19 イリスの願い
長い耳のついた謎の毛玉。イリスはこの毛玉が可愛がっていたウサギだと言う。
「ウ、ウサギ……これが……?」
どうみても目の前の毛玉はちょっとウサギの耳っぽいのがついた巨大な黒い毛玉だ。
こんな禍々しいウサギがいていいはずがない!
毛玉はぎょろりとあたりを見回すようなしぐさを見せると、一歩前へと踏み出した。その途端、取り囲んでいた魔術師の一人が短く呪文を唱え、毛玉に向かって火球を放った。
「やめて!!」
イリスの悲痛な叫びもむなしく火球は毛玉に直撃した。ウサギの毛がちりちりと燃え上がる。
イリスには悪いが、俺はこれで片が付いたと少しだけ安心した。でも、それは大きな間違いだった。
突如、目の前の毛玉は地を這うような唸り声をあげると毛をぶわっと逆立たせた。その途端毛玉についていた火は消え、毛玉の体から黒い煙のようなものが溢れだす。
「うわっ! なんだこれ!!」
俺の方にもやってきた煙を思わず手で振り払う。
意外にもあっさり煙は霧散したが、その時に初めて周りの状況に気が付いて俺は絶句した。
毛玉を取り囲んでいた何人もの魔術師たちが倒れている。中には膝をついている人もいるが、どうみても戦える状況じゃない。
いったい何があったんだ!?
「うっ、く……」
すぐ横から苦しげな声が聞こえて、俺は慌ててそちらに意識を戻した。
そこには倒れてこそいないが、息を荒げて胸のあたりを押さえるフィオナさんがいた。
「フィオナさん! しっかりしてください!!」
慌てて体を支えると、彼女は苦しげに俺を見上げた。
「あ、んた……平気、なの……?」
「え? あ、はい……」
俺は特にどこも異常はない。
何だろう、さっきの煙みたいなのを振り払ったのが良かったんだろうか。
「これ、毒とかですか!?」
こんなに短時間で人がばたばたと取れるなんてそうとしか思えない。
だが、フィオナさんは弱々しく首を横に振ると押し殺したような声で告げた。
「こんなに……瘴気がまき散らされてるっていうのにっ、よく平気でいられるわね!!」
フィオナさんはいらいらとした口調でそう吐き出すと、ぎろりと毛玉を睨み付けた。
「瘴気……?」
そういえば、前にテオからそんな話を聞いたことがあった。
確か、動物が瘴気に当たりすぎると魔物のように変異したりすることがある……みたいな話だった気がする。
そうすると、目の前のこの毛玉も本当にイリスが可愛がっていたウサギが変異したものなのか?
「お、おねがい……レーテを助けて……」
俺の後ろにいたイリスが震えた声でそう懇願する。だが、フィオナさんはじっとイリスを見据えると至極冷静に告げた。
「無理よ、諦めなさい」
「そんなっ!!」
イリスはなおもフィオナさんに食い下がろうとしたが、俺が止めた。
たぶんこの場で一番冷静なのはフィオナさんだと思ったからだ。
フィオナさんはふらつきながらも立ち上がると、巨大な毛玉に向けて杖を向けた。
「こうなってしまった以上魔物と同じよ。……私がやるから、下がってなさい」
「やめてよ!!」
イリスは手を伸ばしてフィオナさんを止めとしたが、俺は力ずくでイリスを抑えると二、三歩下がらせた。
「何するの! 離してよ!!」
「イリス! 危ないからじっとしてろ!!」
イリスは俺の腕から抜け出そうと無茶苦茶に暴れはじめた。イリスが振り回す手足が当たって痛い。
でも、いくら痛くても離すわけにはいかない!
「もうあいつはお前の飼ってたウサギじゃないんだよ!」
「何でそんなこと言うの!? レーテはレーテだもん!!」
少し離れた所で、フィオナさんが毛玉に向かって何かを投げつけたのが見えた。
おそらくあの攻撃用の魔法道具だ。魔物を一瞬で追い払ったあの道具なら、さすがにあの毛玉も無傷ではすまないだろう。
「やめて! レーテ!!」
イリスがひときわ大きく叫び、彼女の爪が俺の腕に食い込む。
その途端、俺の頭の中に知らない光景が流れ込んできた。
◇◇◇
『あれ、一人なの?』
目の前にはちょこん、とかわいらしい小さなウサギが鎮座していた。
随分と地面が近い。どうやら屈んでいるようだ。
小さな手がウサギの方へと伸ばされる。そっとウサギの体を撫でると、もふもふとした感触が伝わってきた。
ウサギは驚いているのか安心しているのか、まったく逃げる気配を見せない。
そっと抱き上げると温かな体温が伝わってくる。
生きている証だ。
『家族とはぐれちゃったのかな……私と同じだね』
さすがに言葉を理解しているわけではないだろうが、ウサギはつぶらな瞳で俺を見つめ返してきた。
……いや、俺じゃない。この声の持ち主で今ウサギを抱いている少女――イリスを、だ。
『でも大丈夫! 私がいるからさみしくないよ!!……そうだ! 今日からは私が君のお姉ちゃんになったげる!』
優しくウサギの頭を撫でると、ウサギは嬉しそうに鼻を摺り寄せてきた。
言葉はわからなくてもイリスの気持ちは伝わったのかもしれない。
もしかすると、イリスの言った通りこのウサギも仲間とはぐれてさびしい思いをしていたのかもしれない。
『名前は……そう、レーテ! 今日から君はレーテだよ! ほんとのレーテはお姉ちゃんだけど、君にとっては私の方がお姉ちゃんだから忘れないでね!!』
幼い少女のつたない遊びだ。でも、俺にはイリスの思いが痛いほど伝わってきた。
唯一の家族である姉と離れ離れになって寂しくないわけがない。そんな中で現れたウサギのレーテは、きっとイリスにとっては強い心の支えだったんだろう。
そんな相手が目の前で殺されようとしているんだ。イリスだって正気ではいられないだろう。
俺だって、方法さえあればなんとか助けてあげたい。でも、どうすれば……
(大丈夫、知ってるでしょう?)
不意に、頭の中に声が響いた。それと同時に、見覚えのある光景が見えた。
これは以前見たあの変な女性の夢だ。
獣と戦う二人の男、獣を貫く光。そして……
『大地を護りし神々よ……悪しき業を打ち砕き、無垢なる咎人に救済を……。“浄罪の祈り”』
呪文を唱えた途端、獣の体にまとわりついていた黒い煙のようなものが霧散する。
そうだ、これは……!
そこまで考えたところで、大きな爆発音が響いて俺の意識は強制的に現実に引き戻された。
見ればあの毛玉が宙に舞いあがり、どさりと地面に落ちたところだった。フィオナさんの魔法道具が発動したんだろう。
俺の腕に爪を立てたままだったイリスが悲痛な声をあげた。
どうやら俺が意識を飛ばしていたのはほんの一、二秒だったようだ。
「これで……片が付けば……」
相変わらず苦しそうに息を荒げたフィオナさんが苦々しくそう呟いたが、俺たちの見守る前で黒い毛玉はぴくり、と動いた。。
とどめをさしきれていなかったようだ。
こうなったら、もうやるしかない!
「フィオナさん! 俺に任せてください!!」
多少乱暴にイリスを解放すると、俺は黒い毛玉めがけて一直線に走り出した。
フィオナさんが何やら驚いたような声を上げたがそれに構っている時間はない。
あの黒い毛玉が動けるようになるまでに決着を付けなければ!
「大地を護りし神々よ……」
頭の中に残る呪文を唱える。夢の中に出てきた女性は瘴気に侵された獣と戦い、見事に獣に取りついた闇を打ち砕いていた。
俺にも同じことができればこのウサギを救えるはずだ!
「悪しき業を打ち砕き、無垢なる咎人に救済を……」
目の前の毛玉はゆっくりと起き上がろうとしている。単純なはずの呪文が随分と長く感じられる。
駄目だ、ここで焦ってはいけない。確実に、こいつを浄化しなければたぶん俺の命はない!!
「……“浄罪の祈り!!”」
やっと完成した呪文を毛玉に向かって放つ。
淡い光が毛玉を包み込み、毛玉にとりついている瘴気が少しずつ消えていく。
思ったよりもあっさりうまくいったようだ!
「よし、このまま……うわっ!」
瘴気が完全に消える、と思った瞬間、毛玉の中からぶわりと黒い霧が溢れ急に毛玉は暴れ出した。
ぎょろり、黒く濁った瞳が俺を捕えたのがはっきりと分かった。
あ、ヤバい、と思った次の瞬間には、毛玉は俺に向かって突進してきていた。
やばい、潰される! と思わず目を瞑った瞬間、俺の背後から凛とした声が聞こえた。
「レーテ、やめてっ!!」
覚悟していた衝撃は訪れない。おそるおそる目を開くと、俺の目の前で毛玉は止まっていた。
その目は俺ではなく、俺の背後を見ている。
そっと振り返ると、そこには思った通りにイリスが立っていた。目の前にこんな化け物みたいなのがいるというのに、イリスは少しも怖がる様子はない。
「ねぇ、わかるでしょ? 私だよ、お姉ちゃんだよ!!」
イリスはにっこりと笑うと、そっと毛玉にむかって手を伸ばした。




