3‐16 閉ざされた記憶の先へ(2)
一瞬アーシェルは自分の耳を疑った。呆然と立ち尽くして、ファーラデが発した言葉を脳内で繰り返す。
穏やかな空気をまとっている青年が躊躇いもなく物騒なことを言った。
幼いアーシェルにいなくなってもらう――ということを。
それを聞いた銀髪の幼き少女は目を丸くして立っていた。ラレットは静かに口を開く。
「大きくでたものだ。なぜ、いなくなって欲しいんだ」
「魔法使いの彼女がいると、僕にとって大切な人が生きていられなくなるからです」
「……は?」
真顔で言ったファーラデに対し、ラレットは眉をひそませた。何を言っているんだという表情だ。
もしかして彼にとって大切な人とはレナリアだろうか。彼女も彼のことを大切に想っていた。兄妹、いやそれ以上の関係や想いが、二人の間にはあったのかもしれない。
ファーラデは川にかかっている橋に目を向けた。その方に向けて、しっかりと歩み出す。
「ラレット氏は不思議に思わなかったのですか、あまりに幼すぎる魔法使いの誕生を。むしろ疑問には思いませんでしたか、彼女は本当の魔法使いなのかと」
「本当の?」
「そう、本当のです。――アーシェルさん、たぶん君は薄々気づいているはずだ、自分の立場というものを。そして誰かと呼応しているということを」
ラレットの後ろにいた幼きアーシェルはびくりと肩を震わせた。
大人のアーシェルは言葉の意味が掴めず、ただ首を傾げるばかりだ。しかし脳内に何かが引っかかってくる。その引っかかりを思い出そうとすると、途端に激しい頭痛に襲われた。思わずその場に座り込む。引っかかっていたのは、閉じられた記憶だった。
ここから逃げ出して、この痛みから逃れたい。だがそれをすれば記憶を取り戻せない。ぎりっと噛みしめて、幼き自分を見つめた。
ファーラデが橋を渡り、アーシェルたちに近づいてくる。
「君は誰と呼応している? その人も魔法を使える力を持っているのでは?」
「……知らない。あたしだけよ、魔法を扱えるのは!」
少女が叫ぶと、ファーラデの前に地面から氷柱が現れた。彼は寸前で立ち止まって氷柱をかわす。そして少女から視線を逸らさずに、言葉を続ける。
「まだその人物は魔法が使えない。でも使えるようになったら君はどうなるだろう? おそらく魔法が使えなくなるだろうね。君はその人が力を出すまでの、その場しのぎでしかない……」
「違う!」
幼きアーシェルは涙目になりながら、声を大にした。ファーラデの目の前に巨大な氷の壁ができあがる。少女はぎゅっと手を握りしめていた。
ラレットはそんな少女を横目で見ながら、口を開いた。
「ファーラデ、それらはすべて君の推測だろう。それで彼女を追い立てるのは失礼だ」
「――証拠ならあります」
青年はより強調して、言葉を発した。
ラレットはうろんげな目で氷の壁に石をぶつける。すると氷は小さな音をたてて、あっという間に消えてしまった。ファーラデはラレットと睨み合っても、堂々と立っていた。
アーシェルは胸の前で両手を握りしめる。そして固唾を呑んで、彼の言葉に耳を傾けた。
「どういう証拠だ?」
「……魔法使いになる人間は、ある共通点があります。彼女にはその共通点に当てはまらないのです。一つはこの系譜です」
ファーラデは鞄から何枚もの紙を取り出す。それは丁寧に書かれたいくつもの系譜だった。
「これははじまりの魔法使いの血を受け継いでいる人たちの系譜です。この中にアーシェルさんの名前はありません。魔法使いになる人間は必ずここに入っています」
「もしかしたら例外がいるかもしれない。過去がそうであったとしても、今後は例外が生まれる可能性はある。その系譜だけで、この子が魔法使いでないという理由には当てはまらない」
ラレットは鼻で笑いながら、受け流す。しかしファーラデは表情を変えずに、今度は手袋をはめ、ポケットの中から丸い群青色の石をポケットから取り出した。それを幼きアーシェルに向かって差し出す。
「アーシェルさん、君にはこれを握れるかい?」
それをじっと見た少女は言われるがままにおそるおそる手を伸ばしてきた。ファーラデが持っている宝珠と手が触れると、大きな音をたてて火花のようなものが舞い散った。目を丸くした少女はすぐに手を離す。
その一連の様子を見ていたファーラデは、視線を下げて首をゆっくり横に振った。
「……やはりアーシェルさんは本当の魔法使いの素質はないようだね。今後使い続けられたとしても、秀でた魔術師で終わるだろう」
「どういう意味だ。それは何だ?」
ラレットが詰問口調で聞いてくる。ファーラデはポケットに宝珠を入れると口を開いた。
「はじまりの魔法使いの力が含まれていると言われる石の一部です。本当に魔法使いの血筋を引いていれば、これに触れることは造作もありません」
「それだけで魔法使いか否かを判断するとは、それこそ早急すぎる。この子は水ではない液体物も凍らせることができた。それこそ魔法使いという証拠ではないか?」
「たしかにその力を使えるのは、魔法使いだけです。ですが仮に一時的な魔法使いが存在するとしたらどうでしょうか? 魔法使いの力は決して途絶えることはないと言われています。しかし歴代の魔法使いが在籍していた期間を調べてみると、空白の期間がありました。果たしてその間、魔法使いはどう存在していたのでしょうか。もしかしたら私たちや本人たちが知らないだけで、魔法の力を一時的に宿した、隙間の魔法使いになっていたかもしれません。そして今の隙間はアーシェルさんではないでしょうか」
「さっき君は系譜に乗っていない人間は魔法使いになれないと言ったじゃないか」
「それは歴史上に名を残している、長期間に渡って魔法使いとして居続けた人のことです。隙間の人間はおそらく誰でもいいでしょう。魔法を使って何かをしようという人ではないのですから。選ばれる人間としては、魔の力を理解していない、子供が多いのではないかと思っています」
流れるように紡がれるファーラデの言葉。推測でしかないが、彼の口ぶりからはそれが真実であるようにも思われた。
しかしいくつか矛盾が生じていた。大人になったアーシェルが存在しているということだ。これは隙間というには、明らかに期間が長すぎるのではないだろうか。
だがラレットは思い当たる節があるのが、神妙な顔つきになっていた。ファーラデは目を軽く伏せてから、幼き少女に視線を向けた。
「通常ならば隙間の魔法使いは気づかれることなく、本当の魔法使いに魔の力が移っていきます。それにも関わらず今でも隙間の魔法使いのアーシェル・タレスが存在し続けているのは、次の魔法使いの準備ができていなかったから。――そう、魔法使いを選ぶ余裕がないほど、水の循環が狂っているのです」
「……ファーラデ・チャロフ、さっきから随分とこの子に失礼なことを言っているとは思わないか」
ラレットは静かに低い声を出した。それを聞いたアーシェルは背筋に悪寒が走った。男の周囲に漂う水の源が少しずつ揺れ動いている。
幼きアーシェルもその気配に気づいたのか、彼から半歩離れた。
「仮にこの子が隙間の人間だったとしよう。この子がこのまま魔法使いで居続けていて、何か不都合なことはあるのか?」
「――この雨、降り方が極端すぎませんか。まるで彼女の心の荒れをそのまま反映しているかのようです。本当の魔法使いであれば、そこまで気象に影響することはありません。魔法使いとは本来水を操るのではなく、循環に沿って少し力を変えるだけの存在ですから」
ファーラデは指をすっと一本立てた。
「逆に局地的に極端な影響を与えてしまうのは、抑制しきれていない魔術師くらいですよ。……アーシェルさんの力は隙間にしては強すぎる。今は絶妙なバランスの中で成り立っていますが、いつかはその均衡が崩れれば、それによって国が崩壊しかねません」
亜麻色の髪の青年は幼きアーシェルの前に立ち、そしてまるで見えないはずのアーシェルを認知しているかのように、視線をまっすぐ向けてきた。
「まだ循環に入った亀裂は浅いです。次の魔法使いも、世の中に関して受け入れられる歳になりました。……アーシェル・タレスさん、ここで魔法使いという立場の貴女を消して、次に引き継いでくれませんか? 今すれば貴女はただ単に魔法を使えなくなるというだけで終わる。ただし年月が過ぎれば、それ相応に体への反応は大きくなる……」
幼きアーシェルはうつむいて、手をぎゅっと握りしめる。十歳過ぎの彼女には、すぐに理解できないかもしれない。だが心当たりはあるらしく、固い表情をしていた。今のアーシェルの方がよっぽど戸惑っている。五年以上先の未来では、循環は依然として狂いはしているが、国を滅ぼすまでには至っていない。
「……言いたいことは以上だな」
ラレットは深々と息を吐き出しながら、言葉をこぼす。
「ファーラデ・チャロフ、お前は本当に優秀だ。推測だけでここまでの意見を作り出すとは。本当に亡くすのが惜しいよ。私としては彼女にはまだまだやってほしいことがあるから、たとえ隙間であっても魔法使いの力を失ってほしくない」
ラレットがそう言うなり、右腕を前に振った。すると氷の銛が生まれ、ファーラデに向かって飛んでいく。ファーラデは魔術道具で氷の障壁をすぐさま作り、銛を受け止めた。その間に数歩下がる。
「ここで僕を本気で殺すつもりですか。刺殺死体が転がっていれば、不審に思われますよ」
「事後処理は適当にやるさ。さて――」
「やめて」
黙っていた幼き少女はぽつりと言った。彼女の周りからゆらゆらと靄が溢れ出てくる。
「どうしてこの人を殺さなければならないの」
「私にとっても君にとっても不都合な人だからさ。ここで殺さなければ君はいつかこの人に殺される」
「この人は殺さないよ。私が……魔法を使えなくなるだけでしょ」
少女はラレットの脇を通り、ファーラデの元に歩み寄っていく。彼はそれを見て、ほっとした表情を見せた。ラレットはしばし無言だったが、少女の体にファーラデの手が触れる前に、腕を前に伸ばしていた。
ファーラデと大人のアーシェルは目を大きく見開く。背を向けていた少女はとっさに振り返ったが、その前に魔術は発動し、矢がファーラデの胸に向かって一直線に放たれた。
警戒を怠っていた彼は障壁を作るのが遅れた。しかし彼に触れる前に、その矢は直角に飛んできた他の矢に衝突し、その場で砕け散った。
「こんな芸当をするとは……、年老いてもかつての魔法使いということか」
ラレットが舌打ちをして、矢が放たれた方向に顔を向ける。
トラスに支えられた険しい顔の先代が、険しい表情で立っていた。