4‐15 魔の力の奥底へ(5)
* * *
何もない白色の背景の中で、隣にいる銀髪の少女が黒髪の青年に向かって顔を上げた。
「……ねえ、テウス。貴方はこれからどうするつもり?」
「どう意味ですか、アーシェル様」
気が付いたら、この場に立っていた、テウスとアーシェル。ここはどこだろうかという疑問に対し、彼女は唐突にその質問を出してきたのだ。
「私は遅くないうちに、魔の力がなくなりただの少女になる。青輪会の人にはお世話になっているから、私は力がなくなっても会が解散するまでは何らかの手伝いはするつもりよ。でも貴方は青輪会の一員とは言っても、どちらかと言えば私の護衛という意味合いが強かった。だから別に青輪会に尽くす必要はない」
テウスは眉を軽くひそめた。
「自分はアーシェル様をお守りするとお伝えしたはずです。なぜこのタイミングで、そんなお言葉を……」
アーシェルはあからさまに肩をすくめ、溜息を吐いた。
「それは魔法使いだった時の私との約束でしょう。ただの小娘とは約束していない。力がなくなれば、私はもう狙われることも、さらわれることもなくなるの。今後、青輪会では対話による相談が主になってくるはずよ。その時に力だけのテウスが一緒にいても役に立たない」
少女の口から遠慮のない言葉が発される。テウスは愕然として、その言葉を聞いていた。事実だったため反論もできず、その場に立っているしかできなかった。
アーシェルはその様子を見て、激しく首を横に振った。
「ああ、違う! 言い方が悪かった。テウスのことを否定するために言ったんじゃない。私はね、貴方のことをいつまでも縛り付けておきたくないの。自由に生きてほしいの。テウスはこれから何がしたい? どんな景色を見たい?」
表情を緩めながらアーシェルは聞いてくる。テウスはその問いに従って、ゆっくりと思考を巡らせた。二人以外何もない空間では、二人が言葉を出さなければ静寂が漂っている。
何がしたいと言われても、すぐには具体的な考えは浮かばなかった。
アーシェルと出会うまでは生きるために必死で、先の未来よりも明日どうやって生き延びるかという考えが念頭に置かれていた。
彼女と出会ってからは、彼女が進む先にある障害物をひたすらに排除しているだけだった。
振り返ってみれば、明確に自分の考えを持って生きる機会などなかったのだ。
ただ、最近はほんの少しだが興味を持つものがあった。魔の力などを持たない人間たちが、水の循環をよりよくするために動いている公的な大きな組織について。
水に関しては子供の時にさんざん苦しめられた。適切な場所に適切な量の水があるべきである。それを正している組織に興味が出てきたのである。
アーシェルの人柄に惹かれたのもあるが、水に苦しめられたからこそ、今までは水を操る魔法使いに仕えていたのだ。
それから振り絞った答えは、これだった。
「自分は……水に関わる何かをしたいです」
「そう。それはどこで? 私と一緒にいてできることなの? ただの小娘になるけど」
「……わかりません。ただ……」
一人の少女の顔が浮かんでくる。魔の力は抱いているが、己の知識と経験で突き進んでいく少女だ。
「もしかして、レナリアさんのことを思い浮かべている?」
ドキリとして目を丸くしていると、アーシェルは微笑んでいた。
「だって水に関わるお仕事をしているから」
「……あ、そうですね。あいつは水環省っていう、水に関わる仕事をしていますから、あいつについていけば、また違った何かができるかもしれません」
「そうなんだ。じゃあ、レナリアさんにそのことを伝えてみれば? きっと動いてくれると思うよ。とても面倒見のいいお姉さんだもの」
アーシェルはテウスに背を向けて、視線を下げた。
「テウスがレナリアさんと話している姿、本当の貴方を見れているようで、いいなと思っているの。だからついていけるのならば、それは……嬉しいことよ……」
最後の声は若干震えているように見えた。テウスが慌てて彼女の顔を見ようとすると、それをする前に振り返ってくる。いつものように笑みを浮かべている少女が立っていた。
「さあ、魔法使いとしての最後の役目を果たすわよ。私たちの援護をよろしくね」
「私たち?」
テウスが声を漏らした直後、突然地面が揺れ出した。体を屈まなければバランスがとれない揺れだったが、アーシェルの視線は一点に向けられている。
揺れはさらに激しくなり、地割れが発生し始めた。テウスたちがいる近くにもヒビが入っていく。遠くの方では地面が崩壊しだしていた。
「アーシェル様!」
血相を変えて叫ぶが、アーシェルは慌てることなく固い表情で正面を見ていた。
「まさかこっちに来るとは……。私の方がまだ力はあるということかしら。こんな状態になる前に、レナリアさんと早く合流したいんだけどな……」
アーシェルが右腕を横に突き出すと、彼女の手元に木でできた杖が現れた。
「テウス、ここは幻想の空間。武器程度なら想像したものを生み出すことができるわ。レナリアさんが来るまで、何とかして生き延びるわよ」
「アーシェル様、意味が分かりません。ここはあの地下空間の奥ではないのですか? レナリアが来るまでって、どういうことですか?」
頭に疑問符が並んだ状態で、次々と聞いていく。その間も絶えず地面は割れていた。奈落の底が見える。揺れは一向に衰えることはない。
一刻も早くこの場を離れなければと思うが、いったいどこに逃げればいいのかわからない。顔をきょろきょろと向けていると、アーシェルが務めて落ち着いた声を出した。
「落ち着きなさい。ここの主が地割れ程度で私たちを潰す気はないわ。ほら、出てきたわよ……」
アーシェルの頬に一筋の汗が流れ落ちる。彼女の視線の先から、巨大な生き物が歩いてきていた。
テウスも思わず息を飲むほどの大きさだった。剣を――と思うと、右手に使い慣れた剣が現れた。アーシェルが言っていたように、武器を生み出せるようだ。
それをしっかり握りしめて、黒い巨大な生き物を睨みつけた。
* * *
「覚悟を持って、決断……」
レナリアが復唱すると、落ち着いた女性の声の人物はそうだと言う。声音からして、どこか楽しんでいるようにも見えた。
『そうさ。魔の力のせいで苦しんだ者は大勢いるだろう。しかし一方で助かった者もいる。そのどちらを天秤にかける? 君の選択が未来に大きく影響してくるぞ』
それを聞いて、レナリアはわざとらしく息を吐き出した。
「もう迷わないって、アーシェルと決めたのよ。今頃心を惑わせないで」
歩きだそうとすると、声は一段低くなった。
『――魔の力を消し去るのならば、一つ試練を受けることになる』
「は、試練?」
訝しげな表情で足を止める。空を見上げると、声が大きくなった。
『当然だろう。今まであったものを消すんだ。それ相応の何かがあるとは思わないのか? 仮にその試練に失敗すれば、お前たちの魂は永遠にここからは出れなくなる』
「たいそうなことを……」
強がって言い返すが、顔は若干ひきつっていた。
『体は正直なものだな。今、ここにいるのは精神体だ。お前らの肉体が朽ち果てれば、魂はここに残るしかなくなるだろう』
「どっちにしても死ぬって事には変わりないじゃない!」
鋭い目つきで言い返す。砦の番人があの竜ならば、あまりにも簡単すぎると思った。やはり奥に潜んでいたのは、とんでもない試練か。
ふと、レナリアはある思考に行き当たった。あの扉の奥に行ったのは、レナリアだけではない。他の二人も同様に吸い込まれたはずだ。
「ねえ、聞いていい?」
『なんだ?』
「アーシェルとテウスはどうしているの?」
声は数瞬の間を置いて、感嘆の声が漏れた
『ほう、良かったな、思い出して。もう少しでお友達とは永遠に会えなくなるところだったよ』
「どういうこと?」
『見ればわかる。せいぜい頑張ってくれ。一つだけ助言をしておこう。すべての原点は水と流れだ。川は一つに混じりもするし、二つに分かれもする。それは流れがあるからこそ起きる現象なのさ』
そう言うと、声の主の雰囲気はその場から消えた。
何が主の目的だったかはわからないが、多くの魔法使いの想いを知ることはできた。
レナリアの周囲が歪んでくる。視界はぼやけていき、風景が徐々に変わってくる。
その場で突っ立っていると、体全体に響くような振動を感じた。はっとすると、風景ががらりと変わった。
草も花も生えていない、殺風景な様子。地面はカラカラに乾き、ひび割れさえ発生している。灰色の背景は肌寒ささえ感じそうだった。
レナリアは周囲をきょろきょろと見渡した。誰もいないが、振動だけが感じてくる。
「空間が変わった。ここにアーシェルたちがいるの? 誰もいないけど……」
ゆっくり歩いていく。精神体とはいったが、足の感覚ははっきりしていた。
「さっきからころころと場面が変わる。これも幻の世界? そんな世界に私たちの精神は殺されるの? なんかもう……意味が分からない。ファーラデならこういう空間に放り投げられても、冷静に対処できると思うのに……。師匠ならすぐに適応しそうね」
既にいない人たちのことを思い出してしまう。レナリアにとっては人生に大きな影響を与えた大切な人たちだ。
首から下がっている二つのペンダントたちが輝き出す。それらを服の中から出すと、辺りを照らし出した。
その時、照らされた先でアーシェルらしき顔が見えた。手を止めて、ペンダントを前に突き出す。アーシェルが服を汚しながら、何かを叫んでいた。彼女の傍には唇を噛んでいるテウスの姿もある。
「ここに二人がいる!? でも光を離すと見えなくなる……」
何かがレナリアと二人の間で邪魔をしているようだ。その原因さえわかれば、あの二人の元に行くことができる。
今すぐにでも行きたいという想いが先行する。しかしそこはぐっと飲み込み、一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「振動は感じる。つまり空間は同じだと思う。つまり水の壁でもある?」
レナリアは触る仕草をするが、特に何も感じられなかった。
「それか水が悪さをして、視界の錯覚でも起こしている?」
そっと目を閉じた。目に見えない水の流れを感じる。それがある一点に集中して固まっていた。
そこをに向かってレナリアは進み、右手をつけた。僅かだがひんやりとした冷たさを感じた。
この先に何かがいる――。
左手をぎゅっと握りしめて、右手をまるで空を切るかのように掴み込んだ。