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水環の査察官  作者: 桐谷瑞香
幕間二 若き魔法使いの記憶
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幕間2‐2 若き魔法使いの記憶(2)

 あの男と会った後の記憶はあまりはっきりしていない。

 意図的に記憶をうやむやにしているのかもしれない。

 だが自分が取り返しのつかないことをしたのは、わかっていた。

 目の前に広がる、誰かが横たわっている光景。


 恐れに耐えきれなくなり、雨が降り続ける中――逃げた。



 * * *



「お疲れですか?」

 隣に座っていたテウスに肩を叩かれる。びくっと反応して目を開けると、眉をひそめた青年がいた。

「うなされていました。汽車の揺れに酔いましたか?」

「昔のことを少し思い出していただけ。心配しないで」

「わかりました。時間に余裕はありますので、ご気分が優れないようなら途中下車しましょう」

「そうならないように、気をつけるわ」

 黒髪の青年に笑みを浮かべると、彼はわかったと言わんばかりに、視線を通路の方に向けた。アーシェルはそれとは逆に窓に目を向け、外の光景を眺めた。

 テウスと出会ってから、三年がたつ。まだ(よわい)十三歳の少女に対して彼は忠誠を誓った。それが愚かかもしれない誓いだったと、当時の彼は思わなかったのだろうか――。



 * * *



 十三歳になった頃、アーシェルは青輪会の人たちと共に国中を旅することに決めた。まだ世情もわからなかったため、当初は青輪会の人に連れて行ってもらって、まずは話を聞くという状態だった。

 青輪会の人の中には魔術師も数名おり、彼女、彼らと共に力を合わせることもあった。だが魔力の桁が違いすぎたため、実際に作業するのはアーシェル単独がほとんどだった。

 水の循環が少しずつ狂い始めていると言ったのは、先代からだ。彼が魔法を使う際により意識しなければならなかったのが、きっかけだった。初めは微弱だったため気付かなかったらしいが、明らかに威力が落ちていると気付いてからは、多様な魔法の使い方は控えて、必要な時にだけ使うようにしたという。

 つまり、アーシェルが魔法使いの役目を引き継いだときには、既に狂いだしている最中だった。

 狂い出した影響は、人々の目に見える範囲でも出始めていた。大雨が降って川が氾濫する地帯、雨がほとんど降らなかったため砂漠化が進む地域、大雪が降ったため雪に覆われて孤立してしまう村など、従来のように適切な場所で適当な雨量が得られなくなったのである。

 アーシェルが手を出して雨を降らせたりするのは、所詮付け焼き刃だとはわかっていた。根本が解決しなければ何も変わらない。それでも十代の少女には目の前のことをこなすしかできなかった。



 * * *



 ある日、東の国境沿いにある村に行った時、宿に向かう者と情報収集で動く者で分かれて行動していた。早朝から移動していたため、動く必要がない者はなるべく休もうという話になったのである。アーシェルも含めて六人が宿に向かっていると、突然人通りが少ない道で一人の男に襲われた。

 共に行動していた者たちは武術に心得のない人間ばかりだったため、あっという間に戦闘不能にさせられてしまった。強く体を打ち付けられたのか、地面の上でぐったりと横たわっている。

 彼らに護られたアーシェルは、目の前から歩いてくるナイフを握った十代後半の少年を見据えた。

 黒髪の少年の左腕には、大きな切り傷が残っている。古びれた服を着た、髪もぼさぼさの少年だ。彼の身なりなどから判断して、この村で必死に生きている人間と思われた。

 物盗りか。それとも誘拐か。

 どちらにしても何もせずに、彼に従う理由はなかった。

「……おい女、大人しくついてくれば、痛い思いはしない。俺と一緒に来い」

 ナイフをちらつかせながら迫ってくる。どうやら誘拐のようだ。おおかたアーシェルの服装を見て、金があるように見えたのだろう。しかも相手は小娘。失敗しないと思ったのかもしれない。

 アーシェルは軽く肩をすくめた。

「……相手が悪かったようですね」

「なんだと!?」

 少年が眉をひそめるなり、彼の両足が床に触れていた部分から凍り始める。さらにナイフを握っていた手も凍り出した。

「な、なんだ、これは!?」

 四肢を凍らされた少年は必死に動かすことが可能な肩や膝、腰などをばたつかせた。しかし動く度に凍り付く範囲は広がっていく。そしてほとんど抵抗できずに、少年の下半身と腕は凍り付いてしまった。

 少年は動かすのをやめ、歯を噛みしめて、アーシェルを睨みつける。

「何をしたんだ。お前は何者だ」

「自己防衛をしただけです。突然襲ってくるなんて、穏やかではありませんね」

「この村で穏やかな時間を求めているなら、とっとと失せた方がいい。俺みたいな荒くれ者がたくさんいる」

「そうですか。ご忠告ありがとうございます。……満足に水を得られないために、貴方はこうなったのですね」

「はあ……?」

 同情を込めて言ったが、少年は意味が分からないといった表情をしていた。

 アーシェルは彼の言葉に受け答えすることなく、近くで意識を失っていた青輪会の男性を起こしていく。少年が後ろで何かを言っているが、すべて黙殺した。

 やがて全員を起こし、どうにか立ち上がらせて、アーシェルはその場から去ろうとした。すると少年が今までで一番大きい声を張り上げた。

「おい、待てよ!」

 呼ばれたアーシェルはくるりと体を彼に向けた。

「何でしょうか」

「……俺は今動けない状態だ。そこら辺にある刃物で突けば簡単に殺せるぞ」

「そうかもしれませんね」

「ここまで言って、どうして殺さない! 生きていたらまた襲うかもしれないぞ!?」

 アーシェルは軽く口元に手を当てた。そして小さく笑みを浮かべる。

「襲えるものなら襲ってくださって構いません。すべて返り討ちにします」

「なっ……」

「ですが私は貴方のことを殺したくはありません。水が枯れ果てても、生への執着が衰えない、強い意志を持っているすごい人だと思っていますので」

 少年はアーシェルの言葉を聞き、呆然と立ち尽くした。そして彼の視線を背中で受けながら、青輪会の人間たちとともにその場から立ち去った。



 それから時間をおいて、アーシェルは宿に戻ってから少年にかけた魔法を解いた。

 解いてからしばらくは泊まっている宿の外を気にかけたりもしたが、彼は追ってくるようなことはなかった。

 だがそれ以上に気にしていたのは、あの状態の彼が他の人に見られたときのことだった。裏通りだったため他人の目に触れる機会はほぼないと思うが、もしその間に悪意のある人間に見られたら、彼はどんな仕打ちを受けるだろうか。

 そして不可思議な光景を目にして、何を思うだろうか。魔法使い、いや魔女による制裁とでも思われてしまうのではないだろうか――。

 アーシェルは胸の当たりで手をぎゅっと握った。

 ときどき怖くなるときがある。自分の大きすぎる力に。

 先代からどうにか抑制する方法を学びきることができた。それでも十代の自分にはまだ抑えきれない部分がある。癇癪玉のように破裂し、周囲の人に迷惑をかけてしまう時もあった。大人になれば落ち着いてくると言われたが、それまでの間に多くの人を傷つけてしまうのではないだろうか。

 怖い顔をしていたのか、隣にいた青輪会の女性が心配そうな顔つきでアーシェルのことを見ていた。視線に気づき、何でもないと言った風に表情を和らげた。



 長年水不足に悩んでいたが、ここ数年では拍車がかかるようにして降らなかった村の現状は、酷いものだった。

 少しでも金がある人間たちはとっくの昔に他の村に行っている。残っているものは金もツテも何もない人間たち。生きるためには犯罪すら辞さなかった。

 にもかかわらず村長がいて辛うじて自治らしきものが残っていたのは、傍にあった湖の存在が大きかったようだ。かつて村では湖が潤うほど、雨が定期的に降っていたという。ぽっかりと空いた大きな穴に水があったなど、今では想像できなかった。

 ここに水を入れて欲しいというのが村長からの要望だった。広さや深さから考えて、相当な力を使うだろうとは察していた。だがアーシェルにとっては不可能ではない。

「湖に水さえ入れば、村人たちの飲み水にも困らなくなる。荒れた地も少しは落ち着くだろう……」

 村長は一人掛けのソファーにもたれ掛かり、ひじ掛けの部分に腕を乗せている。先日出会った少年のようにみすぼらしい服は着ておらず、栄えている町で地位の高い人が着ていそうな、しっかりとした生地の服を着ていた。

 アーシェルは彼の言葉に対し、首をふるふると横に振った。

「村長さん、残念ながら今回私が何かしたとしても、あくまでも一過性のものです。今の気温や湿度、そして循環などが変わらない限り、常に湖の中に水が入っているような状態を維持し続けるのは無理です」

 村長の屋敷にてアーシェルは背筋を伸ばして壮年の男性に向かって言い放った。村長は目を軽く見開いた後、足を組んだ。

「そんなこと、わかっている。魔法使いをずっと置いておくわけにもいかないからな。得た水をきっかけとして、この村を立て直したい。水によって争いが起きている中、水さえあれば少しは人々の心も収まる。その間に村民たちに少しでも説き伏せて、自治を整えたいんだ」

「それは、ど――」

 聞こうとしたが、隣にいた壮年の相談役に軽く叩かれた。視線を向けると、彼は小さく首を横に振り、口元だけを動かした。

『それ以上聞いてはならない』

 アーシェルは口を閉じて、渋々うなずいた。向こう側からの事情はあまり深く聞かないようにしている。感情を入れすぎたがために、平等に対処できなくなってしまう場合があるからだ。

 他の人以上に好奇心が働いてしまうのは、子供であるがゆえだけでなく、大きすぎる力を使った後の結果を少しでも予測したかったためだった。

 正直言って、この村長はあまり好きになれない。自分の利益しか考えていないような雰囲気が漂っている。だがあの少年たちを助けるためなら、何かしてやりたかった。



 暑さも収まった夜、アーシェルたちは村の傍にある湖に向かっていた。腕に自身のある護衛や相談役と一緒に宿から村の外に出ようとすると、突如男たちが十人ほど立ちふさがった。男たちは鎌や鉈などの農耕道具、刃こぼれしているが先端ははっきりしているナイフなどを持っていた。アーシェル側の一団の方が若干人数は少ない。

 護衛たちはすぐにアーシェルを護るかのようにして前に立った。筆頭護衛が長剣の柄に手を添えて、口を開く。

「そこを退いてくれないか」

「断ると言ったら? 村長の犬が」

「自分たちは村長に頼まれて来ただけだ。事を終えたら速やかに立ち去る。別にお前たちに害を為しにきたわけではない」

「本当か? あの村長が俺たちのことを考えていた時なんて、今までなかったぜ? 嘘くせぇ話をするな。――おい、金ものはすべて置いていけ。そうすりゃ見逃してやる」

 護衛の男性がアーシェルに向けて軽く振り返ってくる。アーシェルはペンダントを握りしめて、息を吐いた。本当はやりたくないが、事を穏便に素早く終わらすためだ。目を細め、そして口を開こうとすると、二つの団体の間に人影が横切った。

 鎌を持っていた男性がうろんげな目でその人物を見下ろす。

「何やっているんだ、テウス。子供がきが起きている時間じゃねぇぞ」

「俺は十七歳だ。子供がきっていう歳でもねぇ。そっちこそこんな時間に物騒なもん持ってんじゃねぇか。何するつもりだ。いい歳をして余所者を追い剥ぎするなんて、感心しねぇな」

 男の眉間にしわが寄った。鎌を握る手が強くなる。

「テウスよぉ、喧嘩を売っているのか?」

「ああ、売っているぜ」

 黒髪の少年があっさり言うと、鎌を持った男は鎌を左手に持ち替えて、右手で拳を作る。そして彼に近寄り、思いっきり拳を振り上げた。少年は澄ました顔で、少し体を仰け反らして回避する。

「なっ……!」

「喧嘩するなら本気でこいよ。殺さない程度に返してやる」

「生意気な口をしやがって……!」

 男が右手で鎌を振り下ろすと、テウスは腰にあった長剣を引き抜いた。鎌と長剣が交じり合う。受け止められると思っていなかったのか、男は目を丸くしていた。

「軽いな」

 テウスはそう言葉を吐き、長剣を鎌の上ですべらせて男の手元まで下ろしてきた。その隙に鎌の先端を避けながら、テウスは男の懐に入り込む。

 長剣が男の手に当たろうとする直前、テウスは剣を奥に押して、男を足払いした。男は頭の後ろから倒れ込む。長剣が体にかすって血を流すが、彼は大きな傷を追うことなく、大人を沈み込ませた。

「この子供がき……!」

 鎌を持っていた男が頭を撫でながら起きあがろうとする。他の男たちの視線もテウスだけに向かれていた。

 テウスがわずかに顔を動かし、アーシェルを垣間見た。彼は小さく頷いて見せる。俺に任せろと言っているようだった。

 一度しか言葉をかわしていない、しかもアーシェルを襲おうとしていた人間からの無言の視線。それをあっさり受け入れる方がどうにかしている。だが彼の確固たる意志を尊重したかった。

 それに村人たちとできるだけ良くない接点を作りたくなかったアーシェル側としては、今晩のことは村人たち同士のいざこざとして処理したい。あとで金を要求されるかもしれないが、この機会を逃すわけにはいかなかった。

 テウスが軽く手のひらを上にして、男たちに向けて軽くこまねく。すると顔をひきつらせた村人たちが彼に向かって襲っていった。彼はそれらを流れるようにしてかわしていく。そして男たちの武器を次々と跳ね上げていった。

「アーシェル様、どうしましょう」

 テウスの登場に驚きを隠せない筆頭護衛。アーシェルはペンダントから手を離した。

「放っておきましょう。村人同士の争いです。村から出る場所を変えて、向かいましょう」

「わかりました」

 そしてテウスを横目で見ながら、アーシェルたちはその場から足早に立ち去っていった。



 森を抜け、湖に着くと、アーシェルは早速天に向かって祈る。そして目に見えない水をかき集めて、雨雲を作り出していった。体に負荷がかかろうとも、必死に踏ん張って立ち続けた。

 雨雲は湖だけでなく、村全体に広がっていく。そして夜空が真っ黒になったところで、雨がしとしとと、やがて激しく降り始めた。相談役に避難するよう促されるが、アーシェルはしばらくその場で顔を上げて、突っ立っていた。

 叩きつけてくる水が気持ちよい。暑かった地が一瞬で冷えていくような感じがした。

 ふと雨が降り続ける中、ぬかるみの中を歩く音がした。振り返るとあの少年が右手で左腕を軽く支えながら近づいてきていた。左手の指先からは血が滴っている。

「……お前、すごい人間なんだな。何もなかったところに雨を降らすなんてよ」

「だって私は――魔法使いですから」

 アーシェルが不敵な笑みを浮かべると、少年は目を丸くしていた。そして肩を震わせながら笑い出した。

「ははは、魔法使いか! そんなのが本当にいるのか! まったく驚いたぜ。――他の村にはお前みたいな奴がいるのか?」

「魔術師と呼ばれる、多少不可思議なことを起こせる人はいるけど、魔法使いは私だけよ」

「つまり一番すごいのか。……なあ」

「なに?」

 少年は躊躇いながらも一歩踏み出した。

「俺をお前の護衛としてくれないか?」

 彼が真剣な目で見据えてくる。笑い飛ばすことはできず、ただ見つめ返していた。

「本気?」

 実力はさっき見た。おそらく今一緒に行動している護衛たちよりも彼は強い。

「ああ。こんな村、とっとと出ようと思っていた。でも今まできっかけがなかっただけだ。お前みたいな圧倒的な力を持った奴なら、逆らう気にもならないからな。俺自身、そこそこ腕のたつ人間だとは思っている。……どうだ、お嬢さん。雇ってくれねぇか。考えが変わったとしても、お前ほどの実力があれば、俺をすぐに殺せるんだろう?」

「ええ。生物の大半が水でできている限り、殺そうと思えばいつでも殺せる」

 感情をこめずに淡々と言い放つ。

 その台詞は先代からも伝えられたことだった。他の人ができない超人的なことを起こせる魔法使いは、神に近しい存在にもなれるし、死神にも容易になれる。

 この少年テウスの素性はまだまだわからない。しかし彼も循環が狂っているせいの犠牲者だというのは事実だった。そんな人間を救うことも、アーシェルなりの役目ではないかと思った。

「……私なんかの護衛になっても、何も面白くないわよ。もっと大変な思いをするかもしれない。もしかしたら死ぬかもしれない」

 それを聞いた少年は、鼻で軽く笑った。

「いつかは死ぬんだ。引き合いに出す条件じゃねぇよ」

 雨が降り注いでいく。恵みと思われる雨が。

 アーシェルは一歩少年に近づき、手を差し伸ばした。少年もそれに倣って歩み寄り、がさつな手を握りかえした。

「初めまして、テウス。私の名前はアーシェル・タレス」

「お嬢さん、いやアーシェル……様、初めまして。俺はテウス・ザクセンだ。よろしくな」

「ええ、よろしくね」

 そして雨が降りゆく中、堅く握りあった。

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