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水環の査察官  作者: 桐谷瑞香
幕間一 過去の涙と少女の決意
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幕間1‐2 過去の涙と少女の決意(2)

 彼の様子が少しずつ変わってきたのは、首都で学び出してから二年目に突入した頃だった。専門性を高めるために、さらに難しい勉強をしているようで、時折難しい顔をすることが多くなったのだ。

 帰省した時に彼が持っている本を見せてもらったが、字と数字の羅列で、レナリアはまったく判断できなかった。題名すらよくわからない。

「水の歴史の本は何となくわかるけど、水理学とか水環境工学とか、全然わからない」

「レナリアの歳でわかったら、むしろ僕は驚くけどね」

 ファーラデは苦笑しながら本を取り上げる。そして代わりに渡されたのは、首都で流行っている小説本だった。

「これ面白かったから、レナリアにあげるよ」

「本当!? ありがとう!」

 印刷技術が発達し、娯楽本なども村にまで流通しているが、首都に比べて圧倒的に数は少ない。よほど有名な本でなければ、取り寄せなければならなかった。

 嬉しそうに本の表紙を撫でる。ファーラデは優しい目でその様子を眺めていた。

「……背伸びして、まだ現実を見る必要はないんだよ」

「何か言った?」

 きょとんとして顔を上げると、彼は「なんでもない」と言って首を横に振った。そして勉強したいからと言われて、早々に別れを告げられた。

 両家で一緒に夕飯をとるため、今日はまだ話す機会はある。前回の休暇でも四六時中、一緒ではなかった。だから一時的に別れを告げられても、何らおかしくはない。

 けれどもファーラデの陰りを帯びた横顔を見ると、気になって仕方なかった。

 勉強という口実で、もしかしたら意図的に距離を付けられているのかもしれない。



 レナリアが手紙を送ればきちんと返ってくるし、誕生日の際には手紙と一緒に品も贈ってきた。それは昨年と同じだったが、それ以外でファーラデが自らの意志で手紙を寄越すことはなくなっていた。

 まるでレナリア以外に、何か大切なことができたように感じられた。

 ファーラデの隣で、綺麗な女性が並んで歩いている姿が思い浮かんだ。優しくて面倒見のいい少年。首都でそういう女性ができていても、おかしくない。むしろ今までいなかったのが奇跡なのだ。

 レナリアも十二歳になり、胸の膨らみもでてきたが、大人にはほど遠い体である。それでも誰よりも、ファーラデのことは大切に想っている自信はあった。

 彼からもらったペンダントを握りしめ、視線を手紙に落とす。それは長期休暇でないにも関わらず一時帰宅するという、大変珍しい内容のファーラデからの手紙だった。



 手紙が送られてから数週間後、予定よりも一日遅れてファーラデは村に戻ってきた、とある人を連れて。その人は無精ひげを生やした茶髪の男性で、ファーラデと並んで歩くと、かなり違和感があった。話を聞くと首都で学んでいる学校の臨時講師らしい。ソウルス村に興味があり、ついて来たという。

 三十代半ばの男性は、講師というよりもそこらの酒場にいそうな人だった。ファーラデの言葉を疑いたくないが、本当かと疑問符を付けて尋ねそうだった。

 今回の滞在期間は五日と大変短い。さらに調べごとがあるからと言われ、その間ほとんどレナリアは彼と顔を合わすことはなかった。彼の顔がやつれているが、それを問いただす機会すらない。胸騒ぎは徐々に広がっていた。

 少しでも栄養をとってもらおうと思い、野菜を練り込んでいれたクッキーを焼き、それをチャロフ家に持って行くと、彼の母親に謝られた。

「ごめんね、レナリアちゃん。せっかくあの子が帰ってきたのに、まだ一度も出かけていないんでしょう?」

「いいんです。何か事情があって戻ってきたのですから、いる間は彼がしたいことをさせてください。あたしは彼の顔を見られれば、それでいいですから」

「そう……。レナリアちゃんも随分大人になったわね。時々はっとすることがあるもの。もし首都に行くことがあれば、勉強馬鹿なあの子の横で支えてあげてね」

「はい。その前に町の学校に行って、いい成績を出す必要がありますけどね」

 昔からファーラデの横で色々な本を読み、彼に勉強を教えてもらっていたため、レナリアも一般的な十二歳よりはかなり知識量を持っていた。それゆえ次の春から隣町の学校に行かないかという誘いも受けている。もちろん行くつもりだ。迷いなどなかった。

 今回ファーラデが帰省した際、それを報告しようと思った。一緒に喜んでいる姿を想像したが、この状態では無理そうだった。

 彼とまともに会えないまま四日経過した昼半ば、何の予告もなしにファーラデはヴァッサー家を訪れた。店を営んでいる両親は、太陽が昇っている間は帰ってくる気配はない。学校が休みだったレナリアは、家で一人本を読んでいた。

 扉を開けると、扉を掴んだファーラデが立っていた。

「ごめんね、突然……」

「別に構わないけど。調べ物は終わったの?」

「一通り終わった。あとは確認だけ。それをする前に少し顔を出したんだけど、迷惑だった?」

「まさか! とりあえず中に入って、お茶淹れるから」

「え? いや、いいよ。村の喫茶店で――」

「そんな青白い顔のファーラデを他の人に見せたくない。今にも倒れそうで、周りが気を使ってしまうよ。お母さんたちは夕方まで帰ってこないから安心して」

 遠慮の言葉を発せられる前に、レナリアは言葉を叩き込んだ。説得されたファーラデは頭をかきながら家に上がった。

 机を間に挟み、上に昇っていくカップの湯気を見ながら、レナリアたちは他愛のない話をした。だいたいがレナリアの話で、彼は微笑みながら相槌を打ってくれた。

「町の学校に行くんだ……。それはすごいね」

「ありがとう。でもファーラデにはまだかなわない。その学校を首席で卒業したんでしょう? あたしもそうなるよう頑張って、首都に行かないと」

「目標を持つことは大切だけど、あまり肩に力入れては駄目だよ。……首都に行ったからって、幸せになるとは限らないから」

「え?」

 ファーラデは机の上にカップをゆっくり置く。両手を握って、机に視線を落とす。

「僕たちが普段過ごしている日常は、言ってしまえば作られた日常なんだ。幸せに穏やかに暮らしている裏で、誰かが苦しんでいる。それを人々は誤魔化しているんだ」

「どういう意味?」

「たとえば蒸気機関が発明された時、華々しく祝われた人もいた反面、研究がうまくいかずに自殺した人もいるってことだよ」

「つまり全員が必ず成功するわけじゃないってことだよね」

「そうだよ。うまくいくためには、まずはとにかく必死に物事を取り組まなくてはならない」

「ファーラデは成功するために、今、頑張っているんだね」

 ぽつりと呟くと、彼は口元に笑みを浮かべた。

「そうとも見えるね。でも成功するには、もう一つ必要なことがあるんだ」

「何?」

 ファーラデは顔を上げて、レナリアと目を合わした。


「運だよ」


 その言葉をすぐに理解することはできなかった。

 あれだけ勉強をし、日々たゆまず進んでいたにも関わらず、最後は運で一蹴されるなんて――。

「それじゃあ頑張っても報われないことはあるってこと?」

 ファーラデは躊躇うこともなく頷く。

 レナリアはそれを当たり前のように受け止めている彼と世の中に対して、急に腹立たしい思いが吹き上がってきた。

「……理不尽な世の中だと思っただろう」

 諭すような声を出される。レナリアはしっかり首を縦に振った。

「うん」

「これは社会に出ればわかるよ。だからレナリアはまだ知らなくていい」

「どうして!」

「子どもは夢を見なくては、成長できないから」

 そう言って、彼は椅子を引いて立ち上がった。視線が窓の先にある空に向けられる。この時間帯であれば茜色だが、あいにくの曇り空だった。

「レナリア、これから出かけてくる。だからここでお別れだ」

 歩きだそうとしたファーラデを見て、レナリアも立ち上がり、すぐ後ろに付いた。

 彼は振り返ると、レナリアの頭の上に手を乗せて、視線を合わしてきた。昔からよくされることで、かつては心休まる行為だったが、今は胸騒ぎの方が勝っていた。

 必死に止めるが、雲行きが悪い中、彼は行ってしまった。レナリアは少し遅れて、彼を探しに出る。村中を適当に当てを付けて行くが、どこにもいなかった。

 途方に暮れている中で思いついたのが、村の傍にある川の上流だった。彼が先の会話で一回話題に出したのだ。

 すがるような思いで川を横目で見ながら上流に行く。途中で二手に分かれており、そのうちの森に続く川の方を辿っていった。

 そして全身がびしょ濡れになる中、ようやくレナリアはファーラデの姿を見つけることができた。変わり果てた姿を川縁にて。

 レナリアは顔を引きつらせた。

「え? そこにいるのはファーラデ? ファーラデなの!?」

 叫びながらすぐ傍まで駆け寄り、川縁に引っかかっている彼に手を伸ばした。届かない。たとえ届いたとしても、何かの衝撃で体の小さいレナリアも川に落ちて、ともに流されてしまう危険性があった。

 それは様々な面から考えれば明らかなことなのに、レナリアは必死に右手を伸ばしていた。あと少しで届く――そう思った矢先、体を支えるために左手で握っていた川縁部分が崩れた。

「あっ……」

 だが川に落ちる直前、誰かに首後ろの服を握られて、体ごと川から離させられた。ごつい体の茶髪の男性の背中が見える。

「そこにいろ。俺がこいつを引き上げるから」

 男はそう言って、両腕を川につっこんで、ファーラデをゆっくり引き上げてくれた。岸辺に彼が横たえられる。

 レナリアは飛びつき、彼の肩を、そして頬を叩いた。

「ファーラデ。ねえ、ファーラデ! 起きてよ!」

 叫ぶが反応はない。彼の全身が濡れているのを見て、レナリアは自分の上着を脱ぎ、かぶせようとしたが男に止められた。男はファーラデの手首を握っている。

「やめろ、嬢ちゃん。風邪ひくだけだ」

「でも、ファーラデだって、このままじゃ――」

「死人にそんなの必要ない」

 固まるレナリアをよそに、男はファーラデの胸や首に手を当てていく。最後に口に耳を近づけた。

「……もう心臓は止まっている。無理だと思うが、嬢ちゃんのためにも一応人工呼吸してみるか」

 男はレナリアに下がるよう指示をだす。しかしその言葉は耳に入ってこなかった。彼の肩を両手で持って、ひたすら呼びかける。男はその手を無理矢理外して、レナリアに一喝した。

「助けたいのなら、もっと現実を見ろ!」

 びくっと肩を震わすレナリアをよそに、男は人工呼吸を始めた。規則正しく彼の胸を押し、口に息を入れ込む。それを何度も何度も繰り返した。雨はやむ気配はない。全身濡れ鼠になりながらも、男は続けた。

 やがて男は手を離し、ファーラデを見下ろした。

「すまん……」

 その言葉が意味するのは一つだった。

 レナリアはファーラデに顔を近づける。彼の頬を手で触れた。

「ファーラデ……どうして……!」

 そして彼の胸の中に顔を埋めて、むせび泣いた。

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