3‐1 動き出す運命の歩み(1)
雨が降ると胸が苦しくなる日が多くなった。
大切な人が消えた過去の出来事を思い出してしまうからか、それともこの体に受けた傷がうずくからか――。
どちらの理由であったとしても、その日も体調が優れなかった。
昨日に引き続いて、今日も雨が降っている。雨期に入っているため降るのは当然だが、それでも少しくらい晴れ間が見たかった。
アーシェルは今日も来るのだろうか。
会って話を聞きたい。彼の最期を聞きたい。だが今の状態で聞いたら、さらに体調を崩してしまうかもしれなかった。
つまり心身ともに受け入れられる状態では――ない。
* * *
「レナリアさん、まだ体調がよくならないの……?」
隣にあるベッドの近くで、少女が心細そうな声を漏らしていた。彼女と話をしていた青年は少し間をあけた後に口を開いた。
「タイミングに寄るそうです。ご飯はとって寝ていますから、安心してください。……以前も言いましたが、大丈夫な日にでもこちらから連絡を寄越しますので、それを受けたら来てください。アーシェル様、まだあのカンパニーの残党がいるかもしれません。もう少し落ち着かれるまでは、お部屋で待機していてください」
「……わかった。もう少し待つ。ちなみにテウスはいつ退院するの?」
「俺ですか? 傷は塞がりましたので、次の診察で異常がなければ退院します」
「ちゃんと塞がったのよね?」
「はい。ご心配かけて申し訳ありません」
「次からは……他のことに気を取られて、剣を交じり合わせている相手に意識を逸らさないでね」
アーシェルはぽつりと言うと、テウスに挨拶をしてから病室を出ていった。扉が音をたててしまる。廊下をぱたぱたと歩いていく音が遠ざかっていった。
それを聞いたレナリアはうっすらと目を開けた。ベッドの上で横になった体は窓の方に向けている。外は雨が降っていた。
アーシェルをピュアフリーカンパニーより奪還してから、十日がたっていた。レナリアとテウスはその時などに負った傷を理由に、しばらく入院を余儀なくされていた。腕を切られたり、銃弾を受けたレナリアは、完治まではいっていないが、軽く歩く程度はできるようになっていた。
テウスは一度開いた脇腹の傷が塞がるのを待っている状態。彼もまた激しい動きをしなければ、動ける程度までは回復していた。
先にテウスが、そしてレナリアも体調さえよくなれば、退院できる見込みである。
布団を少し動かすと、隣のベッドで寝ていた青年があからさまにため息を吐いた。
「……おい、そろそろいい加減にしろ。お前の過去に関わる話までしなくてもいいから、挨拶ぐらいしねぇのか」
「体調が悪いのは本当よ。悪い顔色を見せて、余計に心配させたくない」
窓から廊下側に寝返りを打つと、長い黒髪をおろした青年が眉をひそめて見下ろしていた。
「そうは見えねぇけどな。さっきも昼飯、完食だったな?」
二人部屋の個室だったため、テウスとレナリア以外入院している患者はいなかった。レナリアは口を閉じて、布団で少し顔を隠す。言っていることと、していることが矛盾しているのは自覚していた。
テウスは頭をかきはじめる。
「なあ、教えてくれないか。どうしてアーシェル様に会ってはいけないんだ。あんなに会いたがっていたのに?」
レナリアは無言のまま枕に顔を伏せた。
「もう少しわかりやすく教えてくれ。そうしたら俺だってこんなに苛立たずに済むんだ」
「……わからないって言っているじゃない。私だって会いたいけど、そう思っただけで頭や胸が痛くなるのよ!」
枕をベッドの上に叩きつけながら起きあがる。テウスは目を丸くして見ていた。
その時、扉を叩く軽やかな音がした。レナリアは慌てて目を拭う。何度か叩くと、病室のドアがゆっくり開けられた。
二人分の足音が聞こえる。顔が見える範囲まで彼らが来ると、レナリアは目を大きく見開いた。
「ウィリー部長!?」
突然の上司の来訪に、レナリアは慌てて手で髪を整えた。真っ黒な髪の中に白髪が見え始めた男性は手を軽く前に出して、レナリアの行為を止めるような仕草をした。彼の後ろには眼鏡をかけたミレンガが、背筋を伸ばして立っている。
「突然すまないね。外に出た帰りで、ちょうど病院の脇を通ったから寄ってみた。ゼリーを買ってきたがいるかい?」
見せつけられたのは、レナリアが大好きなお菓子屋の袋だった。それに目を当てられて、渋々ながらも頷く。
「ありがとうございます。いただきます」
「素直でよろしい。二つ買ったから、彼とあとで食べるといいよ」
ウィリーがテウスに向けて微笑むと、彼は戸惑いながらも会釈をした。
「見舞いが遅くなって、すまなかった。例の事業所を今後どうするかで会議がだいぶ長引いてしまってね。ほとんど水環省に籠もりっきりだった」
「お疲れさまです。あの……例の事業所はどうなるのですか?」
ウィリーの視線が軽くテウスの方に向かれた。察した彼はベッドから足を出して、サンダルに足をひっかけた。
「悪いね。ええっと、ザクセン君だっけ?」
テウスは隠しもせず、ウィリーを横から睨んだ。彼の名前は水環省の人間は知られていないはずだ。
ウィリーは嫌な表情をせずに、言葉を続ける。
「デーリックさんから少しだけお話は聞いているよ。剣の腕がたつと聞いた」
「ああ、あの人ですか」
知り合いの名前が出るなり、彼は顔を緩めた。
「事件の後、情報提供をしたいってことで、デーリックさんがいろいろと話をしに来てくれたんだ。彼らにとっても有益なことはこちらからも話したから、どちらかといえば情報交換になったかな」
「そうですか。偉い人同士で話を進めてもらえると助かります。俺は剣を振るくらいしか芸がない人間なんで。ちょっと近くにある休憩室にいます。終わったら声でもかけてください」
「ありがとう」
そう言って、テウスはゆっくりとした足取りで、部屋から出ていった。扉が閉まると、ウィリーたちは神妙な面持ちでレナリアに近づいた。
「体調はどうだ?」
「傷はだいぶ塞がりました。ただ、まだ包帯をとれない場所はありますね……」
右手を軽くさする。貫通されかかった右手は、空気に触れる面積が少ないため、もう少し時間がかかるようだ。
「……すまなかった。怖い思いをさせて」
「今回は私が単独で行ったことです。部長が気にすることではありません。それに結果として省の皆に助けられました。こちらは部長たちには感謝の念しか抱いていないのに、どうして謝るのですか?」
表情を緩めると、ウィリーもつられて緩ました。
「出会った頃よりも明らかに肝が据わったな。あいつの影響……か」
「それは否定しませんね」
ルベグランから影響を受けたことはたくさんある。相手を心配させないように言葉を転がすこともそうだった。
「部長、話を戻しましょう。先日強制査察に入った事業所はどうなるのですか?」
意識が目覚めた後、見舞いに来たミレンガから直後の概略は聞いている。
ピュアフリーカンパニーには、ミレンガを筆頭とする水環省が強制査察に入った。理由は川の水を不正に多く取水していたこと、浄水処理機に関する他社への不当売買、そして婦女暴行容疑だった。
結構な容疑がかけられており、レナリアたちが侵入などしなくても堂々と査察に入れるのではないかと思われた。たしかに査察はできたらしいが、ミレンガたちはさらに警察まで動かしたかったようだ。だが机上の空論だけでは警察を動かせないため、確固たる証拠が欲しかったらしい。
結果として、今回警察を動かす決め手となったのが、レナリアが受けた傷だった。不当売買などに関する資料などの奪取でも動かすことは可能だったが、当時のレナリアにはそこまで気が回らなかった。
水環省の査察後、警察の捜査も入って上層部を拘束したため、ピュアフリーカンパニーは実質機能停止となった。それが一週間前に聞いた事実である。
「レナリアの問いに対して結論から言えば、あの事業所は国有化する」
「国の持ち物にするってことですか?」
たしかめながら言うと、ウィリーは首を縦に振った。
「もともと水道関係を民間に任せるのはよくないという話があった。水とは人間にとってなくてはならないもの。それを一個人の都合だけで量を上下されたら困る。それに万が一毒でも入れられたら、首都が崩壊する」
その話を聞いて、レナリアはどきりとした。未遂に終わったがロイスタンたちはアーシェルに毒を入れさせる――つまり人殺しをさせようとしていた。自由にあまたのものを供給し続けられる立場だったら、そういう考えに至る人が他に出てきてもおかしくない。
「国有化しても同じ人間同士が動かすことになるから、誰かが毒を入れかねない状況は依然として続くという意見もある。それは働いている人間たちがいかに公正にできるかにかかっている。だが、現場で働いている連中はただひたすらに安全に水を作り続けたい人間ばかりだった。水が送れなくなれば、給料は入らないからな」
「一方で……」
ミレンガが指で眼鏡をなおしてから、口を開く。
「ロイスタンにはあまりいい噂がなく、彼を失脚させることができれば何でもいいという人間は多かったわ。事業所の上層部は辞職、もしくは逮捕されたけれど、ただの使いっぱしりの人間たちはそのまま雇う予定よ。彼らには何も非がないし、機械の使い方は熟知しているから、手放す理由はない」
「そういう経緯を事業者側全体に話して、現在は残るものと出るもので分けている最中だ。二日後に結論を出してもらい次第、国の浄水場として稼働を再開する」
レナリアははっとして、息を呑んだ。
「今は浄水場からの水が流れていないんですか? 混乱とかはないんですか?」
ウィリーは軽く首を横に振った。
「混乱がないとは言えない。だが水道ができてから十年しか経過していないのが功を奏して、事情を話したら必要な水は川で汲み上げるようにしてくれたよ。不便なのには変わりないから、一日でも早く再開する」
「そんな状況になっていたなんて、全然知りませんでした」
「この病院は井戸水が主だから、そこまで影響がなかったんだ。他の地区でも井戸水があって、何とかやりくりしている。……水は人間たちが生まれたときから一緒にいる存在だ。得たいと思えば、いくらでも得られるものだよ」
この地のように、潤いで溢れている地域であればの話だが。
ピュアフリーカンパニーの現状はわかった。侵入したことで水環省が不利な立場になってしまったのではないかと危惧していたが、そのことをかき消すくらい、大きな転換点に入っているようだ。
「……部長、もう少し質問してもいいですか」
「ああ、もちろん。そのために私は来たんだ。いくらでも聞いてくれ」
「……ロイスタン副社長はどうなりましたか?」
手を軽く握りしめる。ウィリーは表情を変えずに淡々と言った。
「三日前に目覚めた」
「え、目覚めた?」
思わず聞き返すと、ウィリーは再度頷いた。
「一週間くらい目覚めなかったが、ようやく意識を取り戻したらしい。頭を強く打ちすぎたのが原因だったよな。たしかレナリアが危ないところに仲間たちが助けに来て、そこで誤ってひっくり返ってしまったんだろう?」
「あ、はい、そうです。魔術で床に氷を張っていて、そこに副社長が滑ってしまったんです」
副社長が氷漬けではないという情報を得た後に、勝手に作り上げた内容だった。
レナリアは銃を使って凍らすことはできる。だがそこまで強い威力ではないため、全身を覆うという芸当は、持っていた銃弾をすべて使い込まなければ無理だった。しかし実際にはそこまで使わないまま、不可思議なことが起きた。これを知られては後々面倒なことになるのではないかと思い、誤魔化したのである。テウスたちにもそういう風に口裏を合わせてもらっていた。
「副社長の聴取は行ったのですか?」
「ああ。レナリアを捕まえて、ベッドの上で襲ったというのは吐かせたが、その後の記憶がどうにも曖昧だった。頭を打った影響だろう。部屋の様子から見ても襲ったのは事実だから、すぐに送検はできた」
「そうです……か。わかりました」
レナリアにとっては都合よく、不可思議な現象を目の当たりにした男の記憶が飛んでいた。有り難いことだが、どこか不気味でもあった。
「すみません、二つ目の質問です。ベルーンという魔術師の女とカーンという剣士の男が敷地内にいたはずです。二人は捕まりましたか?」
ウィリーはミレンガと目を合わせた。彼女は軽く首をひねり、カバンから手帳を取り出した。
「そういう名前の人は見ていないわ。社員名簿にも載っていなかった」
「副社長が直接雇っていた二人です。おそらく名簿には載っていないでしょう。アーシェル……いえ、魔法使いを捕まえた人間たちです」
「残念だけれども、いなかった。おそらく逃げたわね。雇われ屋はそういうのに鼻がいいから、寸前で逃げるものよ」
「そうですか……。このことについては、デーリックさん側には言ったのですか?」
話をウィリーに振ると、彼は首を横に振っていた。単独で実力がある二人とはいえ、今回の大きな出来事には直接関わっていない。水環省側としては騒ぐ対象ではなく、気に留めることでもなかったのだろう。
だが、アーシェル側から見れば話は別である。レナリアは逡巡した後に尋ねた。
「……おそらく二人は命令されなければ魔法使いのことを捕まえようとはしないでしょうが、念のために伝えておいてもいいですか?」
「ああ、構わないよ。なるべく早く教えてあげなさい」
「ありがとうございます。最後に三つ目の質問です。今後、私は――」