欲望渦巻く聖恋祭!(当日・ティレーネ編)
「……ううぅぅ」
ティレーネはじっと手元の箱を見つめていた。
現在、この家にいるのはティレーネ一人だ。
イリスは大学へと遊びに行っており、レーテは仕事に出ている。
だが、そろそろレーテが帰宅する頃だろう。
今日は聖恋祭当日だ。「私は学問一筋であってそんな浮ついた行事に興味はない。……別に、貰えないから僻んでいるわけではないっ!」などと一人でわめいているタイプの魔術師が多いこの島でも、普段よりも浮ついた空気が感じられた。
レーテにはもう聖恋祭の為にチョコを作ったのが知られている。渡さないのも逆に不自然だろう。
迷っているうちにこんな時間になってしまった。もう、買いに行く時間も作り直す時間はない。
……いや、そんなのは言い訳だ。
何かと理由をつけて、ティレーネはレーテにこのチョコを渡そうとしているのだ。
惚れ薬入りの、手作りチョコレートを。
「やっぱり駄目よ……!」
薬の力で人の心を手に入れようなんて間違っている。
だが、ティレーネはそんな悪魔の誘惑に負けそうになっていた。
『別にいいじゃない。数日だけでも見たくない? 相手が心底自分に惚れてる夢を』
『数日の努力次第では一時のまやかし永遠になるかもしれない。………いいじゃない。どんな手でも使った者勝ちよ』
ミラージュの言葉が頭から離れない。
レーテが帰ってくれば、イリスが戻ってくるまでは二人っきりになる。
その間にチョコを食べさせれば、薬の力でレーテはティレーネの虜になる。
「……うぅ」
その誘惑がどうして振り切れない。
例えまやかしの愛情だとしても、渇望する心を止められない。
レーテはどんなふうに愛をささやくのだろう。ティレーネのことを優しく抱きしめてくれたりするのだろうか。
つい先日、クリスにしていたように……
「っ……!」
その光景を思い出すと、心の奥底から嫉妬が渦巻いてくる。
この島に来てからのレーテのティレーネに対する態度はよく言えば丁寧、悪く言えば腫れ物に触るようなものだった。
優しくされているのは間違いない。いや、気を遣われているというべきだろうか。
妹のイリスや、クリスのように遠慮のない関係ではないのだ。
レーテはティレーネを愛しているのではない。ただ罪悪感や同情から、ティレーネの面倒を見ているに過ぎない。
クリスが羨ましい。ティレーネだって、あんな風にレーテと何でも遠慮なく言い合えるような関係になりたかった。
レーテが与えてくれるものなら、たとえそれがパイルドライバーであってもティレーネにとっては羨望の対象だ。
このチョコを渡せば、レーテはあんな風にティレーネを愛してくれるのだろうか……。
ごくりと唾を飲みこんだ瞬間、家の鍵が開く音がした。
「ただいま」
もうレーテが帰ってきてしまった。
震える手で目の前の机にチョコを置き立ち上がる。
「おかえりなさい、レーテさん」
「ただいま、ティレーネ。イリスはいないのか?」
「えぇ、大学に出かけると言ってました」
「……また馬鹿な事やらかさないといいんだけど」
レーテはちらりと机の上のチョコに目をやったが何も言わなかった。
あえて、何も言わずに何かを待っているようにも見えた。
……今がチャンスだ。このまま、自然にチョコを渡してしまえばいい。
作ったことは知られているのだしなにもおかしくはない。「みなさんと作りましたのでどうぞ」とでも言って渡してしまえばいいんだ……!
自然と手が震える。ぎゅっと拳を握りしめて、ティレーネは決死の覚悟で口を開いた。
「あっ、あの……このチョコなんですけどっ!」
チョコを手に取ると、力一杯レーテに差し出した。
後ろめたさから顔が見られなくて、俯きつつ言葉を絞り出す。
「み、みなさんと作りましたので、よかったら召し上がってくださいっ!」
レーテがチョコを手に取ったのが分かった。反応が怖くて、ティレーネは下を向いてぎゅっと目を瞑っていた。
「……ティレーネ」
落ち着いたレーテの声がする。おそるおそる顔を上げると、レーテと目が合ってしまった。
レーテは、心底嬉しくてたまらない、といった表情を浮かべていたのだ。
「ありがとう、嬉しいよ……!」
レーテは珍しく興奮した様子で手に取ったチョコを眺めている。ティレーネは思わず戸惑ってしまった。
「開けてもいいかい?」
「は、はいっ……!」
レーテが丁重な手つきでラッピングをほどき、中の箱を開けチョコレートを手に取る。
「……すごいな、ティレーネは。今すぐ食べてもいいかい?」
その言葉に、ティレーネは息を飲んだ。
ここにいるのはレーテとティレーネの二人だけだ。今レーテがチョコを口にすれば、好きになる相手はティレーネしかありえない。
……まさか、こんなにうまくいくなんて!
「えぇ、もちろん。みなさんと味見しましたけどレーテさんのお口に合うかどうか……」
口が勝手に言葉を紡いでいた。
だが、レーテに不振がる様子はない。嬉しそうに、チョコを食べようとしている。
そう、レーテは全く疑っていないのだ。
ティレーネが、薬を用いて自身の心を操ろうとしているなんて――
レーテがチョコを掴み、口に入れようとする。
もうすぐ、
惚れ薬が――
「…………っ! だめー!!」
気が付いた時には、口に入れる寸前だったチョコを、レーテの手からひったくっていた。
「ソイヤッ!!」
「うわぁ!」
勢いよくチョコを床に叩きつける。
チョコは無残にも割れて砕けてしまった。
……まるで、ティレーネの心のように。
「ティレーネ、どうしたんだ!?」
「うぅ……」
ティレーネはその場に崩れ落ちた。そして、そのまま床に頭をこすりつける。
「お許しくださいレーテ様! 私は……また罪を犯そうとしていました!」
「えぇ……?」
自分は大馬鹿だ。世界にあれだけのことをしておいて、今また大きな過ちを侵してしまうところだった……!
「私は……あのチョコに惚れ薬が入っていると知りながら、レーテ様に食べさせようとしたんです!」
「は? 惚れ薬……?」
「うぅ……やはり私のような罪人は存在してはいけないんだわ……!」
「待て待て! 落ち着けティレーネ!!」
近くにあったフォークで喉を突こうとしたが、慌てた様子のレーテに止められてしまった。
「惚れ薬って……なんでそんなことしたんだ?」
「私は、どうしてもあなたの心が欲しくて……」
「……え? ティレーネ、それは……」
レーテは驚いたようにティレーネを凝視している。
二人の視線が絡まり合う。
そして、レーテが何か言おうと口を開いた次の瞬間――
大きな音を立てて家の戸が勢いよく開いた。
「たっだいまー! ねぇ聞いて!! モテなさそうな野郎どもの研究室に行って『このチョコ欲しいひとー?』ってやったら……って」
やたらと嬉しそうな様子で帰ってきたのは、レーテの妹のイリスだった。
勢いよく部屋へと突入したイリスは、部屋の惨状を見て固まった。
「何やってんの!? レーテ、まさかティレーネさんがくれたチョコ落としたの!?」
イリスは信じられないといった様子で床に落ちたチョコを見ている。
どうやらこの状況を見て勘違いしてしまったようだ。
……違う、レーテは何も悪くない。
ティレーネはそう伝えようとしたが、それよりも先にレーテが口を開いた。
「あぁ、嬉しすぎて踊ってたら落としたんだ」
「しんじられなーい! レーテの馬鹿! 女の敵!!」
イリスは誤解したままきゃんきゃんとわめいている。
だが、すぐににやりと悪戯っぽく笑う。
「……まぁしかたないなー。私の余ったのあげるからみんなで食べようよ! ティレーネさんも!」
「あぁ、ありがとう。ボクはやさしい妹を持って幸せだな」
「棒読みで言われても嬉しくなーい!」
なんだかんだ言いながら、イリスはお茶を淹れにかキッチンへと走って行った。
ティレーネがおそるおそる顔を上げると、どこか困ったように笑ったレーテと目が合う。
「ティレーネ、君のしたことは、その……正直コメントに困るけど……。君がそこまでボクのことを思っていてくれたことは嬉しい。これは本当だよ」
「レーテ、さん……」
あぁ、こんなに罪深いティレーネをレーテは許そうとしている。
思わず涙が溢れそうになった。
――不相応なほどに、私は幸せだ。
「あー! レーテがティレーネさん泣かせたー!! 女の敵!」
「……ボクも元々は女なんだけどな……!」
姉妹……いや、兄妹のやり取りを聞きながら、ティレーネはそっと涙を拭った。




