3‐18 閉ざされた記憶の先へ(4)
* * *
アーシェル自身の立場の真実を知ったとき、不思議と心が落ち着いていた。
自分が外れていると薄々感じていたからか、もしくはレナリアと出会ったとき何かを感じたからかはわからないが、いつか何かが起きると思ったのだ。
たしかに自由自在に液体を操れるとは自負している。しかし最近使い勝手が悪くなっているのはわかっていた。それが本当の魔法使いでないと知った今なら納得できることだった。
さて、これからどうしよう――。
目を開ければ、青い海を前にしてアーシェルは一人で立っていた。空は異様なくらいに青い。心が穏やかになるような風景は、人を殺めた者にはあまりにも辛い光景だった。いっそのこと真っ黒な世界に突き落としてくれればいい。
しかしそうならないのが残酷な現実だった。
前髪を軽くいじりながら、少女は一人で呟く。
「まずはこの世界からでないといけない。でも、どうすればいいのかな……」
試しに手を前に突きだしてみる。普段ならこの行動をすれば、自然と水の分子が漂ってくるはずだが今はまったく手応えがなかった。
肩をすくめながら、手をおろす。そして両の手のひらをじっと見下ろした。
今まで何度も助けられた魔の力。それがもう使えないのだろうか――。
そう思うと、急に恋しくなってきた。
強すぎる魔の力があるが故に、多くの人から狙われ殺されかけたりもした。アーシェルにとっては忌まわしい力とも言えるのに、いざ失ってみると唐突に不安になる。
しかしレナリアのことがあってもなくても、近い将来消えるのは明らかだった。
「――汝、何故、今も力を欲しているのか」
背後から中性的な人の声が聞こえてきた。アーシェルが振り返ると遠くの方に人の影のようなものが見えた。
「何故力を――」
「居るべきところに戻って、本来すべきことをしたいから。具体的にはレナリアさんへの伝承になるかしら」
「汝、死すら恐れぬというのか」
死という言葉を聞いてアーシェルは内心ドキリとした。意図的に言葉に出すのは避けていた単語だった。
「……伝承した場合、私は死んでしまうの?」
戸惑いながらも問うが、言葉を発していたものからは返答がなかった。
「……自分で行動して、結論を出しなさいってことのようね」
もともと異端児なのだ。他人に意見を求めること自体が間違っているのだろう。
アーシェルは顔を斜め上に向けた。不自然すぎるくらいの青い空。ここが異空間というのは見た目から分かりきっている。ここから抜け出して、現実世界に戻らなければ何も進まない。
再び自分自身に魔の力を集めようと意識しようとした途端、声が一段と響いた。
「汝、我らの手となり、足となり、この国を救うことを誓うか」
アーシェルは目を丸くしてから、そのものを見据えた。
我らとは誰なのかだろうか。ただ一つ言えることがあった。
「――この国を救うと誓います」
それは力がない者が言えば、ただの妄想ともいえる発言。
しかし力がある者がいえば、真ともなり得る発言。
どちらに転ぶかはわからないが、アーシェルは自分の信念に基づき、両方の立場を踏まえて、言い切った。
張りつめていた空気が緩む。声の主は次の言葉をしっかり言い切った。
「その誓い、忘れるなよ」
次の瞬間、アーシェルの視界は暗転した。
* * *
小鳥のさえずりが聞こえてくる。そして暖かな光が顔に当たってくる――。穏やかな日差しが、自然と目を開けさせてくれた。
アーシェルが目を開けた先に見えたのは、木の温もりを感じさせる天井だった。柔らかい白い布団がアーシェルのことを包み込んでくれているようだ。
ドアが引く音がすると、ゆっくりとした足取りの足音が近づいてきた。
「お目覚めになったのね、タレスさん。良かった……」
逆光ではっきり見えないが、微笑んでいるレナリアの母親が見下ろしていた。彼女はアーシェルの顔を確認すると、カーテンを全開にした。光が一斉に部屋の中に飛び込んでくる。
「久々に晴れたから、そろそろかなと思っていたの。どうやら水の加護はまだ貴女のもとにあるみたい」
アーシェルはゆっくり起きあがる。途端に体の節々が痛みをあげた。動いたのに気づいた母親は、そっと背中を支えながら起きあがるのを手伝ってくれた。
「無理しないで。十日もまともに動いていないの。体がすぐに追いつかないはずよ」
「……と、十日!?」
声をあげると、再び痛みが走った。レナリアの母親が背中にクッションを置いてくれた。そこにゆっくりと背中を預ける。
「あの祠で意識を失って、私の家に連れ込んだの。すぐに目覚めるわけがないと思って。そしたら案の定、今日目覚めたわけよ。永遠に起きないことも覚悟していたけど、絶対に起きるって眼鏡をかけていた子が言っていたわ」
「キストンさんですか……」
胸の中がじんわりと温かくなる。おそらく確固たる根拠はないだろうが、そう思ってくれる人がいるというのは嬉しかった。
「あれに触れて、何もないというわけではないでしょう。夢でも見たのかしら」
「……消えていた過去の記憶が蘇りました。そして今後行かなければならない場所もわかりました。でも……そこがどこにあるかはわかないのです」
ファーラデが言っていた城に行って、レナリアに魔の力を受けた渡す必要があった。しかし彼はあくまでも城としか言っておらず、どこなのかはまったくわからなかった。さらに言えば、城は国内にはすでに存在していない。いったい彼はどこを示していたのだろうか――。
「まったく検討は付かないの?」
「城という単語しかわかりませんでした……ファーラデさんが言っていたことによると」
青年の名を挙げると、レナリアの母親は目を細めた。様子を伺いながら彼女の顔を見る。しばらく見つめ合っていると、彼女はゆっくり口を開いた。
「体調は悪くない?」
「体が痛いのと、頭がぼんやりしているだけです」
「そう、ならお昼過ぎなら多少話しても大丈夫そうね。私に心当たりがあるから、その情報源を持っている人を連れてくる」
「え……。そのような面倒なことをしてもらっても、いいんですか?」
彼女は踵を返して、背中を向けた。
「いいのよ。誰かが繋がないと始まらないから」
紺色の髪の女性はきびきびとした足取りで、その部屋から去っていった。
目覚めたことを伝えられたキストン、ルカ、トラスは、アーシェルと顔を合わすと、涙を溜めながらも喜んでくれた。数日ならまだしも、十日も意識を取り戻さなかったのが、より心配になったらしい。
キストンは涙ぐんでおり、アーシェルが大丈夫と言うと、すぐさまタオルに顔を埋めていた。それを見て、アーシェルも泣きそうになる。無事に戻ってきて、本当に良かったと思った。
トラスと顔を合わせたときは、哀愁漂う表情をしていた。過去の出来事を思い出せば、必然的に彼の父の死を目の当たりにすることになる。そのことを察し、思い出していたのかもしれない。
「記憶は戻った」とだけ言い、あえてトラスに当時のことを問いただそうとはしなかった。しかし、トラスはぽつりぽつりと事実を話してくれた。
彼はあの後青輪会の人と合流し、ラレットと先代の遺体を埋葬したことと、アーシェルを保護したことを伝えてくれた。
ファーラデについてはどうするかと悩んでいる間に、知り合いであるレナリアと男性が彼を見つけたことで二人に任せようという判断になった。幸いにも男性は魔法使いとも縁のある人間だったらしく、瞬時に状況を見極めて事をすんなりと納めてくれたようだ。しかし真実を知らないレナリアには、さらに疑惑が深まってしまったようだった。
目覚めたアーシェルは食事をとり、ゆっくりと体を動かしていると、レナリアの母親がドア越しから人を連れてきたと言ってくれた。
アーシェルは三人と一緒に緊張しつつもその者を出迎える。中に入ってきたのは、芯の強そうな表情をした亜麻色の髪の女性だった。思わず立ち上がろうとすると、彼女は座ったままでいいと促してくれた。
「初めまして、アーシェル・タレスさん。私はチャロフと言います。貴女とお会いできて良かったわ」
「初めまして、チャロフさん。私と会えて良かったとは……?」
彼女は微笑んだままアーシェルに近づいて、小さな木箱を手渡した。受け取ったアーシェルは、その蓋を開ける。若干錆び付いた趣のある鍵が入っていた。
「息子であるファーラデが私に預けてくれました。これを小さな魔法使いに渡して欲しい――と。当時は小さな魔法使いだったようですが、あれから五年以上たっていますから、小さなというのは若干語弊がありますね」
「いえ……精神的には変わっていませんから、小さな、で十分です」
「……息子のことはルベグランさんから本当のことまで話は聞いています。貴女のことを恨むなと言われましたが、それには首を縦に振れませんでした。だからここで改めて一言いわせてもらいます」
アーシェルはびくっとしつつ、箱を握りしめた。奥歯を噛みしめて顔を上げる。ファーラデの母親は穏やかな表情だった。
「――その鍵を使って開けるべき扉を開けてください。ファーラデが伝えようとしたものをしかと受け取って、前に進んでください」
アーシェルの目は徐々に丸くなっていく。ファーラデの母親は微笑んでいる。
「それがあの子にとって、一番望んでいることです」
そこで自然と目から涙がこぼれた。一筋だけだが確かに流れていった。
アーシェルはそれ以上涙がでるのをこらえながら、静かに頷き、応えた。
「わかりました」