2‐20 魔術と魔法の邂逅(5)
アーシェルたちがろ過池の下にある階段をのぼり、地上に顔を出すと、雨がぽつぽつと降っていた。少し強めに降っており、傘があれば差したい強さだが、なくても我慢してやり過ごせる雨でもあった。
先頭を歩いていたルカは、きょろきょろと周囲を見渡している。
「あたしたちにとっては恵みの雨かもしれない。この雨で外にでようという人がほとんどいない。たとえいても、傘を差している場合があるから遠目でも判別しやすい。……状況が状況だから、中央を一気に駆け抜ける」
彼女はちらりとテウスを見た。彼は腕で抱えているレナリアをきつく抱え直している。
「止血したとはいっても、また傷は開く可能性がある。気をつけて運んで」
「ああ、わかった。さっさと行くぞ」
ルカはアーシェルにも軽く視線をあわせてから、軽やかに走り出した。テウスに促されてアーシェルは彼女の後ろを走る。数日ぶりに走っているため、すぐに息が上がりそうだった。だが余談を許さない状況では嘆いていられない。歯を噛みしめながら、走っていった。
息が上がりかけたところで、正門が見えてきた。門はしっかりと閉じられているが、ルカは躊躇いもせずに走っていく。
ふと、雨の跳ね方がおかしな動きをしている部分があるのに気付いた。門の手前側に何かがいる。そう察し、注視しながら近づいていく。水たまりに波面が広がる。
アーシェルははっとし、声を上げた。
「ルカ、前!」
先頭を走っていたルカは軽く目を見開いた後、その場に立ち止まり、短剣を抜いた。そして前方に向かって大きく短剣を振る。水たまりの波面が手前から奥へと移動した。
キストンが間髪入れずに、胸ポケットから赤い色のボールを投げる。それは落下する際に破裂し、真下に赤い塗料を落としていった。 赤い塗料が雨や目の錯覚により見えにくくなっていた物の正体を露わにしていく。
目の前に現れたそれを見て、アーシェルとキストンは驚きを露わにした。
「まさか合成獣……?」
「どうして合成獣が!?」
二人の言葉を聞いたルカとテウスも息を呑んだ。
二匹の小柄な獅子のようなもの体に赤い塗料がついている。尻尾は蛇なのか、先端にも牙が見えた。独りでにうねうねと動いている。
ルーベック町でアーシェルたちが遭遇したものよりも、一回り大きい種の合成獣だった。人間よりも遥かに大きい。あれに上から圧し掛かれたら、いとも簡単に潰されるだろう。
「さすがに液化窒素は持ち歩いていないぞ……!?」
キストンは顔を強ばらせている。あの時はレナリアの機転と、彼が用意した液化窒素により動きを止めることができた。再度同じことをしようとしても、物が揃っていない状態ため、できなかった。
そんな彼に対して、テウスは意識を失っているレナリアを預けていた。キストンは足がもつれながらも、彼女をしっかり抱える。
テウスは鈍い光りを放つ剣をゆっくり引き抜いた。あれで対抗するつもりだろう。彼の強さはアーシェルも一目置いている。負けるはずはないだろうが、追われている状態ではいかに手際よく始末するかが重要だった。
来た道を振り返れば、がやがやと集団が近づいてくる。あれらが来る前に、門を越えなければ。
剣を抜いたテウスの横に、アーシェルはそっと足を伸ばした。気配を察した彼が目を大きく見開いている。
「アーシェル様、危ないですから下がっていてください!」
それを手で制して、さらに前に出た。流れる銀髪を軽く耳にかける。
「……雨が降っていればこんな相手、どうってことない。私が魔法使いと知られてしまったのなら、躊躇う必要はない。すぐに終わらせる」
意識が戻らず、ぐったりとしているレナリアを一瞥した。
全力で自分を助けに来てくれた少女。今度は――自分が護る。
アーシェルは両手を大きく前に突き出して、目をつぶった。合成獣がこちらに視線を向けている気がした。それへの意識を遮断するかのように、水を構成する物質に注意を向けた。目で見えない意識の中では、ぼんやりと青系統の色の珠が浮かんでいる。心の中でそれらが集まるように念じると、珠はあっという間に一つに集まっていった。
「――生命を作り出す水よ、いまここで集まり、我に力を与えたまえ。哀れな時を止めるために、力を貸したまえ」
アーシェルの周囲がひんやりとしてくる。目を開けると、視界がやや白みがかって見えた。
二匹の合成獣がアーシェルに飛びかかってくる。
隣にいたテウスが歯を噛みしめて、剣を振ろうとしていた。だがその前に紡ぎの言葉を出す方が先だった。
「――水と循環を司る我の元で、廻れよ、凍れる水の集合体よ!」
瞬間、飛びかかってきた合成獣の全身が一瞬で凍った。空中で険しい表情をした氷の彫像が二つできる。傍から見れば自然界の摂理に抗っている、あり得ない光景だった。
凍った合成獣の目が動ないのを確認すると、アーシェルは息を吐き出した。それと共に氷の像は落下する。地面に衝突し、その場でヒビすら入らずに着地した。
雨が氷の像を叩きつけていく。ややいびつだった彫像は、雨によって滑らかに仕上げられていった。
恵みの雨に心の中で感謝しながら、ゆっくり手をおろした。思わず微かに口元が緩んでしまう。水を好き勝手に操り、思い通りのことをするのは、不思議と快感だった。
「アーシェル様……、ありがとうございます……」
テウスが剣を下ろしている。ルカも頭を下げていた。ただ一人、キストンだけが呆然と突っ立っていた。アーシェルと氷漬けになった合成獣を交互に見ている。
圧倒的な力を持つ魔法を初めて見て、驚いているのだろう。魔術でさえ廃れ出している時代だ、常人がこの力を見れば、誰しも驚きを露わにする。
同時に単純な驚きだけでなく、ルーベック町でのことも思い出しているのかもしれない。実はあんなに苦労せずとも、戦闘を終わらせる可能性をアーシェルが秘めていた。今以上に切迫した戦闘力差だったにも関わらず、何も申し出なかったことに疑惑を抱いているのかもしれない。
騙していたつもりはなかった。あのときは魔法使いだと名乗りたくなかっただけだ。魔法使いだと知らせてしまえば、彼らを完全に巻き込んだことになる。だからこっそりと霧を発生させるのに留めたのだ。そう自分に言い聞かせるが、胸の中で何かがちくりと刺さった気がした。
胸に軽く手を添えていると、目の前にある門が音をたてて開かれた。外側から二人の男が門を押している。二人は馬車が悠々と通れる広さにまで開き切った。背筋を伸ばした女性を先頭に、十人程度の集団が中に入ってくる。
「……筋書きとしてはこうでしょうか」
眼鏡をかけた顔にそがかすがある焦げ茶色の髪の女性は、腕を組んで真っ直ぐこちらに歩み寄ってくる
「一人の査察官が抜き打ちで査察に行った。けれども査察に行った先で捕まり、酷いことをされた。そこからどうにか脱出をし、仲間と合流。その後は仲間たちの査察によって、見事その査察先の不正を摘発することができた――で、どうでしょう?」
テウスが剣を握り直したのを察したアーシェルは、彼の手に触れた。彼をまとっていた空気がやや緩む。その状態のまま、彼女がすぐ近くにまで来るのを待った。
女性はアーシェルの前に立つと、恭しく頭を下げた。そして首にかけていたペンダントを取り出し、国章が描かれたそれの裏表を見せる。
「初めまして。私はミレンガ・ディルナと申します。水環省の実働部第二担当の職員です。そちらで意識を失っているレナリア・ヴァッサーの同僚です。――貴女はレナリアが助けたがっていたお嬢さんでよろしいのですか?」
「……どこまで知っているんですか」
アーシェルがやや警戒気味に言うと、彼女はそれを和らげるかのように微笑んだ。
「貴女がどのような立場の人間であるかは存じています。私たちにとっては、とても縁の深い人間であるということも。――ここから先は我々に任せてくださいませんか?」
「何をするつもりですか」
「ピュアフリーカンパニーには強制査察に入ります。以前から手を付けたかったのですが、機会がなかったもので」
「早く査察に入って欲しかったですね」
「申し訳ありません。こちらも色々と政治が絡んでおり動けなかったのです。ですが今回のレナリアの状態を見れば、内部に何らかの非がある人間がいるのは明らか。相当な圧力はかけてこないでしょう」
「まさかレナリアさんを囮に使ったのですか!?」
声を荒げ、前に出ようとすると、隣にいたテウスに腕を握られた。我に戻って、前に出そうとしていた足を戻す。
女性はペンダントを服の中に戻しながら、口を開いた。
「そう感じてしまうのは当然でしょう。私たちは彼女が危険を承知でここに乗り込むことを黙認し、何かあれば後から出てこようとしたわけですから。いくら責めても構いません。ただしこれだけはお伝えしておきます。彼女は私たちの仲間です。たとえ休職状態にあろうとも、何かあれば全力で助けにいきます」
眼鏡越しから、強い意志を持って見据えられる。アーシェルは視線を下に向けて、手をぎゅっと握りしめた。
「すみません、失礼なことを言ってしまい」
「謝らないでください。囮ではないと、否定することはできませんので。では私たちはこれから査察に――」
「あの、強制査察をして、ここの上は変えられるのですか?」
副社長は経営の手腕に優れているが、女にすぐ手を出す癖があり、酷いことをしているという。さらに父親でもある社長も頭は良く回るが、裏のお金を流用していると耳にした。
行っている事業は素晴らしいものだが、このまま続けていてはこの町全体の人の命を握ることになってしまう。それは避けてほしかった。
ミレンガはアーシェルの問いに対して、力強く頷いた。
「ええ、変えるつもりできました。今回はこちらで調べていた案件でようやく不鮮明なところが出てきたため、査察に踏み切ろうと思いました。またレナリアがされたことも多少なりとも考慮すれば、落とすにはそう時間はかからないかと思います」
彼女の視線はレナリアの胸にかけられている上着に向けられていた。それだけで何があったのか薄々察したようだ。
「……落とすとは、会社を潰すつもりですか?」
「会社は潰しますが、この施設は潰しません。国有化します」
ミレンガは迷いなくきっぱり言い切る。一瞬何を言っているかわからながったが、彼女の決意を垣間見て、凄いことをしようとしているのは感じ取れた。
国有化、すなわち皆に平等に水を提供すること。
ピュアフリーカンパニーでは富裕層から少し質のいい生活をしている庶民にしか水は送っていなかった。国有化すれば、その範囲は格段に増えるのかもしれない。
ミレンガのように将来を見据えて行動している人たちに囲まれて仕事をしていたレナリア。彼女が年齢以上に大人びた発言や、とっさに判断して動けていた理由が何となくわかった気がした。
ミレンガは後ろから来た者たちに、先に行くよう指示を出す。逆にアーシェルたちには門の外に出るよう促した。
「この先に水環省の職員が馬車の前で待機しています。その者に私のことを言えば、病院まで連れて行ってくれますので、声をかけてください。レナリア……だいぶ弱っていますね」
テウスの腕の中でぐったりとしている、藍色の髪の少女。息をしているのかと一瞬疑ってしまうほど、顔色は悪い。ミレンガはレナリアを見ると、やや顔が険しくなった。
「それに他の方も多かれ少なかれ怪我を負ったり、疲れているでしょう。休息と思って診察を受けてください。そうでもしないとこの子に恨まれそうですから。向かう病院は訳ありの人が通っているところです。警備も厳重ですし、誰も貴女のことたちを探りなどしませんよ」
「私たちがそこまで気を使ってもらう理由はない気が――」
「ありますよ」
ミレンガは空に視線を向けて、手のひらに雨を乗せた。
「水を大切に想う者同士、助け合いましょう。では私はこれで」
そして女性は背筋を伸ばして、アーシェルたちの横を通って進んでいった。
彼女らに対してアーシェルは軽く一礼をする。ピュアフリーカンパニーの職員と水環省の職員が揉め合っているところに、ミレンガは入っていった。
「アーシェル様」
テウスが声をかけてくる。彼は軽く門の先に目を向けた。頷き返し、四人で一緒に歩いていく。門から外にでると、ほっと胸をなで下ろした。門の右側にはミレンガの言うとおり、馬車が止まっていた。
それを見て歩み出そうとすると、ルカが口を開いた。
「アーシェル様、テウス、そしてキストン」
彼女の体は左側に向いている。
「自分は今回の件について報告をするために本部に戻ります。医者にかかるほどの怪我は負っていませんので、行く必要もないでしょう。テウスはカーンとの戦闘で結構切られたんだから、大人しく治療してもらいなさい。……アーシェル様はお疲れでしょうし、レナリアと話をしたいんですよね?」
躊躇いながらも首を縦に振った。本当ならば助けに来てもらった青輪会のもとでいち早く保護されるべきだろう。しかしここで別れてしまったら、レナリアともう会えない気がしたのだ。
直に会って話さなくてはならない。過去にあった出来事について。
あの雨の日に彼女を酷く傷つけてしまった、忘れることができない過去を。
無言を肯定と受け取ったルカは、テウスに向けて一歩近づいた。
「……たぶん何もないと思うけど、念のために警戒していて。例の日には顔を出しにくるから」
「ああ。お前も戻るまで気をつけろ」
「ありがとう。貴方が気にしてくれるなんて、明日は雨でも降るかしら?」
「もう降っているだろ。じゃあな」
別れの言葉を告げると、ルカは軽く手を振ってから、一人雨の中を歩いていった。
アーシェルたちは彼女の姿を見届けつつ、馬車に寄った。その前には焦げ茶色の髪を緩く巻いた女性が傘を差して立っている。彼女はアーシェルが近づくと顔を向けた。そしてテウスが抱えている少女を見て、傘を投げ捨てて駆け寄ってきた。
「レナリア!?」
女性はアーシェルを差し置いて、レナリアの顔を触ってくる。
「どうしたの!? 傷だらけだし、顔色悪いし、しかもこの上着……」
少しだけ上着を捲ろうとしたが、隙間からのそれを見て、慌てて元に戻した。
そして女性はようやく他の者たちに目を向けてきた。目を大きく見開いている。
「皆さんも怪我をされているじゃないですか! 病院へとお連れしますので、どうぞ馬車に乗ってください!」
「あ、あの……」
女性の勢いに押されかけたアーシェルは、ようやく声を開いた。
「何ですか?」
「私たちも病院に行っていいのですか?」
アーシェルの言葉に一瞬きょとんとした女性。次の瞬間、彼女は破顔した。
「レナリアを助けてくれて、ありがとうございます。それで充分ですよ」
そしてテレーズと名乗った女性に押されて、四人は次々と馬車に乗り込んだ。最後に彼女も乗り込み、御者に声をかけると、ゆっくり走り出した。
椅子の上に横にしたレナリアは、未だに目を開ける気配はない。心身の傷を癒やし、一日でも早く目が覚めてくれることを、アーシェルは雨に向かって願っていた。