3‐6 先人が遺したもの(1)
最近よく見る夢がある。
絶え間なく雨が降っている夢だ。
しとしとと降る雨から大降りまで、その日によって降り方は変わっていた。だがどれも共通して言えることは、天気が雨という点だ。
今回の夢は比較的穏やかな降り方で、びしょ濡れになるということはなかった。
何もない平原の真ん中で、私は一人立っていた。藍色の髪は結んでいないのか、少し動かすと長い髪が揺れる。
その場で佇んでいると、少し先にぼんやりとだが人影が見えた。その者に向かって言葉を漏らす。
「誰?」
「……ここはどこだって聞かないんだ」
淡々とした中性的な声。どこかで聞いたことがある気がしたが、この場では思い出すことはできなかった。
私はふっと笑みを浮かべた。
「こういう夢、最近ずっと見ているの。夢だって割り切れれば、どこだって同じよ」
「そうかな。夢であっても辛い夢だったら心には負荷がかかるよ。夢から覚めたとしても、苦しいままだろう。――ほら、夢の中でもこれは直視できる?」
人影が左に動くと、そこに光が当てられた。ゆらゆらと水が漂っている。そこに人の肌と髪が見えた。一歩踏みだし覗き込んだが、すぐに足を引っ込めた。途端に動悸が激しくなる。苦しくなる胸のあたりの服を掴み、その場でしゃがみ込んだ。
もう六年か。いや、まだ六年か。今でも彼の死んだときの顔は忘れられなかった。
「君にとって辛い過去の一つ。大切な人の突然すぎる死を夢で見ても、平静にいられるの?」
「……何なの、あなたは」
ぎろりと人影を睨みつける。しかしそれは引き腰になることなく、立ち続けていた。
「僕は君が抱えている力だよ。君がきちんと解放する手だてを踏んでくれれば、ここで悪さをすることもなくなるし、現実世界で暴走することもない」
「あなたを解放? つまりあなたは私の魔の力とでもいうの?」
「そう捉えても間違いではない」
人影は一拍置いて言葉を続ける。
「ねえ、君は生き続けたい?」
「何よ突然……。まだ死を直視する年齢じゃない。生きたいに決まっている」
「そう。なら決して選択は間違えないで。自分自身の命のために」
薄暗かった周囲が急速に暗くなっていく。目の前に広がる光景や人影が確認できなくなると、私の意識もそこで途切れた。
* * *
うっすらと目を開けると、天井が視界に入った。何度か瞬きをして、しっかり目を開く。そして右手を持ってきて、顔の前で爪が食い込むくらいにきつく握りしめた。
痛い。
それを感じるとレナリアは起きあがった。ぼさぼさになった髪を軽く手でとかす。時計に目を向け、腕を真上にあげて伸びをした。朝が早い人間に会うために、レナリアはゆっくりすることなく支度を始めた。
コルヴェルの家で意識を失ったレナリアは、数時間後にその部屋にあるソファーの上で目覚めた。すぐ傍にある椅子ではテウスが腕を組んで目を瞑っていた。
彼の姿を見て慌てて起きあがると、若干頭痛が走った。小さなうめき声を上げるなり、深い眠りに入っていなかったのかテウスがすぐに目を開けて、横になるよう促してきた。それを軽く手を振って遮る。
「ごめん、日付が変わっちゃった……。アーシェルに何か言われたら、弁明するから」
「俺が自分の意志で残ると決めた。そこら辺は気にするな。……調子はどうだ」
「さっきよりはいいけど、もうしばらく大人しくしてないと、思うように動けないかな」
「症状が進行しているようだ。さっさと抑え込む術を学んだ方がいい。……レナリア、一つ提案がある」
そしてテウスはゴスラル村のことを話し、一緒に行こうと提案してきた。その申し出は嬉しくもあったが、すぐに断りを入れた。
テウスはアーシェルの護衛だ。彼女から離れるなんて考えられない。必死に断り、立ち上がったが、その瞬間目眩に襲われた。思わずその場で座り込んでしまう。
それを見ていたテウス、そして起きたコルヴェルに諭されて、アーシェルから許可を得られたらという条件付きで、彼の同行を認めたのである。
雨が降っている夢を見た直後は、特に目眩が酷く、頭もくらくらする。本音を言えば同行してくれるのは有り難かった。
「私、このままどうなるのかな……。査察官に戻れるのかな……」
鏡を前にして、自嘲気味に呟く。そして無理に口角をあげて、笑みを作った。
どんな時でも前向きに生きろ。明日がどうなるかなんて、誰にもわからないから――。
おおらかで楽天主義者でもあったルベグランが、よく言っていた台詞だった。
たとえ明日自分の身に何が起きようとも、全力で受け止めようと思いながら、レナリアは部屋を後にした。
官公庁街に行くまでには、橋を渡らなければならない。水環省へ行くにも、もちろん川を越える必要があった。
帽子を深々とかぶったレナリアは、橋の脇でぼんやりと来る人を待っていた。開庁まではまだ二時間あるため、人通りはほとんどない。そんな道を真っ黒な髪を整えた、ひょろ長い男性が歩いてくるのが見えた。彼を見つけると、レナリアは帽子をとりながら足早に近づく。男性もレナリアのことを気づくと、目を丸くした。
「レナリア、どうしたんだ! 退院したとはいえ、まだ自宅での療養が必要だと言われていただろう」
「ウィリー部長、お話があります」
男性は周囲をきょろきょろと見てから、レナリアを川の袂に連れて行った。草むらの上に二人で腰を下ろす。
「すみません、本当はあまりこちらに近寄るべきではないと思っていたのですが、早急にウィリー部長に伝えることがありまして」
「何だい?」
「しばらくここを離れます」
「その体でか?」
レナリアは胸のあたりで拳を作って頷いた。
「この体だから行かなければならないのです。知り合った魔術師に、私の魔の力が乱れていると言われ、それを正さないと最悪死に至ると言われました。そこで正すことができる人物がいる、北にある村に行きます」
「一人か?」
「いえ……、一緒に入院していたテウス・ザクセンが同行予定となっています。彼はとても腕がたつ人間なので、安心して背中を預けられます」
「彼は例のお嬢さんの護衛だろう? 大丈夫なのか?」
レナリアは視線を軽く川に目を向けて、頷いた。
「彼女ならきっとテウスを私に同行させます。彼女は優しすぎる娘なので。……というわけで、しばらく首都を離れます。休職中なので業務には差し支えないと思いますが、音信不通になって騒がれるのも嫌なので部長にはお伝えしました。よろしくお願いします」
頭を下げると、ウィリーは何か言いたげな表情をしていた。レナリアは彼が口を開く前に立ち上がり、背を向けた。すると背後で慌ててウィリーが立ち上がった。
「レナリア!」
口元を緩めて振り返る。
「止めても行きますよ」
「それは君の意志だから、私は止めはしない。ただ、本当に気を付けてくれ。最近魔術師にとっては嬉しくない噂を耳にするんだ」
レナリアは眉をひそめて、体を向けた。そのような話は初耳だった。
「どのような噂ですか?」
ウィリーの視線がレナリアの腰にある、ウェストポーチに向かれた。
「魔術を扱う上で媒体となる物が奪われるというものだ。北にある水環省の支部にいる魔術を扱える人間がやられた。他の省の知り合いにも聞いたら、やはり何人かやられているようだ」
「いつからですか?」
「水環省の職員に関しては、あそこの強制査察の後だ。他もいつかはわからないが、その近辺あたりだったと思われる」
時期に関して少しだけ引っかかった。ちょうどレナリアがうまく魔術の力を抑えられなくなった頃だ。
相手は生きている人間、こちらは目に見えない魔の力。因果関係はないと思われるが、少しだけ情報を脳内にひっかけておいた。
レナリアはウェストポーチを軽く撫でる。
「情報提供ありがとうございます。道中気を付けながら行ってきます」
首からかけているペンダントの紐に指をかけようとすると、ウィリーは首を横に振った。
「前にも言ったが、それはレナリアにとっては身を守るためのお守りだ。必死になって得たものだろう、決して手放すな」
「……わかりました。有事の際にこれが活躍しないことを願っていてください」
くすりと笑みを浮かべたレナリアは深々と頭を下げて、颯爽と土手を駆け上った。
首都でするべき挨拶は、あと二カ所。人々が本格的に動き出す前に、早めに向かおう。
そんなレナリアの背中をウィリーはじっと見つめていた。
ガリオットの工房に向かうと、ちょうど裏口から出たところで彼が煙草をふかしているときだった。欠伸をかみ殺しているのを見て、徹夜でもしたのだろうと予想ができた。
頭をかいているガリオットは、レナリアの方に顔を向けた。
「おう、おはようさん。ようやく退院したのか。それで朝早くからどうした? キストンならまだ布団の中だぞ」
「ガリオットさんに会いに来たんです。銃の調子を見てくれませんか?」
「急ぎか?」
「できることなら、なるべく早く」
ガリオットは煙草を加えながら、ドアを開けた。そして首を軽く動かす。
「すぐ見てやる。中に入れ」
それに従って足早に建物の中に入った。裏口は居間と台所に直結している。泊まり仕事が多い工房だったが、今日はガリオット以外いなかった。
「昨日納期のが大量にあって、それが終わったから他の奴らは家に帰らせている。たまには休みをいれねぇと、体が壊れるからな」
ガリオットが右手を差し出してきたので、銃を取り出して手渡した。彼はそれを握りしめると、光に当てながらじろじろと見始めた。
「銃弾はたいして使ってないな。あまりはあるから足しておく。よく見りゃ血がついているな? キストンの野郎から話は聞いたが、大丈夫なのか?」
「随分ゆっくり休ませてもらいましたから、もうぴんぴんしていますよ。キストンに綺麗に拭いてもらったのですが、まだ残っていますか?」
「本当に少しだがな。あいつは銃を扱った経験が少ないから、見落としているんだよ」
ガリオットは道具箱を手にすると、慣れた手つきで銃を分解しだした。ネジを外して、切れ目の部分を分解していく。止まることなく手は動いていった。やがてあっという間に銃はバラバラになった。それを消毒しつつ、布で拭き始める。
「今度はどんな無茶をするつもりだ」
「北に行くだけですよ。目的も査察とかそういうのではなくて、人に会うためです」
「誰と行くんだ」
「首都まで一緒に来た青年です。キストンも知っていますよ」
「あいつに挨拶は?」
レナリアは一瞬返答が詰まった。眼鏡をかけた、明るく元気に話しかけてくる少年が思い出される。彼を思い出すと銀髪の少女のことも同時に思い浮かんでしまった。
面と向かって彼に挨拶をすれば、根掘り葉掘り聞かれる。余計な心配はさせたくなかった。
「……時間もないので、ちょっと難しいと思います。ガリオットさんから言っておいてくれませんか? 首都にはまた戻ってきますから」
「そういう伝達役って面倒なんだよな。直接言えよ」
「いつまで寝ているかわからない人は待っていられません」
「会いたくねぇなら、そう言え。変に気を使うんじゃねぇ」
黙々と部品を磨き終えたガリオットは、すぐに銃を組み立てだした。
「お前の身に何が起きているかしらねぇが、ちゃんと戻ってこいよ。俺は人を護るための物を作っている。それが活躍できれば、使っている人間が生きて帰れると思っている物をな。使わないままで死にましたとか言ったら、ぶん殴るぜ」
「ガリオットさんはいつから死者まで殴れるようになったのですか?」
レナリアがふっと笑うと、ガリオットに悪態を吐かれた。
綺麗に磨き上げられた銃は、銃弾を込められて手渡される。仄かにだが先ほどよりも銃に熱を帯びている気がした。それと同調して血が騒ぎそうになったが、意識をしないようにして抑え込んだ。
ガリオットに旅立ちの挨拶をし、陣中見舞いをもらって、レナリアは最後の場所へと向かった。