1‐1 雨の日の旅立ち(1)
深い、深い青い色の瞳。深海を連想させるような深い青。
思わずじっくりと見ていたくなるような、美しい色だった。
華奢な肩を隠すかのような長い銀色の髪が、風になびかれている。光が反射すると、また美しい色を作り出していた。
視線を横に向けている少女は、こちらに気付くと顔を向けてきた。
美しいと思った瞳からは、一筋の涙がこぼれている。
そして彼女はこう呟いた。
「ご――」
* * *
閉じていた目にうっすらと光が入ってくる。眩しいが、どことなく温かな光でもあった。
左手で顔をかざしながら目を開けると、見慣れない天井が視界に飛び込んできた。石でできた冷たい印象を受ける天井ではなく、木質の柔らかな空気を漂わす天井が広がっていた。
「ここは……?」
上半身を持ち上げ、視線を自分の体に向ける。肩より少し長い藍色の髪がこぼれ落ちた。結んでいた髪がほどけている。
服も変わっていた。寝るのに適した緩めの服だ。毛布も掛けられており、それがレナリアを優しく包んでいたようだ。
ぼんやりとしながら隣にあるベッドに視線を向ける。毛布はたたまれ、シーツはきちんと伸ばされていた。まるでそのベッドは誰も使っていなかったように――。
そこで霞がかっていたレナリアの記憶が一気に蘇ってくる。
ベッドから降り、隣のベッドをぐるりと回った。使われた形跡が見あたらない。
カーテンを全開にして、窓の外を眺める。見慣れない村だ。この窓から見る限り、家々の間には畑があり、まばらに家が並んでいた。
「ここ、どこ?」
窓に手を添えて、周囲を見渡していると、背後にあるドアが音をたてて開いた。レナリアはとっさに手で構えて、出てきた人物を見据えた。
入ってきた少年はこちらを見ると、目をぱちくりした。
「あ、起きたんだ。おはよう」
どこか間の抜けた台詞を出される。それを聞いたレナリアはやや構えを解いた。様子からして、レナリアと年齢はたいして変わらないように見えた。
眼鏡をかけている、焦げ茶色の癖毛の少年がニコニコしながら近づいてくる。
「起きなかったらどうしようって考えていたところだったから、よかった」
「私は君に助けられたの?」
「そういうことになる。川に行ったら岸に人が乗り上げているから、びっくりした」
「川……か」
滝壺から落ちた後の記憶はない。意識を失いながらもどうにか岸に流れ着き、たいした怪我も負っていないのは、かなりの幸運だっただろう。
「……その川に私以外に誰か流れ着いていたかしら?」
真っ白いシーツをちらりと見てから問いかける。逡巡の後、少年は首を横に振った。
「他の場所に、ってことだよね。残念ながらいなかったよ。他に連れでもいたの?」
窓枠に軽く添えていた右手をぎゅっと握りしめる。後悔の波がレナリアの思考を覆っていく。
「どうしたの? 調子でも悪いの? まだ起きたばかりなんでしょ、横になっていたら?」
すぐ傍で声がするが、レナリアの耳には入ってこなかった。俯き、目に溜まり始める涙を必死に食い止める。
その時、控えめなノックが聞こえた。少年はレナリアに背を向けてドアに寄る。彼が開くと、銀色の髪が視界に入った。
顔を上げ、青色の瞳と視線が合う。目を丸くした彼女はこちらを見るなり、持っているものを少年に押しつけて、駆け寄ってきた。そして勢いよくレナリアに抱きつく。
「よかった、目を覚まして……!」
自分より少し背の低い少女が涙声になっている。そんな彼女の様子を見て、ぽかんとしていたが、やがて手を頭に乗せて軽く撫でた。
「無事で、よかった……」
走りゆく汽車から落ち、さらには滝壺まで突き落とされたレナリア・ヴァッサーとアーシェル・タレスが流れ着いた場所は、ウォールト国の南西部に位置するフイール村だった。農作物を育てて生活をしている人が多くいる村で、穏やかな空気が漂う地であった。
そんな村の近くを流れる川で、朝に散歩をしていた少年キストン・ルーベルクに発見されたらしい。
キストンの母親から出された遅い朝食を食べながら、レナリアは彼の話を聞いていた。こんがりと焼いたパン、瑞々しい野菜が使われたサラダ、そしてトマトベースの味付けをしたスープが並んでいる。スープはスプーンですくって飲んだり、パンを浸して食べた。
彼の話が一段落したところで、レナリアはスプーンを皿に置いた。
「一ついいかな。さっき私はキストンに、『その川で私以外に誰か流れ着いていた?』って聞いたら、首を横に振ったよね。でも結果としてはアーシェルがいる。これはどういう意味?」
レナリアの横で幸せそうな表情で紅茶を飲んでいる少女を指す。彼女はきょとんとした表情で首を傾げた。
「……あれだけしっかり抱きしめていたから、一緒にいると認識していたと思っただけさ。レナリアと密着していない、他の誰かっていう意味だと思ったんだよ」
「キストン、頭が余計に回りすぎている。私はそこまで回りくどいことは言わないから」
「そうなんだ。これからは気を付けるよ」
レナリアはフォークに手を付け、切り分けられた橙色の野菜を突き刺し、口に運んだ。歯ごたえがいい。その野菜本来の味もでている。素直に美味しいと言葉に出せる野菜だった。
皿の上に乗っているものをすべて食べ終えると、食後の紅茶に口を付けた。
「……いい茶葉を使っているね。香りも味もいい」
キストンは鼻の下を指でこすってから胸をはった。
「フイール村は紅茶で有名な産地の一つさ。フイール茶って聞いたことない?」
「あるね。高いから特別な日くらいしか飲んだことはない」
「そうそう、他と高いってよく言われる。茶葉生産の効率性が悪くて、大量生産ができないんだ。そこは土地柄しょうがないね」
きれいに紅茶を飲み干したキストン。机の上で腕を組んだ。
「ここ数年、さらに値上がりしている。雨が少なくて、いい茶葉ができないみたい。茶葉を育てている人は、今までこんなことはなかったって連呼している」
「へえ、ここら辺では雨が少ないの。私が最近訪れた村では、豪雨が頻発して、まともに作物が育たないって言っていたよ」
「そうなんだ。……適切な場所に、適度な雨が降らなくなっている。この状況、どうにかならないのかな」
キストンは深々と息を吐き出した。
その天候が毎年続いていたから、それに適した植物を栽培していた。しかし環境が変われば、適当な植物の種類も変わってくる。今後、再び天候が戻るのを期待して、従来から植えている植物を育て続けるのか、それとも今の環境に合わせて変えていくか――。
それらの悩みはレナリアがここ最近でもっともよく聞く内容であった。
レナリアは紅茶の香りをかぎながら飲んでいると、横にいる銀髪の少女の顔が暗いのに気付いた。彼女は両手を膝に乗せて、俯いている。
紅茶のカップを机の上に置くと、レナリアは視線を少女から逸らさずに尋ねた。
「キストン、私たちの他に誰も流れ着いていなかったんだよね」
徐々に張りつめていく空気を感じた少年は、躊躇いながらも頷いた。
「ああ。他には誰も……」
レナリアは少し椅子から乗り出して、アーシェルの肩に手を優しく乗せた。銀髪の少女は小さく首を横に振った。
「すみません、気を使わせてしまい。……大丈夫です、テウスは私よりも遙かに強い人ですから、きっと別の場所で生きていると思います」
「アーシェル……」
彼女の辛そうな顔を、レナリアだけでなく、キストンもまじまじと見ていた。視線に気づいたアーシェルが顔を上げると、彼は両手を頭の後ろに回して、視線を逸らした。
「ごめんなさい、キストンさん」
「なんで謝るのかな。僕が勝手に聞いていただけだし」
キストンは立ち上がると、空になったカップを手にとった。そして背を向けて台所に移動する。
「二人がどうして川に流されていたのかは気になるけど、別にこっちから追求しないから安心して。……しばらくゆっくり休んでいいよって、母さんが言っているから、そこは遠慮しないでね」
「すみま――」
「アーシェルさん」
キストンが彼女の名を発すると、表情を緩まして口を開いた。
「謝るよりもお礼を言われる方が、僕は嬉しいな」
その言葉を聞いて、はっとしたアーシェルは、今度は仄かに笑みを浮かべた。
「お気遣い、ありがとうございます……」
* * *
レナリアとアーシェルは、数日間はキストンの家で過ごしていた。二人の少女が居候しても部屋の数が問題になることはなかったため、彼らのご好意に甘えて、有り難く休ませてもらっていたのだ。
キストンは母親と二人暮らし。普段は別の場所で働いているが、今は長期休みをもらって戻ってきているらしい。だがその休みもそろそろ終わり。長期移動に備えて、荷物を詰め込んでいるようだ。
ある日の昼食後、体の調子も戻ってきたため、キストンから地図をもらって、村をのんびり歩き回ることにした。彼も同行したがっていたが、その申し出はやんわりと断った。
多少落ち着いた今、レナリアはアーシェルと二人きりで話がしたかったのだ。
藍色の髪を軽い団子状にしてまとめあげ、ウェストバックを手にして外に出た。
柔らかな光が二人を出迎えてくれる。アーシェルは手で顔をかざしながら、太陽の方を眺めた。
「暖かい……。水の中とは大違いです」
「そうね。でも太陽だけだったら、今の環境は保てない。水があるから適度な気温を維持できるのよ」
「ええ、その通りです」
にっこりとした表情で相槌を打たれる。改めてまじまじと彼女を見ると、可愛らしい部類に入る少女だなと、ふと思った。
特にあてもなく、村の外周をぐるっと回るようにして歩き始めた。村の外側には茶畑もあったため、穏やかな風景を楽しみながら進んだ。茶畑は綺麗に並べられて植えられており、村人の真面目な性格が垣間見えた気がした。
周囲を見渡しながら歩いていると、アーシェルが突然立ち止まった。数歩先に進んだレナリアは歩くのをやめて振り返る。太陽の前に雲が入り、辺りは一瞬で暗くなった。
「どうしたの?」
「……キストンさんもそうですけど、レナリアさんも何も聞きませんよね。特に……あれを見たにも関わらず」
あれとは車中での逃亡劇と戦闘のことだろう。
「別に聞く必要もないと思っただけ。二人が訳ありなのは、見たときからわかっていた。隠していても微かに殺気がにじみ出ている護衛と、やたらと怯えている少女。ある程度戦場での場数を踏んで、殺気さえ感じ取れるようになっていれば、誰でもわかる」
真顔ではっきり言い切る。
アーシェルの表情が明らかに警戒の色を見せた。彼女は半歩下がる。
「レナリアさん、いったい何者ですか。戦場っていう言葉、普通に生きていたら使いませんよね?」
レナリアは風に流される髪を軽く耳にかけた。
「……普通って、何が基準なんだろう……」
「はい?」
ぽつりと呟いた言葉を聞き取ったアーシェルが、怪訝な表情をしている。
レナリアは息を吐き出し、自分の首回りから服の中に手を突っ込んだ。アーシェルの視線がそれを追う。二種類ある紐のうち、太い方の紐をゆっくりひっぱりあげた。そして紐を指で挟んで、その先にあるものをアーシェルに見せる。
取り出したのは、薄く伸ばした金属を楕円形に切り、その上に刻印がされたペンダントだ。
葉で周囲を形作り、中は雫を背景として剣と羽ペンが混じり合う。さらにそれ以外にも細かく装飾されている、ウォールト国の国章がそこには描かれていた。
裏面にひっくり返せば、レナリアの名前と所属先が刻印されている。
レナリアはそれを見せつけるかのように、前に突き出した。
「私、レナリア・ヴァッサーはウォールト国から命を受けて、各地を転々と歩いて水のことに関して調べている査察官。通称、水環の査察官よ」
アーシェルの目が大きく見開いた。
「各地では水が発端となる荒事も多い。それを止めたりするのも私たちの勤め。だからそれに関わっていると、腕っ節もそれなりに強くなるのよ」
「国の査察官……!?」
「これを読めばそう書いてあるでしょう」
アーシェルがおそるおそる近寄ってくる。そしてペンダントを手にとると、じっと見た。表と裏、さらには肌触りまで丹念に調べている。
「これでも信用ならない? 査察官の存在を知らなかったらそれまでだけど」
「査察官は知っていますよ。農業や工業、そして貿易など、だいたいが査察官の目を通さなければ商売はできないじゃないですか。私、水環の人にあったのは初めてで……。本当にいたんですね」
「数は少ないけど、ずっといるよ。古さで言えば、五本の指に入ると思う。そう――この国から水魔法が消える前のもっと昔から……」
視線をあげると、額に雨粒が落ちてきた。それは次第に強くなり始める。
ペンダントを見て呆然としているアーシェルの肩を叩いて、レナリアは近場にある小屋の軒下まで走っていった。