2 女神の密談
『拝啓 マグノリア先生
突如このような手紙を出すことをお許しください。
本当は直接会って伝えたかったのですが、どうも難しい事態となってしまいました。
いろいろあったけど、俺は元気です。父さんと母さんも元気です。
どこに行くのかは書けませんが、家族そろって引っ越しをすることにしました。
先生にはたくさん迷惑をかけると思いますが、教会の人が来てもクリスの居場所は知らない、と答えてもらえると助かります。
落ち着いたらまた手紙を出します。
俺が今こうしてここにいるのは、先生のおかげという事をひしひしと感じています。
何が起こるかわからない世の中ですが、心穏やかにお過ごしください。
変わらない親愛を込めて クリス・ビアンキ』
こっそりと手紙を読み返して、修道女――マグノリアは微笑んだ。
走り書きのようなその手紙は、少し前にとある少女がマグノリアの元へと届けてくれたものだ。
以前一度だけこの教会を訪れた事のある金髪の少女は、上ずった声で「とある方から預かって参りましたっ!」と言うと逃げるように去ってしまった。
ぽかん、としながらその手紙を受け取ったマグノリアは中を見て驚いた。
その手紙はマグノリアの教え子であり、今の時の人となっている少年「クリス・ビアンキ」からのものだったからだ。
――勇者クリスが邪神ルディスを打ち倒した
あの暗雲を晴らす虹の奇跡が起こった少し後から、王都を中心にまことしやかにそんな噂が流れ始めたようだ。
最も辺境のこの地域では知る由もなく、王都から遣わされたというティエラ教会の使者に直接話を聞いて、マグノリアも初めてそんな話を知ったのだが。
ところが、教会の使者がクリスの故郷であるリグリア村を訪れたところ、クリスとその家族は少し前に村を出て行った、という話が村人から聞けただけだったらしい。
それからも教会は必死に「勇者クリス」を探しており、マグノリアの元にも何度か使者が訪れたが、そもそもマグノリアもクリスがどこにいるのかを知らないのだ。
答えられるはずがなかった。
クリスがどこにいるのかはわからない。
だが、この手紙を読む限り彼も彼の家族も元気にしているようだ。
案外照れ屋な所があるクリスは、世界を救った英雄として扱われるのに耐えられなかったのかもしれない。
教会の使者にはクリスからの手紙については話していない。
これは、マグノリアとクリスだけの秘密だ。
心が温かくなるのを感じながらマグノリアが丁重に手紙を仕舞ったその時だった。
マグノリアの管理する教会の扉が、重い音を立てて開いた。
入って来たのは、男と幼い少女の二人連れだ。
男の方は三十代ほどで、黒い髪を持ち、全身に黒い衣服を纏っている。少し威圧感を与えるような顔つきをしている。
少女の方はまだ4、5才ほどで、男と同じく黒い髪に浅黄色のワンピースを身につけていた。
親子のように見えるが、この町の住人ではない。
最近多い、「勇者クリス」を一目見ようと訪れた観光客だろうか。
何であれ教会を訪れた者を無下に扱う訳にはいかない。マグノリアはそっと立ち上がり、二人へと近づいた。
「こんにちは、よくぞいらっしゃいましたね」
優しく声を掛けると、男もマグノリアを見て表情を緩めた。
「……すみません。こいつがどうしても貴女と話したいと言うので」
男がそう言うと、男の元を離れて幼い少女がマグノリアの方へと歩いてきた。
つぶらな瞳が愛らしい少女だ。
マグノリアも屈んで少女と視線を合わせる。
「こんにちは、私に御用ですか?」
神々の話を聞きに来たか、ティエラ様の歌でも習いに来たのだろうか。
微笑ましい気持ちで見守っていると、少女が顔を上げた。
そして、ゆっくりと息を吸うと真っ直ぐにマグノリアを見据えて口を開いた。
「……話をしに来ました。ティエラ」
◇◇◇
少女の目の前で、修道女は何も言わずに俯いた。
そして、たっぷり十秒ほど経った頃、彼女はやっと顔を上げた。
その全てを見透かすような目で少女を見つめ、にっこりと笑った。
「随分と可愛らしい姿になったものですね、アリア」
その言葉を聞いて、少女――女神アリアは憤慨した。
「こ、これは体を構成しなおす時間がなかったので仕方なくです! 僕の本意ではありません」
「話し方、戻っていませんよ」
「仕方ないじゃないですか!『ラファリス』でいた期間が長かったんだから!!」
駄目だ、彼女のペースに乗せられてはいけない。
アリアは大きく深呼吸をすると、ぐっと目の前の修道女を見上げた。
「……その女性は、あなたの分霊ですか」
「いいえ、彼女は敬虔なわたくしの信徒です。わたくしはただ、少しの間彼女の体をお借りしているだけです」
そう言って、修道女マグノリア――の体に憑依した女神ティエラは笑った。
アリアは小さくため息をつく。自分と同じくティエラがこの世界で活動するために作った体かと思っていたが、どうやら修道女マグノリア自体はまっとうなこの世界の人間らしい。
「クリスならいませんよ。少し前にこの地を発ちました」
「ええ、知っています」
アリアがそう答えると、ティエラは少しだけ驚いたような顔をした。
「では何故ここに? てっきりあの子に死んだふりをしたことを謝りに来たのかと思っていましたが」
「そ、それは結果オーライです! そのおかげでルディスを追い払えたじゃないですか!!」
アリアは慌てて取り繕った。
この世界を救った少年――いや、今は少女のクリスは、女神アリアを死んだと思っている。
アリアがそう手を打ったからだ。
「敵を欺くにはまず味方から、という訳だ」
「発案者は貴方ですね? まさかわたくし達まで騙すとはアリアにしては手の込んだ作戦だと思ってはいましたが」
アリアの後からこちらへ歩いてきた男――調停者を見て、ティエラは微笑む。
それを見て、アリアは不服そうに頬を膨らませた。
アリアはこの世界の事を憂いていた。
だから、アリアを探しに来ていた調停者――アコルドと名乗っていた男に相談してみたのだ。
どうしたら、ルディスからこの世界を守れるか、と。
彼は答えた。
『お前が死んだふりをしてルディスをこの世界におびき寄せ、そこを叩けばいい』と。
そして、その結果が今の世界だ。
万事がうまくいったとは言えない。犠牲者も出た。
だが、ルディスはこの世界から去り、大地はそれなりの平穏を取り戻しつつある。
それは良かったのだが、目の前で『ラファリス』の死を見せられたクリスは、相当傷ついたようだ。
アリアはこうして生きている。だが、人間の体である『ラファリス』はあの場で死んだ。クリスが罪悪感を覚えるのも無理はない。
いつかは謝るべきだとは思っているが、アリアはまだその機会を見つけられずにいる。
「……ですが、クリスも貴女が生きている事には気づいているようですよ」
「え、そうなんですか?」
「えぇ、あなたがこらえきれずに手出ししたのを、あの子はしっかり覚えていますから」
ティエラの言う通り、アリアはクリスたちこの世界の人間やティエラを含む女神たちに対しても、死んだように偽装し続けていた。
実際に、少し前までは守護女神としての立場すら失っていた。
そうすればルディスも油断して、生身でこの世界へとやってくると思ったからだ。
本当なら最後まで死んだふりを続けるべきだったのだろうが、ついクリスたちが心配でアリアは手を出してしまった。
クリスたちがこの世界にやって来たルディスに飲み込まれそうになった時は、そっとイリスに呼びかけ、闇を祓う歌を共に歌った。
最後にルディスはアリアの介入に気づいたようだが、まぁ無事に追い払う事に成功したので良しとしよう。
その後は、ルディスの闇に飲まれかけたクリスをなんとか守り、異空間に迷い込んだ際は門を開いてこの世界に帰還させた。
最後にラファリスの名を呼ばれたような気がしたのは、やっぱり気のせいではなかったようだ。
「……でも、どんな顔して会えばいいのかわからないんです。あの子、『俺がどれだけ心配したと思ってるんだ!』とかいいながら殴り掛かってきそうですし」
「大丈夫。クリスは幼い少女には甘いので、その姿で会いに行けばイチコロですよ。ただ、問題なのはエルダの方ですね。あなたに謀られたと怒り狂っていましたから」
「うわぁ……次に会うのが怖いなぁ……」
軽くそう口にしたティエラの言葉に、アリアの心はずんと落ち込んだ。
だが逃げ出したくなるのをなんとかこらえ、アリアはここに来た本来の目的へと思考を戻す。
アリアは、どうしてもティエラに直接聞かなければならないことがあったのだ。
「……釈明を要求します」
そう言いながら懐から書状を取り出しティエラに手渡すと、ティエラはじっとその書状を見つめていた。
「アリアは悪い子ですね。盗んできたのですか?」
「ちょっと借りただけです! 用が済んだらすぐに戻します!!」
アリアが手渡したのは、ティエラ教会本部に宛てられた勇者となりえる者の推薦状だ。
アリアが、ティエラ教会の本部から一時的に拝借したものである。
修道女マグノリアの名でティエラが記した、クリス・ビアンキを推薦したものだ。
「……どうして、わざわざクリスちゃんを危険に近づけるような事をしたんですか」
クリスは辺境の田舎で育った何の変哲もない少年だ。かつてのクリストフ・ビアンキは教会に目をつけられる事も無くその生涯を全うしたので、いくらその血筋であったとしても教会本部がただの田舎の少年を見いだすとは思えない。
この書状が無ければ教会に存在を知られることもなく、勇者に選ばれることもなかっただろう。
ティエラの差し金で、クリスはその運命を大きく変えられることになったのだ。
「勇者になって教会に近づけば、それだけあのニコラウスに捕捉される危険も上がるのに」
ニコラウスはアンジェリカの魂を持つ、彼女の生まれ変わりを探していた。
だったらわざわざ勇者になるなんて目立つ行動をさせるよりも、この田舎でひっそりと暮らしていた方が危険は薄いだろう。
そう思っていたからこそ、アリアにはティエラの行動が理解できなかった。
ティエラはじっとアリアを見つめると、少しだけ悲しそうな顔をした。
「……そうですね。ここで暮らしていれば、クリスは平穏な人生を送れたかもしれない。……ですが、そうでない可能性もありました」
ティエラがぐっと拳を握りしめる。
いつも穏やかな彼女が感情を乱すのは珍しいと、アリアは少し驚いた。
「ニコラウスの狂気は想像を絶するものです。そして、万が一彼がこの地で暮らしているクリスを発見した場合、クリスには身を守る手段はなかった。きっとクリスの家族はクリスを守ろうとしたでしょう。その場合、家族ごと、村ごと、最悪この地方ごと消される恐れもありました」
淡々と告げられた言葉に、アリアは絶句した。
でも……ありえない話ではないのかもしれない。
ニコラウス――百年間ひたすらアンジェリカだけを思い続けたあの男ならば、そのくらいはやってのけそうだ。
もしそうなった場合、きっとクリスは助からなかっただろう。
「ですから、わたくしは……クリスに力をつけて欲しかったのです。自分の身を守る力を。勇者として王都に赴けば危険も増しますが、きっとクリスの味方になる者も現れると信じていました」
そう言ったティエラの言葉は自信に満ちていた。
きっと、彼女はそれだけの対抗手段を用意していたのだろう。
「ですが……まさかこんな風に転がるとは思ってもみませんでしたけどね」
「まったくですよ! 精霊はともかくドラゴンに吸血鬼に……あの子は魔王にでもなるつもりですか!?」
クリスは勇者になる前にレーテと入れ替わり、勇者テオの仲間として旅立った。
これはティエラにも予想外のことだったのだ。
ティエラの予定を大きく外れることとなったが、当初の目論み通りクリスは仲間を得て、力をつけた。そして、自らを狙い続けたニコラウスとの因縁を断ち切ったのだ。
……まさか、そんな人ならざる者達の助けを得るとは思っていなかったが。
「本当に、何が起きるのかわからないのがこの世界だとは思いませんか?」
「えぇ……本当にその通りです」
アリアも最初は驚いたものだ。かつて世界を救ったアンジェリカの生まれ変わりは、何故か勇者の振りをしたドラゴンを引き連れていた。
てっきり騙されているか脅されているのではないかと思って強引に近づいたが、そうではなかった。
かつてこの世界を傷つけたドラゴン――テオは改心し、この世界を守る存在へと変わっていたのだ。
だからこそ、アリアも彼らに望みを託した。
「とはいえ、今回の不祥事はわたくしの管轄で起こったものです。わたくしは……教会の暴走を、止められなかった」
ティエラは心底後悔しているような口調で、そう告げた。
「わたくしはニコラウスがこの百年間教会に潜伏していることに気づきながら、なんの対処もできませんでした。今回の事は、全てわたくしの責任です」
そう言って、ティエラはアリアと調停者に向かって深く頭を下げた。
今回の大地の異変で、最も被害を受けたのはティエラ教会の管轄地、ミルターナ聖王国だ。
その発端はルディスと通じたニコラウスが教会内部に潜伏し、着々と計画を進めていたことにある。
ティエラも何の手段も打たなかった訳はないだろうが、結局は彼を排除できなかった。そして、今回の事態へと発展してしまったのだ。
「わたくしは、守護女神の座を降りようと考えています」
その言葉は二人も予想していた。だから、驚きはない。
だが、アリアはひとこと言ってやらないと気が済まなかった。
「はい、許可します…………なんていうとでも思ったんですか!? 甘いですよ!!」
そう叫ぶと、ティエラが驚いたように顔を上げる。それに構わずに、アリアは続けた。
「貴女がいなくなったらどうなると思ってるんですか!? 誰もエルダとイシュカの暴走を止められずに、この大地なんて三日も持たずに崩壊しますよ! 貴女がいてこそ、なんとかバランスが保てているんですから!! ルディスがあなたの教会を狙ったのは偶然です。そんなのは引退理由にもなりません!」
「ティエラ、残念ながら了承はできんな。お前が降りたとして、後継者がいない」
「ですが、今はクリスがいます。元々はアンジェリカを後継とすることで話がついていたではありませんか」
ティエラは四女神の中で最も旧い女神だ。もうずっと昔から、守護女神の座を降りることを考えていた。
そして百年前、後継者としてふさわしいものが現れた。
並外れた力を持つ少女――アンジェリカだ。
だがアンジェリカはティエラの力及ばずに非業の死を遂げ、その魂は濁り切ってしまった。
このままでは彼女を女神にすることはできないと、ティエラはやむなくアンジェリカを転生させることにしたのだ。
ティエラから見れば、生まれ変わりであるクリスも新たな女神としてふさわしい器に思える。
クリスを説得し、今度こそ自らの後継者にしようと考えていたのだ。
「……あの子は受け入れないでしょう。それにあの子を連れていけば、シルフィードとフェンリルが黙っていない」
「特にフェンリルの一派を敵に回すと厄介だ。奴ら世界を破壊しつくすどころか、神界まで乗り込んで来かねんからな」
ティエラは大きく息を吐いた。確かに、二人の言う通りだ。
またしてもティエラの目論見は外れてしまった。
「まったく、クリスはとんでもない者たちに好かれたようですね」
何故だか愉快な気持ちが込み上げて、ティエラはくすくすと笑う。
ドラゴンに魔族に精霊……クリスはティエラも予想できない形で仲間を得て、自らの運命を切り開いて見せたのだ。
きっとクリスは、アリアの言った通り女神になることを受け入れないだろう。
例えクリスが女神になる時が来るとしても、それは今じゃない。
本当に……何が起こるのかわからないのがこの世界だ。
皆で創り上げてきた、愛しい愛しい大地。
後継者が見つからないとなれば、もうしばらくは……自分が守護女神として君臨し続けるしかなさそうだ。
そうして、この大地とそこに生きる者を見守り続けよう。
用が済み去っていく二人の背中を見ながら、ティエラはそう決意した。
◇◇◇
「……意外と、ティエラが元気そうで安心しました」
「あいつはお前よりもずっと長くこの世界を見ていたんだ。同じような事は何度も経験している」
傍らの男の言葉に、アリアは少し驚いた。
振り返ると、かつてアコルドと名乗っていた男はじっと町の風景を見つめていた。
「僕の思っているより、ずぶといってことですか」
「端的に言うとそうだな」
アリアは慌てて今出てきたばかりの教会を振り返る。
……大丈夫、おそらくティエラには聞かれていないはず……だ。
「もぉ、言葉を慎んでくださいよ!」
「言い出したのはお前だろう。それより……お前はこれからどうするんだ」
「え?」
「俺は一度神界へ戻り、事の顛末を報告せねばならん。お前も来るか」
アリアは空を見上げた。確かに自分も一度は戻らなければならないだろうが、今は他にやりたいことがある。
「僕は……もう少しこの世界を見て回りたいんです」
ルディスが撤退したと言っても、まだどこかに教団の残党が潜伏している可能性はある。
それに、今のこの世界がどうなっているかを、人と同じ体で、人と同じ目線で、直接歩いて見てみたかった。
「……その姿でか?」
「何か問題でも?」
アリアはあらためて今の自分の姿を確認する。
……大丈夫。どこにでもいる、幼い少女に見えているはずだ。
これならよほどのことが無い限り警戒されたりはしないだろう。
だが目の前の男は呆れたようにため息をつくと、アリアの額を指で軽く弾いた。
「……お前は、『ラファリス』の時でさえ行く先々でトラブルに巻き込まれて何度俺に助けられたか覚えていないのか……!」
「うっ、まぁ……それはそれ! これはこれです!!」
そう弁解になっていない弁解をすると、男は大きくため息をついた。
「……俺がついて行ってやる。気が済んだら神界に戻るぞ」
「え、別にいいですよ」
「いいから行くぞ!」
寄り添うようにして二人は歩み出す。
アリアの旅は、まだまだ終わらない。
なお、二人が誘拐犯と被害者に間違われ通りがかった衛兵に取り調べを受けるのは……このわずか5分後のことであった。
次はクリスの話に戻ります!




