4‐2 引き寄せられる地(2)
水の循環が日に日に悪くなっているのは、レナリアとしてもわかっているつもりだった。何が起きても不思議ではなかった。しかし目の前に続く道が途切れたと知れば、その場は愕然としてしまうのは仕方ないだろう。
昼間、レナリアとテウスはマロッカ町よりも手前の駅で大雨をやり過ごしていると、待合室で車掌が暗い顔で入ってきた。
「申し訳ありませんが、この先の橋が大雨によって流されてしまいました。そのためこれ以上汽車で東に行くことはできません」
「はあ!? そんなに橋はもろいのかよ!」
腕を組んで立っていた男が駅長に飛びつかんとばかりに近づいた。車掌は深々と頭を下げる。
「本当に申し訳ありません、予想外のことが起きまして。現地を見てきた人間によれば、橋に落雷があったとのことです。そのため橋がもろくなり、大雨によって叩ききられたようです」
数時間前、耳を塞ぎたくなるような大きな雷音が鳴り響いたのは、記憶に残っている。今の話は、その時に起きたのかもしれない。
レナリアは横にいるテウスに顔を向けた。口を一文字にして閉じていた彼は、視線が合うと口パクをしてきた。「どうする」と言っているようである。
窓の方に視線を向け、窓に叩きつける雨を眺めた。降り方には波があり、今は先ほどよりも若干静かになっている。
「雨が止み次第、迂回用の馬車を出します。希望の方は申し出てください。乗車しない方も払い戻しをしますので、切符を持ってきてください」
車掌はそう言うと、その場から一歩下がった。乗客たちは払い戻しを求めて車掌に詰め寄る人と、馬車を待つ人で分かれ出す。
レナリアはその様子を眺めてから、声をひそめてテウスに返答をした。
「マロッカ町に行ってから向かうよりも、ここから直接行った方が距離的には短い。雨がもう少し止んだら、馬を借りて行こう」
「森の中を長時間突っ切ることになる。色々なものに遭遇する確率が高くなるぞ」
「……時間がない。一日でも早く行かないと」
言葉を噛みしめるかのように言うと、テウスはふっと口元を緩めた。それから肩に軽く手を乗せてくる。
「お前のそういうところ、嫌いじゃない」
そしてテウスは窓の前で腕を組んで、降りゆく雨を眺めていた。レナリアは地図を広げて、今いる場所と目的の場所を目で追い始めた。
翌日には雨が小降りになったため、馬を借り、進路を南東に向けて走り出した。森の中を水たまりやぬかるみを避けて進んでいくが、大雨が降った翌日のため、思うような道を進むことができなかった。場所によっては川が氾濫し、水浸しになっているところもある。
川の傍を通ったとき、果たして帰りにこの道を通れるかどうか疑問にも思うほど、道が悪かった。
雨があがったばかりだが、鳥のさえずりが聞こえなかった。動物たちの気配もしない。奥深い森の中に入り始めたとはいえ、あまりにも不気味すぎる。
テウスが道中進みながら尋ねてきた。
「一日は野宿になる。めぼしい場所はあったか?」
「一応は。途中で洞窟があるから、そこにしよう。川からも遠いし、たぶん水没はしていないはず」
「わかった。寝ている間に水没されても困るから、慎重に判断するぞ」
それから夕方まではひたすらに馬を走らせ、発見した洞窟に入っていった。馬から降り、ランタンを掲げて中に入っていく。入り口は広いが中は徐々に狭くなっていった。
「ここら辺でいいか?」
入り口からほど遠くないところで、テウスは振り返ってきた。さらに奥まで行くと広大な鍾乳洞が見られるらしいが、悠長に観光をしている暇はない。地面も堅く、周囲を見渡せる場所ということなどを確認して、レナリアは首肯した。
テウスは燃やすために必要な枝を拾ってくる、お前はその間に食事の用意でもしてろといい、さっさと洞窟の外に出て行ってしまった。置いていかれたレナリアは、ランタンの火を大きくして洞窟内に光をあてる。ざっと光を一周させると、奥に続く道で人影が横切った。レナリアは目を丸くして、光を当てる。しかし既にそこにはいなかった。
「見間違い……?」
膝をついてランタンを地面に置こうとすると、再度視界に影が横切った。今度は見間違いなどではなく、影がこちらに対して拱いているようだった。
その場でじっと影の様子を伺っていたが、しつこく拱き続けていた。
「誰?」
その質問には返答がなかった。レナリアは警戒した状態で睨みつけていると、突然ランタンの火が消えた。視界は闇に覆われ、周囲が見えなくなる。慌ててランタンの火をつけようとした。だがその前に風が横切り、ランタンを引っ手繰られた。
「ちょっ……!」
手を前に伸ばすと、その先から光が漏れた。先ほど影が見えた柱の脇からだ。誰かが柱に隠れて、ランタンはレナリアに見せつけるかのように突き出していた。
レナリアは足下に気をつけながら立ち上がる。ランタンが軽く左右に振られた。
「私のことを挑発しているの? まるでランタンを取り返したければ、こっちに来いと言わんばかりね」
影の持ち主は何も語らない。一歩下がったのか、光が小さくなった。
レナリアは僅かに考えた後に、剣を片手に持ってランタンの方に駆け寄っていった。ランタンの光は近づくまで大きさは変わらなかったが、もう少しで辿りつくというところで、奥に引っ込んでしまった。
(やっぱり明らかに私のことを引きつけている。警戒しないと……)
本当はテウスと共に行きたかった。彼を置いて行ってしまうのは、気が引けている。ああ見えて彼は意外と心配性なのだ。しかしこの暗い状況下でランタンを見失うのも痛かった。
幸いにもランタンを掴んでいるものは、レナリアが追いかけてくるのを見越しながら、光を移動している。この鍾乳洞の先に何があるのだろうかと疑問に思いつつ、光にめがけて走っていった。
「あの女……」
悪態をついたテウスは、自分のランタンで先ほどまで少女がいた場所を照らしていた。
この場で簡易食を用意しておけとは言った。それはテウスなりにレナリアの体調を気遣っての発言だったが、あっさりと期待を裏切られてしまった。
「どこに行った。探索するなら言伝くらい残しておけ」
薪を地面に置き、ランタンを高く掲げて奥を照らした。奥に続く道が一本ある。外に出たのは目撃していないから、あの奥にいるのだろうか。
念のために剣が腰から下がっているのを確認し、テウスは足下に気をつけながら歩き出した。
奥に続く道は、徐々に狭くなっていた。レナリアが持って行ったと思われるランタンの光はまだ見えない。テウスが戻ってくるだいぶ前に奥に行ってしまったようだ。
歩いていくうちに、一瞬かっとなった頭が、徐々に冷えてきた。レナリアという査察官の女は、自分が置かれた張りつめた状況の中、好奇心だけで動くとは思えない。
決断すれば早いが、それまでは慎重に物事を進めている傾向があった。そして意外と臆病であり、涙もろい。テウスが着いていくと言ったとき、言葉では拒否していたが、表情はどこか嬉しそうだった。その少女がこの暗い中、ただの好奇心だけで一人で探索するだろうか。
狭かった通路はやがて終わり、目の前に鍾乳洞が広がる大きな空間が広がった。天井から鍾乳石が垂れ下がり、下からは石筍ができあがっている。ランランで当てた一部しか見えないが、それは見事なものだった。
その空間に向かって、ランタンを片手にゆっくり近寄る。すると石筍の間に俯きで横たわっている少女が視界に入った。その脇には耳をぴんっと立てている犬がレナリアのことを見ていた。そのすぐ傍には火が消えたランタンがある。
テウスは近づくが犬は動かず、むしろ顔を向けて舌を出して笑ったのだ。
『お前はこの女の連れか』
「言葉を喋るってことは、人と犬の合成獣か」
『お前もこの女と同じで驚かないのだな。すでにこういう合成獣を見ていたか。まあ、数としては決して少なくはないから、見ていてもおかしくはないだろう』
「……お前、こいつに何をした」
『説明するのも面倒だから、夢を見てもらっている。その夢でこの洞窟の役割を知ってもらう』
「どうしてここまで連れてくる必要がある。夢を見るならさっきの場所でもよくないか」
苛立ちを隠さずに言い放つと、合成獣は鼻で笑い返してきた。
『お前は魔の力がほとんどない人間だから、感じないのだな。魔の力は場所によって随分と変わる。入り口よりもここの方が断然強い。今は魔の力で夢を見てもらっているから、ここがいいのさ」
「ふうん、そういうものか」
テウスはレナリアに近づき、すぐ傍でひざを付けた。彼女の手首を触って脈をとる。落ち着いた脈が打っていた。
「ここから動かすのは駄目なのか」
『駄目だ』
きっぱり言われる。テウスは息を吐き出してから上着を脱ぎ、それをレナリアにかけた。そしてその場であぐらを組む。
動かすのが無理なら、ここで待てばいい。今晩はもう動けないのだから、彼女が目覚めるまでこの場で待とうと思った。
* * *
耳が立っている犬を見た直後、視界が暗転したレナリアは、周囲に漂う人の気配を感じると目を開いた。目の前には大量の人が右から左に向かって歩いている。
血を流しながらも懸命に歩いている者、怪我を追った人間を背負いながら進む者、ぼろぼろになった服を着た者、顔を俯きながら歩いている者など、血なまぐさい光景が広がっていた。誰もが苦しく、辛そうな表情だ。
しかし返り血を受けつつも、高貴な服を着ている女性もいた。長い銀髪は血で汚れているが、凛とした雰囲気は汚されていなかった。彼女の背中は他の者よりもしっかり伸びている。レナリアとたいして年齢は変わらないように見えた。
「ここの鍾乳洞を抜けたら一回休憩しましょう。さらに進めば外に通じる道が見えてくるはずです。それまでに皆の状態が知りたいのです」
彼女が声を発すると、その場にいた一同は立ち止まり、彼女の意見に従うかのようにはっきり頷いた。それから皆の足取りは、若干だがしっかりした。
ほどなくして鍾乳洞を抜ける。出口付近で歩みを止めて、各々その場で座り込んだ。
「――様、この後は予定通りでよろしいですか」
銀髪の女性に向かって、槍を杖代わりにした青年が尋ねてくる。彼女は細長い筒の中に入っている水を飲むと、青年に顔を向けた。
「ええ。洞窟を抜けた先に私たちと懇意にしている人間がいる。その人に既に応援は頼んである。匿ってくれるという返答はもらっているから、そこに辿りつけば多少は一安心するわ」
「それはあくまでも一時的ですよね。このまま逃げてばかりでは、埒があきません。どうするおつ――」
青年が息をのむ。女性が微笑んでいたからだ。
「あの人たちの狙いは私。なぜなら私だけが鏡の在処を知り、そこに通じる鍵を持っているから」
服の中に入っている、首から下げている紐を上に引き上げると、鍵がでてきた。
「……その村に魔の力が強い人間がいるわ。その人に譲渡したら、私はタリラート城に戻る」
「な、なりません! そんなことをしたら、貴女様は……」
「魔法使いは常に孤独よ。多くの人に崇められるけど、多くの人に忌み嫌われもする。なぜならたった一人しかいないから。だから必死になって体を張ってでも、伝えていかなければならないのよ。私たちの存在が循環の要になってしまったということを。そしていつかはその要を外して、自然の循環に戻らなければならないということを」
レナリアはその言葉を聞いて、目を大きく見開いた。
女性は青年を下がらせると、その場で軽く目を閉じた。休んでいるのか、それとも何かを考えているかはわからないが、彼女の発言した内容は衝撃的だった。
鍾乳洞の奥に目を向ける。まだ人がいるのか、松明の炎が見えた。ここの先にあるのはタリラートと呼ばれる城。地図上では消されているが、おそらくレナリアたちが行く目的地だろう。
女性、いやこの時代の魔法使いは、何らかの理由で攻められ、逃げおおせている状態だった。この洞窟はいわば隠れ道なのだろう。
しかし長距離に渡っているのか、誰もが水を飲もうとしても、もう飲み尽くしている人が大半だった。
周囲が再び暗くなっていく。松明の炎もぼやけて見えてきた。そのとき目を開けた女性と視線があった。彼女は一拍置いた後に、力強く頷いてきた。背中を押された気がしたレナリアの視界は再び暗転した。