味方など、誰一人いない事だけは、はっきりと分かった。




私は一人、夕空に照らされながら、帰り道を歩いていた。背負ったランドセルが重くて、何度か足元をふらつく。

足元を散らばる水たまり。夕日が照らされて、足先で蹴りあげると、冷たい朱色の飛沫が私に向かって降り注いだ。綺麗だ。

舗装が雑な道路をいつもより心なしか軽やかにステップを踏んで、無意味に取れかかったウェーブが滑らかに揺れるように回ってみたりして、一人の帰り道を出来るだけ彩れるようにと頑張っていると、いつも無人の、ブランコと砂場しかない並木に囲まれた小さな公園に人影を見た。

私は珍しいな、と前後に勢いよく揺れる繋ぎに目を向けてみる。

元気よく膝の屈伸を使ってスピードを上げるブランコは何処までも飛んでいけそうで。

鎖が赤い射光を乱反射した。あかしろが沢山ちらちらっと弾けて、辺りに溶けていく。

綺麗だ。とても。

私が飛んでも跳ねても作れなかった色がそこにはあった。

あの遊具の、繋ぐ鎖が、彼がぐんと力強く漕いでいく度に千切れてくれるのではないか、と何故か強く思った。彼はいつも鎖で雁字搦めにされている、と感じていたからだ。彼はきっと、自由でいるべきなのに。


ふと、彼と目が合った。ブランコが大きな揺れとともに、漕ぎ手を失う。目の前にはぱちくりと瞳を瞬いた少年。頬の青アザは少年の背にある日光が作る影でよく見えない。しかし彼は私の目を見ていた。私も彼を見ていた。

口を開く。

ーーーーー

私はゆっくりと微笑んで見せた。彼は少し目を細めてみせる、と同時に口を窄めるから、タコみたいだな、とまた笑った。

ーーーーーーー

今度は私は首を振って見せた。すると、彼は。

口の両端に手を当てて、大きく息を吸って。

ーーーーーーー!

それでも私は頭を振った。そして、意外に聡い彼は気付く。

そして、口を噤んだ。唇を皺ができちゃうくらい噛み締めた。あまりにも強く噛んでしまったのか、血がつーと顎を伝った。

私は慌ててポケットからハンカチを取り出した。ティッシュは今日給食の揚げ豆腐を落として使っちゃったから。

しかし、彼は私のハンカチを持った手の首を掴んで、私を見下ろした。いつも遠くから見たり、椅子に座って彼を見てたから、こんなに大きいなんて気づかなかった。……私より、ヒョロい癖に、なんか、生意気だ。

彼はしかし、喋らない。口が動かない。

じ、と私をずっと見つめている。彼の視線は何か探すかのような、糸を手繰り寄せるようなそれだった。

そして、途中で彼らしく、我慢出来なかったのか、薄い黒髪をかいて、頭を抱え込んだ。少しの間。

そして、は、として、私を見た。私は肩を一瞬ビクつかせた。

彼は慌てたように、私から離れた。そして、あたりを見回して、茂みに潜り込むんでいった。

私は何もせず佇んでいると、暫くして彼は嬉々とした表情で再び現れた。右手に木の枝を掲げていた。左手は何かを握っているらしいが、何も見えない。

そして、砂を辺りに撒き散らしながら、なにか書き出した。いや、描き出した。

大きな丸に、かまぼこが両側に一つついている。そしてそれに彼は指を差した。そして、木の棒を私に向けて、バツを書く。

そして、私を見てきた。

私は暫し悩んで、そして、彼が今描いたのは、私の顔と耳だということに気づいた。

彼はその絵を木の枝つついて、バツをその上に重ねがいた。

そして、また私を見る。

私はふと耳に手を伸ばしかけてやめ、静かに彼に向かって頷いた。




そうだ、私は聞こえない。聴こえない。



なんの音も、声も、色も、鳴き声も、なにも、聞こえないのだ。



正解だよ、と口を動かすだけで、彼に伝えた。


もっとも、彼はとても複雑そうな顔をしたが。



それからだろうか。

彼はよく、あの、人気のない寂れた小さな公園によく訪れるようになった。

きまって、錆の一等蔓延らしたブランコを乗っており、私がその公園の入口付近の道を通る時に、軽やかに飛び降りて、私にニコリともせず、ただただ、手を差し伸べてくれるようになった。黒く日焼けしているのに、手の平はゴリラみたいに白い彼の手の平は、恐る恐る手を伸ばすとポケットに入れていたハンカチより冷たくて、冬場に食べる一人のうどんより暖かかった。

彼は私の手を取ると、何故か必ず水飲み場近くのベンチに行く。座上に草葉の乗った赤色のベンチは背後に隙間なく生え聳える広葉樹のおかげで、座ると背中にそれが当たって擽ったく、何回も身をよじって丁度当たらない場所を当たらないところを探すのが、日常と化した。彼なんて、服が薄いもんだから、実に痒そうだなと思っていたが、意外に彼は平気な顔で私の身を攀じる様子を面白そうに見ていた。

彼と共に過ごす時間はとても静かだ。いや、私とって無音とは平常のことではあるのだけれど、彼は私の隣にいる時、驚くぐらい何もしなかった。いつも学校を騒がせているようなことは何一つしない。ただ、ベンチに腰掛け、下に足を投げだして、瞼を閉じて時折吹く風に髪を靡かせていた。

意外だな、と思っていたが、日々を過ごしていくうちに、これが彼なんだ、と考えを改めることにした。




不思議な女だと思った。

耳が聞こえないらしい。

俺と一緒だと思った。俺は字が書けないから。

隣に彼女を座らせて、ぼんやりと風を感じると、不思議なくらい、俺は落ち着くことが出来た。学校で座ってお勉強しましょうね、と鉛筆を握らされれば、腹がどうにもムカムカして、じっとなんて出来ないというのに。

本当に不思議な女だと思った。俺は彼女の名前すら知らないし、どんな奴かも分からない。

ただただ、同じクラスで、公園の脇の道路を通っていくのを見ただけなのに。

彼女は無表情で俺の手を取って、導かれるままに、俺についてきた。

話すなんて、しない。それは彼女にとって嫌なことだと思うから。

俺も、読めやしない教科書を翳された日には、暴れ倒す予感しかしない。

しかし、どうすれば彼女の名を知ることが出来るだろうか。

このまま、名を知らなければ、どんな関係も簡単に崩れてしまいそうで、怖かった。

怖いと思う自分も怖かった。

気づけば、彼女は俺にとっては、俺が落ち着いていられる唯一の場所になりつつあるのだと、認めずにはいられなかった。

それが、怖くて怖くてたまらなかった。

いつか、彼女を壊してしまいそうで。

すると、きっと俺自身も壊れてしまいそうで。


ある時、いつも俺をぶん殴る先生が、俺を職員室まで呼び出した。

「お前、“御坂”と最近いつも遊んでいるそうだな」

“御坂”。あの女はそういうのか、と字は書けないが、音を知った。彼女の持つ唯一の音だと思った。

「はい。」

俺は少し高揚した気持ちを抱えたまま、丁寧な口調で頷いた。

すると目の前の男ははあ、とまるで既に手の施しようもない“バケモノ”を見るような顔で首を振った。

変に歪んだままの形の唇から紡がれたのは、言葉だった。

「それ、やめろ。」

「…」息が詰まるかと思った。胸の下がぎゅっと見えない何かに縛られたように肋が肋骨やらが軋んだ音を立てた。頭の中の奥の方が酷く痛んで、右手の親指がぴくりと動いた。

「お前は危険だ。御坂ともう、会うんじゃない……これは、絶対だ。命令だぞ。」



絶対?



命令?



ぷちん。


どこかで俺の何かが切れる音がした。



何かは分からなかったが、きっと、ろくでもないものが、切れたに違いない。



それから、僅かに淡い色が見えだしていた景色は、白く塗り潰されて、そして、びしゃ、と赤く染まった。


汚ぇ色だったが、皮肉な事に俺が見た景色のどれよりも色鮮やかだった。




昼から降り出した雨は、一向に止む様子はおろか、より激しさを増すばかりだった。

傘をさして、訪れた公園の地面は、既にキャパシティを超えて、水溜りを幾つも作っていた。

これは、ブランコも漕げないし、滑り台も滑ればパンツを濡らしてしまうだろう。彼もきっとここには訪れない。

少し、寂しく思いながらも、仕方ないと、足の向かない家路へとつこうと、踵を返した。

そして、その足はやはり、いとも簡単に止まってしまった。


振り返ったそこには、彼がいたからだ。


ザーッと勢い良く降り注ぐ雨は、傘という隔たりを持たない彼を激しく攻撃した。黒く薄い髪は既にしっとりと濡れて肌に張り付き、艶々と光っている。襤褸布と称すべき服も水を吸って肌に張り付き、彼のやせ細って出っ張った肋などを透かしていた。

彼はなにか、口を動かしていた。私には彼の言うことが分かった。

なぜなら、彼の口が作り出した三つの動作は、私に一番向けられるそれだったから。先生や回りの友人達。皆が皆、紡ぐ最初の形。

何故か、彼が紡いだ。

なぜだ、なぜだ。

彼は私の名をどうやって知ったのだ。

知られるはずのない、それを。

クラスでも先生も囁くことの無くなった、忘れ去られ、無きものにされた、私の苗字を。


「みさか。」


彼は私の名を紡いだ。


彼はゆっくりと私の方へと歩いてくる。俯いた彼の目は見えないが、覗いた浅黒い頬には一筋赤黒いものがこびりつき、きつく握られた拳は皮膚が破れて、ぼたぼたと何かが滴っていた。赤い。血だ。


彼は私の目の前で歩みを止めた。私は彼の異様な様子に恐怖を覚えて、1歩後ずさってしまった。彼は気にせずに1歩詰め寄った。

長い前髪で彼の表情が分からず、してはいけないことと思いつつも、私は濡れた彼の前髪に傘の柄を握っていない方の手を伸ばし、優しくは横に退けた。

彼の瞳はギラギラと激しい感情が燃え滾っていた。いつも緑がかった瞳は、不思議に金色に瞬いている。その激しさに私は身じろぐと彼は何か強く叫んで、私の肩を勢いよく掴んだ。濡れたその手は、手加減を知らないのか酷く強くて、肩がギチギチと鳴り、服に雨が染み込んで、濡れて、冷たかった。

彼は私の恐怖という感情で支配されているだろう瞳をじっと見つめている。

「みさか。」

彼はもう一度、私の名を呟くと、瞬間、大きく口を開いた。

ガタガタの歯列に一際尖った犬歯が鈍く光り、その奥の赤い舌が妙に生々しく映る。そのまま彼は吸い込まれるように、私の顔に迫ってきて、唇に噛み付いた。

「……っ!!」

普段は出さない音が喉から口に零れそうになる。しかし、彼はそれを許してはくれなかった。

痛い、痛い。

じんじんとひりつく下唇になにか尖ったものが突き刺さった。それは真っ直ぐに私の赤い肉に潜り込ませると、顎に生温いものが伝うのが分かった。鼻腔から鉄臭い匂いが僅かに香っては、雨に掻き消された。

血だ。

私の血がどくどくと流れ、服を濡らしていく。

痛みで朦朧とした頭はぼんやりとしてきて、手は痺れて力が入らず傘をポロリと落とした。瞬間に幾粒の冷たいが体全身を激しく叩いて、身体は寒さで震えた。触れた唇と、掴まれた肩だけが燃えるような熱を発して、今は何よりも温かく、額にかかる彼の濡れた髪は何よりも冷たかった。

永遠にも感じられた時間は、終焉を迎え、彼は既に立つことさえ難しい私から唇を離した。彼の口元は赤く染まり、犬歯からはぽたぽたと私の血が滴っている。彼の瞳からは異様な光は消えたが、緑がかった瞳は金色のままで、普段汚らしかった彼は今は、酷く神々しく見えた。と同時に、狂気的にも見えた。やはり、彼の頭のネジはどこか外れてしまっているようで、外れかけたパーツの心許なく揺れる音が今にも聞こえそうだ。

彼は私の腰に手を回して支えてくれると、唇を舌で舐め回して、にっこりと微笑んだ。

おかしい、と思った。狂ってる、とも思った。


でも、不思議と“嫌だ”とは思わなかった。


寧ろ、私も彼の様におかしくなってしまえば、狂ってしまえば、彼の様に、今の彼のように、自由になれるのではないか、と考えてしまった。


彼の鎖は既に無残に引きちぎられ、もう彼の手足の動きを阻みはしていなかった。


彼は私を指差した。私は僅かにコクリと頷いた。見上げる彼の姿はとても綺麗で、目が離せない。

そして、彼は口を開いて、自分自身の舌を指差した。そこに赤い滴るような彼のそれがあった。

そして、そのまま彼は噛み付く動作をした。

私は理解した。

私はそ、と彼の頬に手を伸ばした。少しざらついた頬が手のひらに吸い付いた。

そして、私はまるで操られているかのように、彼に口付けた。そして、そのまま舌を上唇と下唇で挟んで捕らえ、思いっ切り噛み付いた。そう、まるで、動物園の牢の格子に噛み付く憐れな虎みたいに、勢い良く。

口内一杯に鉄臭さが広がった。それをなんとか飲み干して、再び彼を見上げる。

彼は、だらだらと舌から血を流しながら、くすくすと笑うと、ぱくぱくとなにか呟いた。



epilogue


「やるじゃん、これで俺達は“家族”だ。」

と俺は言ったんだ。


父さんは風呂上がり、呑気に首にタオルを引っ提げて、冷蔵庫を開き、牛乳を取り出すとにこりと笑う訳でもなく、淡々と言った。

俺はタオルで濡れた髪を拭きながら、半目で紙パックのまま、牛乳を喉に流し込む父さんの睨んだ。


「それって、なんか、ヤらしくな~い?」


「母さんは、俺の言ってること分かってないからなぁ……今思えば言いたい放題だった……」


しみじみ言うんじゃないよ、このエロ親父。


「でも、別に俺はエロいことしたわけじゃない。」


父さんは牛乳パックの蓋を閉じると、キッチンに置いた。父さんの出したら元の場所に直さないくせだ。

仕方ないので、俺はコップを棚から取り出すと、それを注いで、冷蔵庫に戻してあげた。


「これは、本当の家族になるための、儀式なんだ。」


「儀式?」


俺の胸のどこかで何かが引っかかる音がした。

あれ、なにか、引っかかる。


「ああ、互いの血を飲めば、俺達は精神的だけでなく、物理的にも繋がったことになる。だから、あの時は母さんと離れたくなくて、必死だったんだよ。先生もぶん殴っちゃったしなっ!」


「やっぱり父さんは、野蛮だよね……」


呆れてものも言えない。


「そんな胡散臭そうな顔すんなよ、なづな。そうゆーお前だって、儀式やってんだからな。」


「え、いつ………………!!!」


え、うそ、嘘だろ?!


まさかそんなことが、いやあるはずがない。


そんな馬鹿みたいな話が、あるはずが。


()()()()()()()。」


父はそんな俺を見透かしたかのように、ニヤリと笑いながら、唱えた。





その笑顔は、酷く満足そうなそれだった。





“家族”って一体、世間一般的にはどんなものなんだろうねーー?


その問に対して、君はどう答える?



俺は自答しよう。



「家族なんて、こんなもんさ。」











いやはや、語ることはあんまりありません。稚拙な文体でごめんなさいでした。


お粗末さまでした!



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