ミルターナ小紀行(8)
走り去る足音が消えても、俺は呆然と目の前の扉を見つめることしかできなかった。
「なんだよ、それ……」
恋人同士のように振舞うのはやめよう?
それって……
「っ……!」
思わず手で口を押さえる。
まさか、そんなはずはない……という思いが頭の中でぐるぐると廻っている。
『あなたのことが好きです。たった一人の相手として、あなたを愛してる』
あいつは、確かにあの時ああ言ってくれた。
俺のことを誰よりも大事にしてるとも。
でも、その思いが変わってしまったとしたら?
……俺がべたべたしたり、馴れ馴れしくくっついたりするのを不愉快に思っていたのだろうか。
──恋人同士のように振る舞うのをやめろ
さっきの言葉は、もう俺のことなんて好きじゃないという意味だったのだろうか。
「やだ……」
嫌だ。そんなの嫌だ。
混乱して、心がぐちゃぐちゃになって、泣きだしそうになったその時だった。
(馬鹿! そんなんで諦めてどうすんのよ!!)
確かに、俺の“内側”からそう声が聞こえたのだ。
「……アンジェリカ?」
問いかけても、返事は声ってこなかった。
でも、わかったんだ。
今のは、アンジェリカが俺に喝を入れてくれたんだって。
「そっか、そうだよな……」
ぱん!と頬を叩き気合を入れなおす。
あいつの言葉にどんな意味があったのかはわからない。本当に、俺のことなんて好きじゃなくなったのかもしれない。
でも……それだけで諦めるわけにはいかないんだ。
俺のことを好きじゃなくなったなら、もう一度好きになってほしい。
だから、一度ちゃんとヴォルフの意思を確かめなければいけない。
「……よし!」
本当は怖い。すごく怖い。
でも、このままだとどんどん良くない方向にことが進んでいく気がする。
震える手で扉を開け、ヴォルフの後を追うようにして俺も外へと飛び出した。
しかし、宿を出てさっそく俺は困ってしまった。
ヴォルフはどこに行ったんだろう。
とりあえずきょろきょろとあたりを見回し、そこでふいにくらっと眩暈がするような感覚に襲われる。
神経を直に刺激するような強烈な匂いが、どこからか漂ってきている。
「ヴォルフ……?」
頭がくらくらする。
その匂いに引き寄せられるようにして、自分でも意識しないうちにふらふらと歩きだしていた。
……どのくらい歩いたのだろう。
気が付いたら、人気のない路地裏に立っていた。
ここが、匂いの発生源のようだ。
「……香炉?」
路地裏の片隅で、場違いな香炉が焚かれていた。
引き寄せられるように屈みこんだ瞬間、背後からじゃり、と地面を踏みしめる音が聞こえた。
ヴォルフかと思い振り返り、そこで俺は息をのんだ。
「いけませんねぇ、クリスさん」
退路を塞ぐようにして立っていたのは、俺も知っている奴だった。
「エヴァルド……」
そこには、昼間会ったばかりのエヴァルドが怪しげな笑みを浮かべて立っていたのだ。
その途端、くらくらしていた思考が冷や水を浴びせられたかのように正常さを取り戻す。
……こんな路地裏で香炉が焚かれているのはおかしい。エヴァルドが偶然通りかかったとも思えない。
エヴァルドは、何をしようとしている……?
エヴァルドがゆっくりとこちらへと近づいてくる。
なんとか誤魔化そうと、立ち上がり大きく息を吸う。
「……何やってるんだ、こんなところで」
「これも仕事ですよ」
エヴァルドは落ち着いた手つきで香炉を拾うと、俺の目の前に掲げて見せた。
「これは特別な香りでしてね……普通の人にとってはほとんど感じられない匂いなのです」
「え……」
こんなに、頭がおかしくなるほどの香りをまき散らしているのに、普通の人にとっては感じられない……?
驚く俺に、エヴァルドはにやりと口角を上げた。
「この匂いを強く感知できるのは、魔の者……例えば、吸血鬼」
「っ……!」
思わず一歩後ずさってしまう。
だが、エヴァルドは驚くでもなく更に俺の方へと近づいてきた。
「クリスさん。昼間……嘘を、ついたでしょう」
「な、なに言って……」
「だって……」
エヴァルドが手を伸ばしてくる。
振り払おうとしたが、体が動かなかった。
そのまま、エヴァルドは俺が首にはめていたチョーカーの紐をほどいた。
しゅるり、と紐が解かれ、チョーカーが地面に落ちる。
逃げなきゃ。そうわかっているのに、なぜだか体が動かない。
エヴァルドの視線がどこへむいているのか、はっきりとわかった。
やがて彼は指を伸ばし、俺の首元をなぞった。
はっきりと残る、真新しい吸血痕を。
「っぁ……!」
「やはり、染められているか……」
彼にもわかったのだろう。
俺が今でも、ヴォルフも近くにいるってことが。
「残念ですよ、クリスさん……でも」
エヴァルドが俺の腕を掴む。そして、鼻先へ香炉を押し付けられた。
「っ、んあぁ……!」
くらりと強烈な匂いに、一瞬で体が燃えるように熱くなる。
体に力が入らずに、その場に崩れ落ちてしまう。
「すぐに、浄化して差し上げますから」
エヴァルドの昏い笑みが見えたのを最後に、俺の意識は闇へと飲まれていった。
◇◇◇
ふと鼻先を掠めた匂いに、ふらふらとあてもなく彷徨っていたヴォルフは思わず立ち止まった。
強く本能へ働き掛けるような、特別な匂い。
……この世界のものとは、一線を画すものだ。
「なんだ……?」
近くに他の魔族でもいるのだろうか。
ミラージュに近づかれたときに、時折同じような匂いを感じるようなことがった。
だが、明らかにこれは強すぎる。
……きっと、罠だ。
気を抜けば引き寄せられそうになるのをなんとか抑える。
だが、いったい誰がこんなことをしているのだろう。
自分を狙ったものだとすれば、その正体を確かめねばならない。警戒心を持ちつつ、ヴォルフは匂いの発生源へ向かって歩き出した。
不思議なことに、だんだんと匂いは薄まっていくようだった。
遠ざかっているわけではない。発生源がなくなったのだろう。
それでも、少しずつ近づきつつある。
そして、その場所へとたどり着いた。
あたりに誰の気配もないことを確認しつつ、ヴォルフはゆっくりとその場所へと近づいた。
何の変哲もない、行き止まりの路地裏だ。
だが、ここが匂いの発生源だったことは間違いないだろう。
その時、何かが視界を掠めた。
無意識にそちらに視線をやり、ヴォルフは心臓が止まるかと思った。
そこには、クリスのチョーカーが落ちていた。
クリスは普段吸血の痕を隠すために、首元を隠すような服を着るか、そうでなければチョーカーをはめている。
そのチョーカーは、確かに宿に戻った時にクリスがはめていたのと同じものだ。
……そんなはずはない。クリスは、今も宿屋にいるはずだ。
拾い上げようとした時、その下に何かが置かれているのに気が付いた。
それは、小さくたたまれた紙だった。
震える手で紙を開く。そこには、たった一言記されていた。
『街はずれの廃教会に来い』
誰が書いたのかはわからない。
だが、ヴォルフに宛てたものだということははっきりとわかった。
そっとチョーカーに鼻先を押し付ける。そこからは、かすかに嗅ぎなれたクリスの香りがした。
「ふざけやがって……!」
クリスは何者かに拐かされた。
その事実に、一瞬で血が沸騰しそうになるほどの怒りが湧き上がってくる。
……迂闊だった。いくらクリスを自由にしたいと思っていても、クリスから離れるべきではなかった。
たとえクリスがどう思っていようが、ヴォルフはクリスを守らなければならないのに……!
どう考えてもこれは罠だ。
手紙を残した何者かはヴォルフが吸血鬼だとわかったうえで、廃教会で待ち構えているのだろう。
それでも、行かないという選択肢はなかった。
「クリスさん……」
愛する人の無事だけを祈って、ヴォルフは宵闇へと姿を消した。
クンカクンカしつつの緊迫パートです!
 




