3‐4 動き出す運命の歩み(4)
注文した品を食し、食後に胃を落ち着かせるために、ゆっくり水を飲んでいると、急に席のすぐ傍に人が立ち止まったのに気づいた。レナリアとテウスは目を丸くしながら顔を横に向ける。
眼鏡をかけ、帽子を被った灰色のぼさぼさの髪の男性が立っていた。ほっそりとした体格で腕は簡単に折れるのではないかという細さだった。
「やあ、こんばんは」
歳にして四十過ぎの男性は、帽子を外して挨拶をする。レナリアたちはやや身構えながらも会釈をした。男性はレナリアに顔を向けて、にこりと微笑む。
「早々にあなたに会えてよかった」
「……恐れ入りますが以前会ったことがある方でしょうか」
「間接的に顔を拝見したことがある。ファーラデ・チャロフという名を挙げれば、警戒を解いてくれるかい?」
レナリアは目を大きく見開いた。男性はその反応を見てにこにこしている。警戒を解いてくれと言われたが、むしろ増してしまった。
テウスが眉をひそめてこちらの様子を伺っている。彼にはファーラデについては名を挙げて事情を話していないため、状況がわからないようだ。
彼の死の原因を知るために、レナリアは藁にもすがるようにして首都に来た。だがそのような情報をほとんど得ることなく、三年が過ぎた。ここでこの男と出会えたのは僥倖か、それとも不運か。
「……彼とはどのような関係ですか」
「彼と調べ物を一緒にしていた。――彼が村に戻る直前までね」
ごくりと唾を飲む。ファーラデは水環省の上司であるルベグランに隠れて、男と一緒に何かを調べていたのだろうか。
「よろしければ知っている範囲で話をさせて欲しい。ファーラデが大切にしていたお嬢さんの未来にも関係することだから。ただ、他の人には聞かれたくないので、私の部屋に来て頂きたいが……」
部屋と聞いて、レナリアの体が一瞬身構えた。
目の前にいる男性は人が良さそうで問題ないと思われる。だがロイスタンとの出来事が思い出されて、一瞬言葉に窮してしまった。女と男の力の差は歴然、しかもまだレナリアの動きは万全とは言えない。
「……おい、俺が聞いてもいい話なら、一緒に行くか?」
黙っていた青年が口を開く。思わぬ申し出を聞き、二度も見返してしまった。
「いいの? 遅くなるよ?」
「今日は非番だ。帰宅が遅くなったからって、咎められる要素はない」
端的に言う姿は心強くもあった。申し訳ないという思いも抱きながらも、この機会は逃したくなかった。
テウスに借りができてしまったと思いながら、男に対して頷き返した。
男はコルヴェルと名乗り、首都に籍を置いている学者だと自己紹介してくれた。ある研究施設に出入りしており、その施設の名を出されたレナリアは少し間をおいてから頷くことができた。研究所としては決して大きくはないが、ときおり耳にする場でもあった。信用に値できるかどうかの判断基準の一つにはなりそうだ。
コルヴェルの家は縦に長細い、二階建てだった。二階は自室の研究部屋として利用しているため、一階の居間で話を聞くことになった。
椅子に座るよう促されたレナリアたちは大人しくそれに従った。お茶を入れてもらっている間、部屋全体を軽く眺めた。本は無造作に置かれ、大量の書類が机や棚の上に積み重なっている。ちょっと揺れただけで簡単に紙は床に落ちていた。
「散らかっていて、すまない。大切な書類は二階にあるから、ここら辺にあるのはそんなに神経使わなくても大丈夫だよ。捨て忘れた書類も結構あるから。どうにも片づけるのが苦手でね……」
「本当に酷い人は足の踏み場すらなくなるそうですから、この程度ならまだいい方です」
レナリアがコルヴェルに視線を戻すと、机の上に紅茶を置こうとしたときだった。お盆からカップをどかし、机の上に置くのを手伝っていく。それを終えるとコルヴェルはレナリアたちと向かい合うようにして座った。
「さて、どこから話せばいいのか……」
「お話に入る前に一つだけいいですか」
レナリアは言葉を溜めてから言う。コルヴェルがどうぞと言うと、彼を見据えた。
「なぜ私がファーラデと関係があると知っているのですか。そしてなぜ私に話しかけてきたのですか。私とコルヴェルさんは面識がありませんよね?」
「……さっきも言ったが直接の面識はない。だが自分は彼の葬儀に顔を出した。そこで君を見かけたんだ。ファーラデから話は聞いていたから、すぐにわかった」
「そうでしたか。すみません、あの時のことはあまりよく覚えていなくて……」
「今みたく力が乱れている時だったから、周囲に目を向けられなくても仕方ないよ」
「力が乱れる……?」
聞き捨てならない言葉を聞き、思わず復唱した。
コルヴェルは左腕を机の上に出し、腕をまくって、左手首を見せてきた。小さな青い石がいくつも埋め込まれた腕輪がはまっている。それを見ると妙に胸騒ぎがした。
「初めに言わなくて、すまない。――私は魔術師の一人で魔術の力を視ることができる人間だ」
コルヴェルの告白を聞き、レナリアはゆっくり顔を上げて彼を見た。申し訳なさそうな顔をしている。
「もう少し詳しく言うと魔術師の力の流れを視ることができるということだ。今、魔術を扱えるレナリアさんの力が落ち着きがないことも、わかっている」
「その人物を視るだけで、魔術を扱える人間だとわかるのですか?」
しっかり首を縦に振られた。すべてを見透かされたような気分になり、前寄りだったレナリアは思わず姿勢を正した。妙な緊張感が走る。
「あ、でもそこまで警戒しないで。これを外せばわからないから」
コルヴェルは慌てて腕輪を外した。それをレナリアの前に出す。
「魔術を発動するには、何らかの媒体が必要となってくる。私にとってはこの腕輪だよ」
外された腕輪の青い石は、先ほどよりも青みが収まったように見えた。
「私の魔術は物を生み出すということではなく、視るだけだ。魔術師の血液の流れは特徴があってね、それから判別している。ただ、視えたからといって、何かができるわけではない。あの人は魔術師だと事前にわかるくらいだ。だから恐れないでほしい。むしろ私にとっては一般的な魔術師の方が脅威だよ」
「そうだったんですか。初めて会う種類の魔術師だったので、知りませんでした」
「そうだね。それにたいてい気味悪がられるから、気にしないで。――さて、レナリアさんに接触したのはファーラデのこともあるけど、君の魔術の力が乱れすぎていたからこそ、声をかけたんだ。今は比較的落ち着いているように見えるけど、決して普通とは言い切れない。そのまま放っておくと危険だ」
数瞬の間の後、レナリアはコルヴェルを真正面から見えた。
「危険というのは、どういう意味ですか? 魔術が暴走するとでも言うのですか?」
「そうだ。魔術の力を抑え切れていない。そもそも魔術とは魔法使いの血を引いている私たちなら誰でも扱うことができる。ただその血の濃さや、適正か適正でないかで、実際に使えるかどうかは変わってくる。さらに魔術を表に出すためには、腕輪など何か物を利用しなければならない」
レナリアで言えば銃だった。あれがなければ氷を生み出すことはできなかった。
「その物は力を引き出すこともできるし、日常生活に支障がないよう力を抑える能力もある。今のレナリアさんは魔術の力が大きすぎて、その物では抑えきれなくなっている。それで危険だと言っているんだ」
レナリアは椅子から下げている、ウェストポーチをちらりと見た。余程の理由がなければ銃は傍に置いておくように、とルベグランから言われていた。その言葉の意味がようやくわかった。銃を持っていると若干だが心が落ち着くのも、そういう理由があるようだ。
「コルヴェルさん、今のままだと私はどうなるのですか?」
男は机の上で両手を握りなおす。
「魔術を使用した際、思うように操れなくなる。自分だけでなく他人にも迷惑をかけるだろう。建物を壊し、人々を傷つけるかもしれない。そして果ては――魔術に飲み込まれて死ぬ」
レナリアだけでなくテウスまでもが息を呑んだ。手がかすかに震えてくる。
「それを防ぐためにはどうすればいいんですか?」
「手っ取り早いのは、魔術を使用する際の物自体の能力をあげること。かなりの熟練の技術者であり、魔術にも精通している人間ならできるだろう。ただ……今回のレナリアさんの状態は、おそらくそれをしても無理だ」
コルヴェルはその場で屈み、机の脇にある積み重なった本から一冊取り出した。『魔の扱い方』という名の日に焼けた本だった。
「レナリアさんは魔の力について抑え込むやり方を学んだ方が早い。どこまで力が伸びるかわからないから」
「まだ私の力は伸びる要素があるのですか? 感覚的にはもう以前の力の倍は達していると思いますよ?」
「もっともっと伸びる。循環が乱れていなければ、レナリアさんは――」
コルヴェルが血相を変えて途中で言葉を切り、手を机から離して、腕輪をとった。木の机の上はうっすらと霜が現れている。レナリアは震えている自分の手をあげ、それを両手で握りしめた。
「勝手に力が……!」
腕輪をはめたコルヴェルはレナリアのことをじっと見た。
「やはりファーラデの予感は的中していたのか……」
「どんな予感ですか?」
「こういう事態になることだよ。今、レナリアさんの周りは内に収まっていた力が外に出た状態になっている。耐性がない人間が触れたら、凍傷や火傷を負う。隣にいる彼が大丈夫なのは、今まで魔法使いの傍にいたからだろう」
黙っていたテウスは鋭い目を向けた。今まで話題に出なかった魔法使いを出されて、すぐさま反応したのだろう。
コルヴェルは険しい表情のまま、彼の無言の圧力に対して返した。
「魔術も魔法も力の動きは同じだ。傍にいればその力が微かに移る。昔の人の言い方をすれば、いわゆる加護を受けた状態になる」
「……俺もあんたにはバレバレだってことか」
「視えるだけだから、君に剣を向けられたら何もできないよ」
コルヴェルは立ち上がり、レナリアのすぐ横に立った。レナリアは顔をひきつらせて、彼を見上げる。するとコルヴェルは両肩を握ってきた。
「すまない。言葉を選んで話すべきだった。今は事を納めるために少し手荒なことをさせてもらう。また後で改めて会おう」
「え、どういうことですか?」
「詳しいことは彼に伝えておく。……ここまで話しを聞いたら、もう他人事でもないだろう。さて、失礼するよ」
コルヴェルが目を見開いて、レナリアの目を見つめてきた。彼の灰色の瞳は青みを帯びていく。それをじっと見つめていると、頭の中が見透かされているような気分になってきた。必死に手を離そうともがくが、コルヴェルは決して離さなかった。
頭を荒らされている感じで気持ち悪い。吐き気がし、頭痛がしてきた。歯を噛みしめて耐えようとするが、頭はぼうっとしてくるばかりだ。
そしてコルヴェルの右手の指が額に触れられた。
「今は安らかに眠りなさい、レナリア・ヴァッサー」
その言葉を聞いた途端、レナリアの意識はぷっつりと切れた。