2‐21 魔術と魔法の邂逅(6)
* * *
アーシェルがピュアフリーカンパニーから救出された翌々日、空は澄み渡るくらい美しい青空が広がっていた。二つ並んでいるベッドのうち、一つにレナリアが眠り、一つにテウスが休んでいる部屋にて窓の外を見ていたアーシェルは、背後にあるドアがノックされたのに気づいた。
特徴のあるノックの仕方だ。横になっているテウスと視線をあわせると、頷かれる。アーシェルはドアの近くに寄り、中に入るよう返事をした。
ドアが開かれると、灰茶色の短髪の女性ルカと、穏やかな表情をした中年の男性デーリックが現れた。二人は挨拶をしてから、アーシェルに促されて中に入った。
今、部屋の中にはアーシェルたち三人とルカたちしかいない。昨日はキストンもいたが、警察と水環省からの事情聴取を終えた後、師匠に報告をすると言って工房に戻っている。
デーリックは恭しくアーシェルに向かって頭を下げてきた。
「お久しぶりです、アーシェル様。私のことは覚えていますか?」
「覚えていますよ。東の地でさんざんお世話になった、デーリックさんですよね。まさか首都に来ているとは思いませんでした」
「アーシェル様と面識のある私が首都にいた方がやりやすいだろうと言われ、こちらに来ました。今回はこちらの落ち度で辛い思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。私たちがもっと護衛を手厚くしていれば……」
青輪会の二人が深々と頭を下げてくる。アーシェルはゆっくり首を横に振った。
「いえ、護衛は最低限でいいと言ったのは私です。気になさらないでください。まさか本気で狙ってくる人がいるとは思いもしませんでした……」
「時代が時代です。アーシェル様の力を欲する人が多くなってきているのかもしれません」
水を自由に操り、好きなところに雨を降らせ、水を溜めさせる。そして液体ならばたいてい手を加えられるアーシェルという存在は、人によっては喉から手がでるくらい欲しい人材となるだろう。
「首都での務めを終えたら、今後はどうなされますか? 場合によっては、地方にいる青輪会の者に声をかけますよ?」
「ここ最近色々とありましたから、少し落ち着いたところで今後を考えたいです。それと……」
(水環省とも繋がりを保ちたい)
そう思いつつ、言葉を飲み込んだ。デーリックは首を傾げたのを見て、慌ててごまかした。
デーリックやルカなど、世間の事情も広く知っている者ならば、アーシェルの考えを言ってもいいかもしれない。だが仮に水環省に嫌悪を抱いている人間の耳に入ってしまったら、面倒なことになる可能性があった。
過去の魔法使いは水環省に勤めていたと聞いている。しかし不意な拍子で追い出されてしまった。相応の理由があったかもしれないが、百年もたった今では正確な理由がわからずにいた。
だが逆をとれば、もう百年も前なのだ。いい加減にかつてのように関係を築いてもいいのではないだろうか。
青輪会のような自治の組織で、魔法使いを守り、時として適切な場所を選んで連れていくのは、以前から思っていたが、彼らには荷が重すぎる。立派になっている水環省と共に行動できれば、遥かに楽になるのではないだろうかと考えていた。
だから今回のことをきかっけに、裏でもいいから深い繋がりを保ちたいと思ったのだ。
そうすれば、またレナリアたちと会うことができる――という淡い思いも抱きながら。
ルカの視線が未だに意識を取り戻さないレナリアに向けられる。
「レナリア、傷は多いけれども、長期にわたって眠るようなことでもないと思うのですが……」
「それは……」
アーシェルが言葉を思い浮かべていると、ベッドの上で上半身をあげたテウスが答えてくれた。
「医者が精神的に疲れているのではないかと言っていた。……あの横暴な男に襲われかけて、必死になって逃げた。その間に慣れない魔術を発動した。そしてアーシェル様を助けるときに、歩くのもままならない状態でベルーンと対峙した。肉体よりも精神に疲労が溜まっているのは当然だろう」
「そう……ね。魔術師としての新しい力も開花したみたいだったし、数日は意識が戻らないと見た方がいいかもしれない」
ルカやテウスたちは、地下でのレナリアが発動した魔術を新しい力と解釈しているようだ。
彼女はかつて魔術弾を用いて、ある一定カ所に凍らせることしかできなかった。だがあの時、何もない場所で氷の剣を作り上げたのだ。魔術師としては端くれだった彼女がベルーンと同レベルのことをしたのだから、能力が開花したと言ってもいいだろう。
そう解釈したかった、アーシェルも。しかしどこか違和感がしたのだ。うまく言葉に表現することができなかったため、他の者にはまだ言っていなかった。
「レナリアはそのうち目が覚めるだろう。あいつも覚悟を決めて乗り込んだんだ、わかっているはずだ」
「……ねえテウス、レナリアのこと随分と肩を持っているよね。そういえばあの子が青輪会の部屋に来た夜、部屋に連れ込んでいたけど、まさか……!?」
「は? 何を考えているんだ。あいつに任務の危険性を忠告していただけだ!」
「へえ、本当? あの後から二人の距離が微妙に縮まったような……」
ルカがにやけながら、テウスのことを追求してくる。それを彼は必死に跳ね退けるが、彼女は遠慮なく踏み込んでいた。
それを見ていたアーシェルはくすりと笑った。デーリックはわざとらしく溜息を吐いている。寡黙なテウスだが、ルカの手にかかればいとも簡単にからかわれるのだった。
二人の態度を見たルカは、一歩下がり、言葉を引っ込めた。話が収まったところで、デーリックは空とアーシェルを交互に見た。
「今日が例の日ですが、体調は大丈夫でしょうか」
「問題ありません。今なら水たまりも残っていますし、やりやすい環境にあると思います」
「そうですか、よかったです。では改めて夕方にでもお伺いします」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ルカとデーリックは本部に戻ると言って、部屋を後にした。
二人が帰ったのを見届けたテウスは再びベッドの上に横になる。一昨日の戦いでカーンに切られた傷はそこまで深くない。だがそれ以前の雨の日での戦闘での傷が開いたために、おとなしくせざるを得なかったのだ。
アーシェルはじっとテウスを見下ろす。
「テウスは絶対安静よ。ルカたちがいるから心配しないで」
「あいつらがいるのなら、特に心配していませんよ。俺に構わず務めを果たしてください」
「……ごめんね、見るつもりで一緒に来てくれたのに」
アーシェルは軽く自分のスカートを握りしめた。テウスは表情を緩める。
「アーシェル様を無事に送り届けるのが第一の目的です。見るのは二の次ですよ」
「テウス……」
「はい」
「……ありがとう」
言葉に詰まりながらも言えたのは、それだけだった。本当はその一言以上に感謝している。
首都に行かねばならない、だが護衛はあまり割きたくない、というわがままを彼は承諾して、二人旅をしてくれた。その間に背負った彼の負担は計り知れないものがあるだろう。
結果としてこのように怪我を負わせてしまった。命を落とさなかったのがせめてもの救いかもしれない。
「アーシェル様」
「何?」
「笑ってください。その方がレナリアも喜びます。そして辛いかもしれないけれど――こいつに話してやってください」
規則正しく胸を上下させている少女に視線をそっと向ける。
避けていた過去の中にいた少女。あのような端的な事実だけで納得できるわけがない。
自分が知っていることをすべて話そう。
彼女の大切な人を奪ったのは、自分なのだから。
* * *
湖から川が流れ出ている小高い丘で、アーシェルは夜空に浮かぶ星々と月を見上げていた。まん丸の月が浮かんでいる。それを取り囲むかのように明かりの大きな星々が輝いていた。
湖から川へと流れる部分にある木に手をつける。触れているだけで心が落ち着いてくるようだった。
「アーシェル様」
デーリックが傍に来ると片膝をつけて、長い棒を差し出してきた。アーシェルは礼を言ってから、それを両手でとる。
先端に水晶のような丸い玉がついている杖だ。玉と棒を繋ぐ部分は細やかな宝石で彩られている。棒の部分はやや色褪せているが、丸い玉の輝きは衰えていなかった。
過去から引き継がれている魔法使いの杖。かつてはこれを片手に水を生み出し、人々に恩恵を与えていたという。しかし存在が狙われるようになってからは、目立つという理由で隠されていた。そのため今日のような特別な日にしか出さないのである。
「では私たちは下がりますので、思う存分おこなってください」
「ありがとうございます」
デーリックが腰を上げて言うと、背を向けて湖から離れていった。目に見える範囲で彼とルカの姿が見える。それを確認したから、アーシェルは湖に目を向けた。
今の服装は旅仕立てのものではなく、水色を主の色とした薄手のワンピースを着ている。ピュアフリーカンパニーの時に着ていたものよりも生地は厚いため、どことなく安心できた。銀色の髪は青い花の飾りがついたゴムを用いて、ハーフアップで結った。
杖の先端である丸い玉がついている部分を湖に向け、気持ちをそこに集中する。すると湖の中心から水が徐々に空に向かってのぼっていた。アーシェルの目線以上になると、山となっていた水に込めていた力を解放させた。途端に水の山が霧散する。
水しぶきとなったそれらに向かって、杖を下から上にあげると、水しぶきは天井に投げ放たれた。それを何度か繰り返すと、あたりはひんやりと涼しくなった。
視線を夜空に向ける。杖を上空に向かってくるくる回すと、額にぽつりと水滴が落ちてきた。それから間もなくして雨が降り出してくる。その雨はハーベルク都市を降り注いでいった。
アーシェルは杖を回しながら、ゆっくりと湖の周りを歩き出した。先ほどの湖への魔法はただのきっかけである。本当は空に浮かぶ水に刺激を与えたかったのだ。
杖を回していくことで、空気に漂っている水の粒子をかき混ぜていく。雨はさらに広範囲に渉っていった。
ウォールト国では十年に一度、国全体に雨が降ると言われている。それは慈愛と恵みの雨と言われ、それに触れることで心身を癒すことができるとも言い伝えられていた。本を読めばわかるが、多くの人間たちがその雨を浴びていたという。
だが実はその雨は魔法使いのおかげだというのを、ここ数年で知った。
ならば十年前はどうしたのか。アーシェルはまだ六歳で、魔法をまともに扱える年齢ではなく、何かをしたという覚えはない。そのことをかつての魔法使いであった老人に問うと、にっこり微笑まれた。
曰く、水の粒子たちが勝手に集まり、その日も雨が降った――と。
水の粒子というのは、それぞれに命が吹き込まれており、魔法使いたちがそれに指示をすることで、水を操ることができている。そのため水の粒子たちは十年毎に行っていることが体に身についていたため、勝手に動いたのではないかと言っていた。
半信半疑でその話を聞いていると、老人はアーシェルにさらに語りかけてくれた。
かつてこの世界では精霊がおり、それらに力を添えることで奇跡を起こすことができていた。しかし時代が移り変わり、いつしか精霊は人々の前から姿を消した。だがそれぞれの自然界に宿った精霊の加護は消えなかった。水もその一つだ。
今、降り注ぐ雨にも、叩きつける地面にも、吹き抜ける風にも、温かみを与える火にも、すべての自然には加護が宿っている。それは万物が創世されたときから変わらないことで、ただ単に感覚が鈍くなった人間たちが気づいていないだけなのだ。
土や風、火に関してはわからないが、水に何かが宿っているのは魔法を使いこなすにつれてアーシェルも薄々感じてきた。だから今日も合図を与えて願うことで、雨を降らすことができたのだ。
「すべての循環になくてはならない水よ、今日も私たちに恵みを与えくださって、ありがとうございます。願わくば、人々の心にも癒やしがもたらせますように――」
切実に思いながら、雨を降らすために、水と人を繋ぐ循環を司る人間は杖を回し続けた。
「これがアーシェル様の雨……」
窓の傍にまで寄っていたテウスは窓に手を添えて、じっと雨を見続けていた。周囲を照らしていた月の部分以外は雨雲で覆われ、遙か先の大地にまで雨を降り注いでいる。
首都の郊外にある湖を使って、この儀式を行う――。水さえあればどこでもいいらしいが、一番魔力が溜まっており、国のど真ん中にあるということで、ここが推奨されているらしい。
この日の務めを立派に終わらすために、彼女は必死になってこの地に来た。そのため無事に終わりそうなのを間接的に見て、護衛としてもほっとしていた。
その時、かさりと衣擦れの音がした。振り返るとレナリアがぼんやりとした表情で上半身をあげている。数日ぶりに目覚めた彼女に声をかけようとしたが、顔を見て思わず言葉を飲み込んだ。空色だったレナリアの瞳が、深い青色になっている。その目から一筋の涙がこぼれ落ちたのだ。
やがて彼女の全身は震え出す。そして両腕で自分自身を抱きしめた。テウスは彼女の異常を察し、近づいた。
「おい、レナリア、どうした!」
彼女は視線をあげる。目から涙が止めどなく流れていた。
「何があった!?」
「わからない……。体の中がすごく不快な感じがするの。私が私でなくなるみたい……!」
「どう意味だ?」
手を触れようとすると、彼女は全身を激しく振って抵抗した。ふと彼女の視線が花瓶に向けられる。瞬間花瓶は割れ、花が浸っていた水の部分は氷漬けになっていた。
それを見たレナリアは愕然とした表情になっている。
「今のレナリアの仕業か……?」
問うと、彼女は自分の額の両手で覆った。
「やっぱり……。どうしよう……。もうアーシェルとは会わない方がいいかもしれない」
「どういう意味だ?」
あれだけ頑張ってアーシェルを助け、そして真実を聞きたがっていたのに、彼女は何を言っているのだろうか。
「……会ったらきっと反発する。体がそう言っている気がする」
レナリアは窓に視線を向けた。すると降り注いでいた雨の線が徐々に細くなっていた。
今のは偶然だろうか。アーシェルが偶々力を治めただけだろうか。
「おい、何があったんだ、レナリア。魔術が開花しただけではないのか」
「それがわかっていたら、こんな想いにはならない。理由はわからないけど、直感が――」
深い青色の瞳を向けられた。
「アーシェルと会うなと言っている」
雨の音が少しずつ小さくなっている。
それによりテウス自身の心臓の音がはっきりと聞こえてきた。
第二章 渦巻く宿命の輪 了 / 第三章に続く