3‐5 動き出す運命の歩み(5)
糸が切れたかのように後ろに倒れた少女を、テウスはとっさに支えた。額だけでなく、全身が汗でびっしょりだった。コルヴェルに指示されて、傍にあった荷物がのっているソファーで寝させるよう言われた。
彼がソファーを片づけている間に、テウスはレナリアを抱き上げる。ピュアフリー・カンパニーの時に抱え上げたときよりも若干軽くなった気がした。そしてゆっくりと彼女をソファーに横たえさせた。
コルヴェルは彼女を見下ろしながら呟いた。
「すまないね、本当に。思わず真実を言いそうになって、それが彼女の体が反応してしまったようだ」
「今、レナリアに何をしたんだ?」
「魔の力を整えさせてもらった。深く視ることで無理矢理介入させることができる。渦巻いていた水に対して、手を突っ込んで流れを止めるような感じかな」
コルヴェルは言葉の途中で咳き込んだ。何度も何度もこちらが心配になるくらい、背中を丸くして咳をしていた。やがて収まると近くにあった椅子に腰を下ろした。
「この通り反動が大きいから滅多にしない。おそらく明日は寝込むな」
「すまない……」
「いや、こちらの落ち度だから気にするな」
「真実って、何だ?」
テウスはコルヴェルとレナリアを交互に見た。男は軽く口元を拭っている。
「真実については、残念ながらある人間にしか彼女を前にして言えないんだ。気を失っているとはいえ彼女がこの場にいると、私から話すのは難しい。それほど魔の力というのは繊細なんだ」
コルヴェルはテウスの体を下から上までじろじろと見る。
「今の魔法使いは十代半ばの少女と聞いた。だがその歳でも魔法を使えるようになってからは、十年以上経過しているんだろう?」
「そう聞いている」
「魔法使いである期間は、一般的に二十年くらい、その少女の残りは半分を切っているということだ。レナリアさんとそのお嬢さんは会ったことがあるのかい?」
「ああ。一緒に旅をして、首都まで来る予定だった」
「最近、急に会えなくなったとかレナリアさんあたりが言ってなかったかい?」
テウスは軽く眉をひそめた。
「……言っていた。会おうとすると、体調が途端に崩すと」
「なるほど、極端な状態までいっているのか。これはだいぶ進んでいるな。……レナリアさんと親しく、魔法使いの近くにいる人間である君には先に言っておく。二人は決して会わせるな」
「……は? どうしてそうなる? 魔法使い様はレナリアに話したいことがあるのに!?」
「もしかしてファーラデの死のことかい?」
「レナリアの隣人のことか。なぜわかるんだ?」
コルヴェルは息を吐いて、自分の目を指でさした。
「だから言っただろう、私は魔の流れを視ることができる。ファーラデが亡くなった現場を視たら魔法の残滓がくっきりと残っていたんだよ。魔法使いはあの場にいたのは確かだが、あそこで何があったかまではわからなかった」
「だから二人を会わせるべきだ」
「それは無理な話だ。無理矢理にでもすれば、レナリアさんは壊れるぞ」
静かに胸を上下させているレナリアをコルヴェルは眺める。
「……ただし、魔を抑え込める術を学んだ後なら、大丈夫かもしれない」
「それはどこで学べるんだ?」
コルヴェルは目を部屋の奥に向けた。
「北にある、小さな里だ」
* * *
その夜、青輪会が滞在する家にテウスは帰ってこなかった。妙な胸騒ぎがしたアーシェルはすぐに眠れなかったが、横になっているとうっつらうっつらしてきて、そのうちに浅い眠りに入ってしまった。
明け方近くになり、廊下で物音がしたのに反応すると飛び起きた。ドアをゆっくり開けると、長い黒髪の青年の後ろ姿が見えた。アーシェルは一気に部屋のドアを開け放った。
「テウス!」
青年は肩を跳ね上げて、振り返ってきた。驚きに満ちた顔つきの青年が立っていた。
「アーシェル様、なぜ……」
「夜、帰ってこなかったから、どうしたのかなって。……ごめん、テウスだって男だものね。私がしつこく追求するべきじゃないわね」
慌ててドアを閉めようとすると、彼は踵を返して寄ってきた。
「すみません、不測の事態が発生したため、夜のうちに戻れなかったのです。女遊びとかでは決してありません!」
「……別にしてもいいけど、私にいちいち断りを入れないでね。私は貴方を監督しているわけじゃないから」
閉じかけたドアを少し開け、テウスをじっと見た。煙草やお酒の臭いはしない。服が乱れた形跡も、髪が濡れている様子もない。女遊びや酒場に浸っていた様子はなかった。
むしろなぜこんな時間までかかったのかが気になった。
「どうかされましたか?」
仄かに水の香りがする。彼の腕に氷の粒がついているのに気づいた。それを軽く払うと魔の力を感じた。
「……レナリアさんと会っていたのね」
自分でも驚くくらい低い声を出していた。テウスは間を置いた後に口を開いた。
「……はい。お伝えしなくて、申し訳ありません」
「だから別に私は貴方の監督者じゃない。非番の日にあれこれ指図するつもりはないわ。……レナリアさんは元気?」
「そのことでご相談があります。あとで改めてお話に伺ってもいいですか?」
今でもいいと思ったが、まだ明け方だ。他の人に見られたら何事かと思われてしまう。急ぎの用事でないなら、朝食の後でいいだろう。
テウスと適当に時間を決めて、その場は解散となった。
建物の中にある小さな応接室で、アーシェルはデーリックと並んで、テウスと真正面から向かい合っていた。彼の表情は先ほどと同じように浮かない顔をしていた。デーリックもテウスの様子を伺っているようで、口を開かなかった。仕方なくアーシェルが口を開く。
「テウス、相談って何のこと?」
黒髪の青年は膝の上で両手を握りしめた。
「……しばらくお暇をいただきたいです」
デーリックの眉が軽く跳ね上がる。薄々予想していたアーシェルはふうんっと相槌を打った。
「護衛業をしばらく休むってことね。期間は?」
「はっきりとした期間は未定ですが、少なくとも二、三ヶ月は猶予がほしいです」
「その期間だと私が遠征するとなった場合、一、二回くらいは見送ることになるわね」
「……申し訳ありません」
深々と頭を下げるが、彼は自分の意見を曲げようとはしなかった。アーシェルはデーリックに目を向けると、彼は手を軽く動かして話を進めるよう促していた。
テウスはアーシェルの護衛である。青輪会でも長期に不在にする人間もいるため、彼としては止めにくいのだろう。
「テウス、差し支えなければ理由を聞かせてもらってもいい?」
「はい。……実は昨日レナリアと会っていました。そこで出会った人物から、彼女の魔術の力が激しく乱れているということを指摘されました。その力を正すために彼女は北に向かう必要性が出てきたため、それに同行しようと思ったのです」
デーリックは体を前に出した。
「レナリアさんは水環省の職員だろう? 彼女は省を長期に離れて大丈夫なのかい?」
「あいつも色々と理由があり、まだしばらく水環省に戻れず、休職扱いのままだそうです。だから時間には余裕があると言っていました」
「彼女は魔術の力よりも武術に定評があるんだろう? 同行する必要はあるのかい?」
「ふとした拍子で体調を崩します。一人にさせられません。それに向かう場所はだいぶ奥まった地にあるようです」
「……もしかして目的地は、ゴスラル村?」
アーシェルが鋭く言うと、テウスは体をこちらに向けて頷いた。
ゴスラル村は魔法使いの誕生地といわれる場所だ。あの地は魔法使いの血を濃く引いている、魔術師が多くいる。そこなら力を抑え込める人物がいるはずだ。
「アーシェル様は行ったことがあるのですか?」
「ええ。テウスと会う前だから四年くらい前ね。あそこは薄い結界が張ってある。普通に行ったら、辿り着かないわよ?」
「そうですね。ですが今のレナリアなら行けるらしいです」
なるほど、とアーシェルは内心思った。魔術の力が強くなっている彼女であれば可能かもしれない。そしてなおかつ相応の理由があり、強く望んでいれば、結界を抜けられる場所でもあった。
テウスを手放すのは心許ないが、レナリアの異常な体調の崩し方は気になった。彼が同行できれば安心できる。
「……わかった。長期休暇を認めます」
テウスの顔が明るくなった。
「ただし」
机の前に腕を乗せて、テウスに顔を近づけた。
「レナリアさんの身に起こっていることを、知っている範囲で教えなさい。話しぶりからすると、昨日レナリアさん以外にも誰かと会って、ゴスラル村に行けと言われたんでしょう」
テウスは少し間を置いた後に頷いた。そして言葉を選ぶかのようにゆっくり話していく。
「先ほども言ったように、レナリアの魔術の力は乱れています。あいつが言うにはロイスタンと接触した時からだと言っていました。今のところ日常生活では特に問題ないらしいですが、ある人のことを考えると……」
「私のことを考えると、力が乱れるのね」
「……はい。レナリアの力はまだ頂点を打っていません。今後も力が伸び続ければ、不意な拍子で周囲の人間を傷つけ、最後は自分の命に関わる事態になるらしいです」
「そう。それなら早くゴスラル村に行って、レナリアさんの力の循環を正してほしい。これは私からもお願いよ。テウスはレナリアさんが無事に事を為し遂げられるよう、援助してあげて」
「わかりました。寛大な休暇の受け入れ、感謝します」
そして再びテウスは頭を深々と下げた。
旅の支度をすると言って、テウスは買い出しに出かけていた。アーシェルは窓のそばで腕を組みながら、外を眺めていた。
「アーシェル様、どうかされましたか? もしかしてテウスを行かせることに抵抗があったのですか? テウスは手練れの護衛。私たちも頼っている部分はあります」
デーリックが声をかけてくる。アーシェルは軽く髪の毛の先をいじった。
「いいえ、抵抗はありません。彼の意志はなるべく尊重させてあげたいです。それよりも気になるのはレナリアさんの様子です。話を聞いていると、ついつい私の昔を思い出してしまうんですよね。……デーリックさんは青輪会に入ってから長いと聞いています。私が六年前に何をしたかも知っているんですか?」
「行方不明になっていた期間ですよね。当時処理してくれた人間が友人だったため、聞いています」
デーリックは隠しもせずに淀みなく応えてくれる。下手に気を使われるより遙かに楽だった。
アーシェルは右手をぎゅっと握りしめる。
「お恥ずかしながら、私自身よく覚えていないのですが、当時私の力が暴走したと聞きました。それによって一人の青年の命を奪ってしまったということも。もしレナリアさんが過去の私と似たような境遇になっているのなら、早急に対処してほしいと思っているのです」
「魔術師でも力が暴走することはあるのでしょうか? ここや地方の青輪会にも魔術師はいますが、そんな話は聞いたことがありません」
デーリックの言うとおり、今回の件はあまりに前例がなさすぎるのだ。
レナリアの体はアーシェルのことを拒絶している。そして彼女の飛躍的すぎる力の向上。
これらは水の循環が狂い始めたのと、何か関係があるのだろうか――?
視線を空に向ける。爽やかな青空が広がっていた。
「デーリックさん、私の今後の予定はどうなっていますか?」
「数週間はお休みです。二週間後には南にある町に約束を取り付けています。ここ数年思うように水が得られていない地域らしいです」
「つまり少しは猶予があるのですね。――一つだけ、わがままを言ってもいいですか?」
アーシェルはにこにこしながら、デーリックに近づく。男はその笑みに押されながら、半歩下がった。
「可能な範囲で考慮します」
「南に行くがてら、ある村に立ち寄らせてください」
「場所はどこですか?」
知らなければならない、彼女の過去を。
彼女の異変に対処するために。
「ソウルス村です。過去に魔法使いを輩出した村でもあります」
そして因果を繋げるために。