幕間2‐1 若き魔法使いの記憶(1)
「恵みの雨……か。そんなのただの思いこみよね。少しでも扱い方を間違えれば、洪水すら発生させることも不可能ではないのに」
銀髪の少女は自嘲気味に言葉を漏らしながら、しとしとと降る雨を見上げていた。フードを脱いで雨を浴びる。顔にも雨がぽつりぽつりと降り注いでいた。
「アーシェル様、そんなことをしては風邪をひきます」
駆け寄ってきたフードを被った黒髪の青年が、アーシェルの頭の上から布をかぶせてくる。布の端を受け取り、顔だけを布から出した。
「ちょっと雨に当たっていただけよ。過保護ね、テウスは」
「これから首都行きの列車がくるというのに、その前に体調を崩されて乗れなかったでは困ります。ご自身の立場も多少なりとも考えてください」
「……わかったわよ」
大人しく返事をし、彼が案内する方へ歩いていった。
明日、首都に向かう列車に乗る。何事もなく列車を乗り続けることができれば、首都に到着するはずだ。
そう、その時はまだ、列車内で思いもよらぬことが起きるとは想像にもしなかった。
* * *
アーシェルが魔法使いではないかと思われるようになったのは、本当に些細なことだった。
山が見える小さな町で生まれたアーシェルは、穏やかな環境下で優しい両親たちと共に楽しく過ごしていた。ある記念日には両親から可愛らしい靴が贈られ、たいそう喜んだほどだ。
初めての異変は雨が降った翌日、三歳だったアーシェルがその靴をはいて外に出たときだった。家の目の前に水溜まりがあるのに知らず、靴をそこに突っ込んでしまったのだ。
真新しい靴は水に濡れて、びちょびちょになる。泥も弾いてしまったようで、見るも無惨な靴になってしまった。
それを見たアーシェルは目を潤ませ、途端に泣き出してしまった。「こんなところにある水溜まりなんか、なくなればいいのに!」と強く思うなり、アーシェルの靴を濡らした水溜まりが、一瞬にして凍り付いてしまったのだ。
初めに異変に気づいたのは、アーシェルを宥めていた母だった。さっきまで水が溜まっていた場所が凍っている。気温からして、その時期に氷が張るのはあり得ない。そして今でも娘は泣き続けている――。
母の遠い親戚に魔術師がいたため、癇癪を起こして魔術が誤って発動してしまうことがあると知っていた。それから推測し、もしかしたらアーシェルの身にも何かが起きたのかもしれないと、薄々感じ取ったのだ。
その日はそれ以降、何も起こらなかった。母はその晩のうちにアーシェルが寝静まった後、父に少しだけ事情を話した。
それから雨が降った翌日は、アーシェルが進む先々で水溜まりが凍るか、蒸発して消えるかのどちらかの現象が起き始めた。凍ったとしてもアーシェルが通り過ぎれば元通りになってしまうので、その現象に気づくのは一緒にいた両親くらいだった。
雨が多い季節を通り越し、陽の光が燦々と輝く季節となったとき、父はアーシェルに自身の実家に連れて行くと言った。表向きでは祖父母の家に連れて行くには十分な年齢になったからと言っていたが、本当は一刻も早く青輪会の一員である祖父に会わせたかったようだ。
職場に一週間ほど休みをとって、三人は祖父母が住まう山の麓にある村に向かった。
魔術師と魔法使いのわかりやすい違いは、水を操るために道具が必要かどうか、そして水以外の液体までもが操れるかどうかだった。
祖父母の家にて、祖父はいくつか流動上のものをアーシェルの前に持ってきた。瓶に入ったどろどろしたもの、皿に開け放たれている粘着のあるもの、そしてコップに入った水などが置いてあった。
祖父はそれを前にして、凍るような光景を想像しろと言ってきた。想像をしろと言われても、まだ三歳だったアーシェルにはどうすればいいかわからなかった。自分が不可思議なことを起こしているのも自覚がなかったため、大人たちが興味津々に覗き込んでくるのに理解ができなかった。
毎日毎日、それらの前に座ったが、ぼんやりと眺めているだけで、何も起こらなかった。やがて帰宅の前日までになってしまった。
夜、アーシェルがトイレに行くために廊下を歩いていると、居間に続くドアが開いていた。そこを覗くと、両親と祖父母が話しているのに気づいた。
「やっぱり見間違いではないか?」
「あの子の年齢で魔法が使えるわけないわ。きっと他の魔術師が偶然に起こした場にいてしまったのよ。あの町には魔術師が何人かいるでしょう」
祖父母が次々と否定の言葉を連ねていく。だが両親は引き下がろうとはしなかった。
「町外れを歩いているときにも起こったんだぞ? 他の魔術師の姿はなかった!」
「一度、家の中でシロップ漬けのものを凍らせたことがありました。これでも魔術師の仕業ではないと言えるのですか?」
「……わかった。なら、もうしばらくアーシェルだけを残してもらおう。わしが示したものを凍らすことができれば、アーシェルを――」
その時、居間の机の上に乗っていたカップの中身が凍り付いた。さらに居間の端にあった、祖父が宿題として与えていた瓶に入っていた流動上のものもすべて凍った。全部が凍りつくと、それを閉じこめていた瓶が割れる。
水に対する異変、そして部屋が寒くなってきたのに気づくと、四人は慌てて立ち上がり、開いているドアに目を向けた。そこには困惑気味な表情のアーシェルが立ち尽くしていた。
「おいていくの……?」
泣きだそうとしたのを見て、母はアーシェルに近寄り、しっかり抱きしめた。
「置いていかないわよ。一緒に帰りましょう」
もはやアーシェルが魔術師よりも上の力を持っているのは、疑いようがなかった。
それから町に戻ったアーシェルは、数ヶ月は穏やかな時を過ごしていた。感情が高ぶった時もあったが、すぐに両親がなだめてくれた。おかげで周囲に大きな被害を与えることなく、時が過ぎ去った。
そして四歳の誕生日が過ぎ、実りの季節を終えて肌寒い季節に突入する前に、再び祖父母のいる村に連れて行かれた。祖父母の家のドアを開けると、見ず知らずの老人が立っていた。祖父母と同じくらいの年齢の老人はアーシェルを見て、にこりと微笑んで氷で作った一輪の花を手渡した。
「初めまして、アーシェルさん。私はあなたと同じような運命をたどっている者です」
彼は祖父によって呼ばれた、先代の魔法使い。幼い少女が魔法使いの兆しを見せていると伝えると、暇を作って村まで来てくれたのである。
それからアーシェルは先代から、自分自身の立場を丁寧にわかりやすく教えてくれた。魔法使いという存在から、それの特徴にアーシェルに当てはまるということまで。
当時はほとんど理解できなかったが、とりあえず自分が人よりも違う力があるということは頭に残った。
先代は根気よく聞いていたアーシェルに向かって、微笑んだ。
「説明はここまでだ。まずは魔法を抑制させることにしよう。暴走しては困るからね。使い方を教え込むのは君がもう少し大きくなってからだ」
「ねえねえ、おじいさんも私も魔法使い? 魔法使いって、ひとりって言っていなかった?」
老人はアーシェルの頭を撫でながら言った。
「ああ、私は魔法使いだった。だからもう使えないよ。でも使い方は覚えている。それを君に教えるんだ。君が六歳になったとき、また会おう。その時までに、決してこれを外さないでくれよ」
首から下げられたのは、水の滴を模したペンダント。それを身につけるとざわついていた心が治まった。
* * *
先代の言葉通り、アーシェルは六歳の時から本格的に魔法の制御および行使の方法を学ぶことになった。
自分の村から出てきた先代は、アーシェルの祖父母の家で寝泊まりながら、アーシェルに教えるようだ。長期にわたって家は離れられないという理由で、一ヶ月置きに教えることになった。
祖父母の裏庭でペンダントを外すと、何かが解放されたような気分になった。先代が持ってきた水が入ったコップを見せられると、意図も簡単に凍らすことができた。数年抑えられていたため、その反動でできたようだ。
それから微笑む先代に叱咤激励されながら、必死に魔法を体に身につけていった。
ある日の夕方、丸一日の鍛錬を終え、アーシェルは疲れ果てて草の上に寝ころんでいた。それを先代は苦笑しながら眺めている。
「まだ六歳、遊びたい盛りだよな。私の孫もこれくらいだ」
「遊びたいけど、頑張ればおやつがでてくるから……」
「ははは。アーシェルのお母さんはお前を乗せるのがうまいな! ……まったく、どうしてこんな歳の子に引き継がれてしまったんだ……」
先代は近くにあったベンチに腰掛け、右手で顔を覆った。彼の仕草を見て、アーシェルは上半身をあげた。
「おじさん……、大丈夫?」
「ああ。少し疲れただけだ。――アーシェル、お前が珍しい存在だっていうのは、わかっているよな?」
「うん。魔法使いの力って、私くらいの歳じゃ出てこないんでしょ?」
「そうだ。十歳以上と言われている。だからアーシェルが魔法使いと知って、みんな驚いたのさ」
先代は腰を上げ、服に付いた草をはらっているアーシェルの頭をそっと撫でた。
「こんな幼い子に引き継がれたのには、何か相応の理由があると思う。もしかしたらアーシェルには魔法使いとして、何か果たすべき務めがあるのかもしれない」
「つとめ?」
「役割ってことさ。――さあ、もう一回だけ練習したら、今日は終わりだ。早く戻っておやつを食べよう」
「うん!」
そして陽が暮れる頃には、二人は仲のいい孫と祖父のように歩いて帰っていた。
先代から魔法の扱い方を学ぶ日は、その後数年に渡って続いた。誕生日を迎えるにつれて魔力が増加していくため、その時々で微調整を加える必要があったのだ。
そのため九歳になったときの魔力は、既に成人した魔法使い以上になっていた。アーシェルが成人した際は、いったいどれほどの魔力を持つようになるかと恐れられたほどだった。
九歳になり、少しずつ物事が見られるようになってきた頃、アーシェルは先代の体力が落ちているということを察し始めていた。
先代は四十半ばで魔法使いとなり、それから約二十年間、魔法使いとして役目を果たしていた。青輪会の者と協力し、水が必要なところに出かけて雨を降らせたり、雨が降りすぎているところではむしろ抑えたりなど、精力的に務めていた。
だがそれをするには体に多大なる負担がかかる。魔法使いは一般的に二十歳前後で発覚する人が多かったため、先代のように歳をとった人間は大変珍しかった。そのため後継者へ教示する年齢としては、体力的にも厳しかったのだ。
通常であれば魔法の扱いを教え、一緒に国中を旅した後に、一人前の魔法使いとして独り立ちをさせるのが習わしだった。だが先代がアーシェルと出会ったのは彼女が四歳になる前。さすがに幼すぎる。旅をするならば、十歳くらいからだと考えていたのだ。
そして十歳になった後、アーシェルは父と共に先代が住まう南にある町に向かって、列車で移動していた。先代の体調も考慮し、アーシェルを連れて行ったのである。
初めての長期に渡る列車の旅にわくわくどきどきしながら、アーシェルは乗っていた。北から南へ進み、途中で乗り換えてさらに南へ進む。途中車中で寝泊まりしたりと、幼いながら大旅行をしていた。
そして数日かけて、ようやく先代が住んでいる町に到着した。父が余分に買ってしまった切符を払い戻している間、アーシェルは駅の支柱に寄りかかって待っていた。
空はうっすらと暗い雲がかかっている。時間がたてばアーシェルにとっては恵みの雨が降る。少し鼻歌交じりに見上げていると、突然声をかけられた。
「こんにちは。アーシェル・タレスちゃんだよね?」
帽子を被った、人の良さそうな男が屈んで聞いてくる。
「誰?」
「お父さんの友人だよ。お父さん、もう少し時間がかかるから、一緒に休憩して待って欲しいって言われたんだ。おいしいお菓子を出す店を知っているから、一緒に行こう」
にっこり微笑まれたアーシェルは、お菓子という単語に反応して、男の手をとった。