1‐22 繋がる雨の日の記憶(7)
二人の様子を見ていたベルーンはあっと声を漏らし、手を口元に当てた。
「知らなかったの? 私としたことが思わず喋ってしまったわ」
「ちょっと今の、どういう意味……?」
レナリアが表情を強ばらしたまま言うと、ベルーンは再び顔をこちらに向けた。表情がにやけている。
「レナリア、貴女の過去を調べたと言ったわね。そこでソウルス村出身のファーラデという青年と懇意にしていたという記述が見つけたわ」
「な、なんで、そんなことが……」
顔がさらに強ばった。手が震え、顔が青くなっていく。
「彼、たしか水死よね? 若かったのに可哀想だわ」
思い出したくもない記憶が蘇ってくる。
雨が降っている日に、ファーラデが姿を消し、胸騒ぎがしたレナリアが彼の足取りを追った、あの日――。
動悸が激しくなってくる。胸のあたりをぎゅっと掴んだ。
「あらあら、思い出したくもない記憶? でも事実は伝えないと。行き場のない怒りを発散させるためにね」
ベルーンが一拍間を置いて、はっきりと言った。
「彼を殺したのは、アーシェル・タレス。水を操り、事故の水死のように見せかけて殺したのよ」
声が脳内に反芻していく。
無意識に涙が一筋流れた。
レナリアはベルーンを睨み返す。
「う、嘘よ! あれを何年前だと思っているの!? 六年前よ! アーシェルは十歳くらいじゃない!」
「そうね。でもあの子は歴代の魔法使いの中でも、かなりの能力を持っているの。生まれたときから水を操っていて、十歳程度であっても、人を殺すくらい充分できたわ」
「あの子がそんなことするはずがない!」
「そうかしら。自分を襲ってくる人物を危険だと見なしていれば、彼女だって殺しにでる可能性がある。世の中、子供が年上の人を殺す事例はいくらでもあるわ」
「ファーラデは危険な人なんかじゃない! あの人は優しくて、いい人で、私にもよくしてくれて……」
涙を拭うが、止まらなかった。
ベルーンは肩をすくめて、後ろに視線をちらりと向けた。
「――レナリア、アーシェルの顔を見なさい。それがすべてを物語っているわ」
その言葉に従って、おそるおそるレナリアは顔を上げる。
アーシェルは目をそらし、ナイフを持った腕をだらりと下げ、両手を握りしめていた。今にも泣きそうだった。そして小さく呟かれる。
「ごめん……なさい……」
彼女の声を聞いて、レナリアが保ってきた緊張が一気に崩れた。その場に両膝を付け、力ない姿で、アーシェルをぼんやり眺める。
「嘘でしょ……?」
銀髪の少女は黙ったままだ。
「嘘って言ってよ……。何を馬鹿なこと言っているの、この女はって言ってよ!」
アーシェルは目に涙をためて、視線を合わせてきた。
「ごめんなさい。不可抗力とはいえ、私はその人のことを――」
ファーラデの顔が次々と浮かび上がってくる。
笑っている顔、怒っている顔、泣いている顔、喜んでいる顔、そして――もう動かない瞳を閉じた顔を――。
レナリアは両手を地面につき、視線を下に向けた。
止めどなく涙が地面に落ちていく。
止めたかったけど、止まらなかった。
アーシェルと過ごした穏やかな日々まで脳裏をよぎっていく。
彼を殺した人と、共に過ごしていた?
もしかしたら、あの出来事がすべて偽りだった――?
そんな事実――信じたくない。
思考を停止するために、ただ思いに任せて泣くしかなかった。銃口が離れたのもまったく気づかずに。
「簡単に折れたわ、この女」
ベルーンはレナリアから銃口を離す。彼女はうつむきながら、泣き、声を上げ、首を横に振っていた。
テウスが剣を抜こうとすると、ベルーンはすぐさまキストンがいる方角に銃口を向けた。
「変なことしたら、あっちの男を殺すわ」
アーシェルはぎりっと歯をかみしめた。
「お仲間がたくさんできてよかったわね。でもそれは同時に弱みも多くなるのよ、お嬢さん。――さて、私たちについてきてくれるわよね?」
ナイフを落とし、アーシェルが首を縦に振ろうとすると、テウスが腕を広げて制してきた。
「テウス?」
「俺はアーシェル様を護るのが任務だ。他の奴がどうなろうとも、彼女だけは渡さない」
ベルーンは髪をかきあげ、妖艶な笑みを浮かべた。
「そうだったわね、貴方は。だからいい相手を用意しておいたわ。そいつに勝てたら私に挑みに来なさい」
すぐ背後で殺気を感じた。アーシェルが振り返る前に、テウスに押されて横に倒れ込んだ。
アーシェルがいた場所に、剣が横切っていく。
薄金色の髪の青年が無情な表情で、剣を抜いたテウスと鍔迫り合いを始めていた。
「凄腕の剣士との交戦。不足ないでしょう? 存分に楽しみなさい。――さあ、アーシェル・タレス、こちらにいらっしゃい」
笑みを浮かべるベルーン。もはやこちらに抵抗する術はない。
初めからレナリアたちに迷惑をかけるくらいなら、自ら敵側の手に墜ちようと思っていた。捕まる可能性の方が、遙かに高い旅だったから、ある程度は覚悟していたのだ。
だが命を懸けてまで護ると言ったテウスや、優しく接してくれたキストン、そして傷つけてしまったレナリアを置いていくのには非常に抵抗があった。
ベルーンの元に寄り、彼女に深い青色の瞳で見据えた。
「三人には手を出さないで」
「そうねぇ、どうしようかしら」
ふふっと笑う姿を見て、アーシェルは抑えていた力を解放しかけていた。冷気が周囲を包み、部ルーンの服に霜が生えていく。それを見た彼女は首を横に振った。
「冗談よ。まだ死にたくないわ。貴女が本気を出せば、この町を凍らすくらいできるんでしょう?」
「それは極端な話ですね。さすがにここまで大規模なのは、できるかわかりません。周囲にいる人なら力を暴走させずに殺せますよ」
殺気を包み隠さずに言う。ベルーンはアーシェルの顎を軽く持ちあげ、じっくり見てきた。
「可愛い顔をして、怖いことを平然と言うなんて。貴女はやっぱり魔法使いではなく、魔女ね」
「否定はしません。人々から忌み嫌われて追われた魔法使い、むしろ魔女と言った方がふさわしいでしょうね」
自嘲気味に言葉をこぼす。こんなことをいったら、レナリアに何か言われるか、抱きしめられるだろう。
今までひっそり暮らしながら、時には追っ手から逃げたり、捕まったときは仕方なく力を貸していた。また、己に流れる血を恨みもしながら、日々過ごしていた。
だがここ数週間はどうだろう。自分のことを言わなかったのもあるが、レナリアたちと共に普通の旅を味わうことができた。それは今までの人生の中では、なかったことだった。
「ベルーン、三人には手を出さないと、約束しなさい」
幸せな時を過ごさせてくれた彼女らに対し、最後にアーシェルができることだった。
ベルーンはアーシェルを見返した後に、息を吐き出した。
「……わかったわ。あちらが何もしなければ、こちらから手を出さない。それでいいでしょう? 勝手にくってかかっている、あの黒髪の男は現時点で別だけれども」
「テウスは言うことを聞かないから……」
主人の言うことを聞かない、有り難くも、迷惑な護衛だった。
「こんなところで長話をしていないで、行きましょうか、魔法使い様。貴女を待ちわびている人がたくさんいるわ。貴女の力があれば、この国は救われるわよ」
「……その台詞は聞き飽きたわ」
アーシェルの力を求めていたものは、誰もがその言葉を発していた。人をも殺せる力を持っている少女に対しては、ただの偽善の言葉でしかなかった。
ベルーンが二人の青年に背中を向けて歩き出す。アーシェルもその背を追いかけて、水たまりに靴をつっこみながら、進んでいく。
「アーシェル様!」
必死に呼び止める、テウスの声が聞こえてくる。振り返って、大切に接してくれている彼の元に走り寄りたかった。
しかしそれをすれば、ベルーンという女は容赦なくキストンの頭を撃ち抜くだろう。彼らに最後の挨拶をしたかったが、それすら叶わなかった。
俯きながら進んでいくと、ちょうど空間の狭間にさしかかった。ベルーンが振り向き、アーシェルの手を引っ張って、その空間の外に押し出そうとする。
最後に背後に視線を向け、地面に顔を向けている藍色の髪の少女に向かって、小さく呟いた。
「さようなら、レナリアさん」
すぐ傍で剣と剣が交じり合う音が聞こえる。テウスの叫び、カーンの静かな声も耳に入ってきた。だがレナリアは、彼らの声がする方に振り向けなかった。
さらに銀髪の少女が連れ去られていくのを、見届けることさえできなかった。
おそらく事情があって、アーシェルはファーラデに手をかけた。彼のことをすべて知っているわけではないため、殺されるにも相応の理由があったのかもしれない。
そう理性ではわかっていても、気持ちが追いつかなかった。
苦しく切ない想いが、奔流になっていく。
死んでしまった人を悼んでも何も戻らないのに、今生きている彼女を追いかけられなかった。
「なんなのよ、この運命の巡り合わせ……!」
地面に拳を叩きつける。
気がつけば周囲の喧噪は静まり、雨の音が鮮明に聞こえてきた。雨に打たれた地面を歩いてくる足音が、すぐ傍で聞こえてくる。ゆっくり顔を上げると、血を滴らせた剣を持った薄金髪の青年が目の前に立っていた。
「惨めだな、レナリア」
「カーン……」
「ベルーンにお前のことを話したのは悪かったと思っている。だがまさかここまで崩れ落ちるとは思わなかった。そんなに大切な奴だったのか?」
「幼い頃の私に多大な影響を与えた人だった。貴方だって、そういう人いるでしょう……」
問いかけるが彼は答えなかった。そしてベルーンと同様に、堂々と背を向けて歩き出す。
「もう会うこともないだろうが、もし再び会うことがあれば、その時は過去の亡霊でなく、生きている人間を支えにしろ」
そしてカーンは振り返ることなく、レナリアの前から去っていった。
雨が激しく全身を叩きつけていく。
空間の歪みが消えると、ムッタがテウスの名を叫びながら家の中から出てきた。
レナリアはぼんやりと背後を振り返ると、黒髪の青年が真っ赤な血を流しながら濡れた地面の上に倒れ伏していた。
彼は苦悶の表情を浮かべていたが、意識ははっきりしていたのか、草を固く握りしめていた。
「アーシェル様……!」
悲痛にも似た小さな声が、レナリアの耳の中に入ってくる。護衛としての責務を果たせなかった、彼の心の底からの言葉だった。
レナリアは真っ黒い雲に覆われた空を見上げた。
大粒の雨が降り、レナリアを叩きつける。
それは過去の忌々しい記憶を呼び起こさせる雨となっていた。
第一章 流れゆく首都への旅 了