8 大いなる冬
「スコル、ハティ……!?」
現れた二匹を見て驚いたが、その時上から降ってきた冷たい声に俺の体は凍りついた。
「……また現れたのか、下等生物」
思わず顔を上げると、ひどく冷たい顔をしたニコラウスがスコルとハティを見下ろしていた。
その視線に、忌まわしい記憶が蘇る。
前に枢機卿に追い詰められ体から魂を引きはがされそうになった時、スコルとハティが俺を庇って消えた。二匹は精霊だったので今もこうして俺の傍にいてくれるが、次も無事だと言う保証はない。
魂ごと壊される危険だってあるんだ……!
「俺はいいから逃げっ――」
「消え去れ」
早く逃げろ、と言い終わる前に、ニコラウスは現れた二匹に向かって闇の塊を矢のように放出した。
二匹を庇おうとしたが体が動かない。何が起こったかわからないのか、スコルが一歩前に出た。
そして、発出された闇の塊を食べたのだ。
「なっ」
「…………ぇ」
俺は目の前の光景が信じられなかったが、それはニコラウスも同じだったようだ。
目を見開きもぐもぐと闇の塊を咀嚼するスコルを凝視している。
そんななか、しゃくしゃくという咀嚼音がすぐ近くで聞こえた。
見れば、ハティが俺の体を拘束する影を食べていた。影は驚いたようにしゅるしゅると俺の体から離れ、消えて行く。
拘束から解放され膝をつくと、飛びついてきたハティが慰めるようにこぼれた涙を舐めてきた。
『まったく、クリスはボクたちがいないと駄目なんだから!』
『危なっかしくて見てられないよー!』
「お前たち、何で……」
スコルとハティの体は、普段より少し大きく見える。
頼りになるとかそういうことじゃなく、本当に大きくなっていたのだ。
『んー、今は扉が開いてるから』
『フェンリルさまも本気なんだねー、びっくりだよ!』
「このっ、下等生物が……!」
ニコラウスは激高したようにまた闇の塊を放ったが、振り向いたスコルがぱくりと口に入れてしまった。
「そ、そんなん食べて平気なのかよ……!」
『平気だよー』
『だってボクたちはフェンリルさまの眷属だし!』
よくわからない理由をつけて、スコルとハティは褒めろとでも言うように尻尾をぶんぶん振っている。
『それよりクリス、浮気なんて駄目だよ! クリスはヴォルフリートの眷属なんだから!』
『あれ、そうだっけ? 確か眷属じゃなくて……えぇーっと』
『……そうだ! 番だ!!』
二匹は顔を見合わせ、うんうんと頷いている。
「……は? 番?」
『そうそう。フェンリルさまがそう言ってたもん』
番っていうと、人間でいう夫婦みたいなものだろう。
思わず手で顔を覆ってしまう。
恥ずかしい、めちゃくちゃ恥ずかしい……!
あの神聖な雰囲気を纏うフェンリルが、まさかそんな事を考えていたなんて……!
「くそっ、あの獣を始末しろ!!」
ニコラウスが苛立ったようにそう叫ぶと、四方八方から闇の塊が嵐のように飛んできた。
だが、一瞬の間に俺たちを守るようにして氷の壁が現れる。壁にぶつかった闇の塊が弾かれていくのが、分厚い氷越しにぼんやり見えた。
「お前たちって、そんなに強かったっけ」
『今はちょっと特別なんだ』
『フェンリルさまの力が強くなってるから、ボクたちもぱわーあっぷしてるんだよ!』
フェンリルの力が強くなってるって、ヴォルフに何かあったんだろうか。
急に不安になった俺を落ち着かせるように、スコルとハティはぺろぺろと俺の手を舐めてきた。
『だから、今のうちにあいつを倒しちゃおう!』
「でも、どうやって……」
『だいじょうぶ、ボクたちならやれるよ』
スコルとハティが飛びついてくる。
その体をぎゅっと抱きしめると、不思議と頭がクリアになってくる。
何をどうすればいいのか、すぐにわかった。
「……ありがとう。スコル、ハティ」
涙を拭いて立ち上がる。
レーテとイリス。それにきっと今も戦ってい続けている大切な仲間の為に。
ここであいつの言いなりになんてなっていられない……!
『『いくよ、クリス!』』
「おう!」
掛け声とともに、俺達を守っていた氷の壁が砕け散る。
舞い散る氷の粒がキラキラと光って、綺麗だと思った。
「もう籠城は終わりですか?」
ニコラウスは余裕な態度を崩さない。俺たちなんて余裕で制圧できるとでも思っているんだろう。
……見てろよ。すぐに気持ち悪いにやけ面をぐちゃぐちゃにしてやる!
スコルとハティが一歩前に出ると、俺はじっとニコラウスを睨み付けた。
『月を喰らい』
『太陽を喰らい』
『『黄昏の世界に終末を』』
少しずつ、この空間の温度が下がっていく。でも、不思議と寒いとは思わなかった。
「全ての者が眠りにつく、冬の到来を」
柱が、床が、凍りついて行く。
それでもニコラウスは、嘲るような笑みを浮かべていた。
「新手の魔術でしょうか。そんな子供だましで、私をどうにかできるとでも?」
百年もの間アンジェリカを思い続け、こんなにも歪んでしまったニコラウス。
同情はしない。こいつのやっていることは、絶対に許してはいけないことだから。
「風の裁きを」
冷たい風が巻き起こり、ニコラウスめがけて吹き付けたのがわかった。
「少しおいたがすぎますねぇ……アンジェリカ!」
再び黒く細長い影が俺を捕えようと床から延びてきたが、あっという間にスコルとハティに引き裂かれていった。
「剣の嵐を」
巻き起こった風が氷の剣に姿を変え、何本も、何十本もの剣がニコラウスめがけて殺到する。
「甘いですよアンジェリカ! こんなものすぐに……なっ!!」
ニコラウスは俺を指差し後ろへ退こうとしたが、すぐにその表情が歪んだ。
当然だ。だってもう、あいつの足は凍りついているんだから。
その場から動けるはずがない。
「くそっ、あんな氷など砕いてしまえ!!」
ニコラウスがそう叫ぶと一斉に現れた闇の塊が氷の剣を防ぐように黒い盾を作り出したが、そんなものは何の意味もない。
すぐに氷の剣に貫通されていった。
黒い盾の向こうから、ニコラウスの苦痛の叫びが聞こえる。
「なっ、貴女は何を……」
黒い盾が消え、血まみれのニコラウスが姿を現す。
その表情には、確かに驚愕と焦燥が浮かんでいた。
「お前の妄執も、ここで断ちきってやるよ、ニコラウス!」
……百年前から続くお前との因縁も、もう終わりだ。
「聞け、滅びを告げる狼の咆哮を!! “大いなる冬!!”」
そう叫んだ途端、氷雪の嵐と氷の剣が勢いを増し、まるでニコラウスの全てを滅さんとするかのように襲い掛かった。
最後の抵抗のように黒い闇の塊が俺達の方へ飛んできたが、一瞬の間にスコルとハティが噛み砕く。
ニコラウスの苦悶の叫びが響く。
まだだ、まだ……もっと……
「……おい、ボク達を凍死させるつもりか!?」
不意に耳元で大声で怒鳴られ、体を揺さぶられた。俺ははっと我に返る。
慌てて振り向くと、真っ青な顔をしたレーテがぶんぶんと俺の体を揺さぶっていた。
「レーテ! 無事か!?」
「無事と言えば無事だけど、君がそれ以上やるとボクとイリスも凍るぞ!!」
レーテの後ろには、真っ青な顔で自分の体を抱きしめて震えるイリスがいた。
気がつけば、この空間は尋常じゃない寒さになっていた。もう空間のほとんどは凍りついている。
「え、えぇっと……静まれ!!」
未だにニコラウスを襲う氷嵐に向かって慌ててそう叫ぶと、ぴたりと氷嵐は静まった。
ふぅ、と息を吐くと、レーテがふて腐れたように俺の頬を引っ張った。
その指先の冷たさに思わず悲鳴が漏れる。
「あいつを倒せたのはいい。君の手柄だ。でもな……やりすぎなんだよ! この世界ごと凍らせる気か!?」
「え、ええぇぇ?」
もちろんそんな気はない。
困っていると、足元からスコルとハティがキャンキャンと吠えてきた。
『扉、閉まちゃった』
『フェンリルさま、まだこの世界を終わらせる気はないみたいだね』
「え、ほんとにそういう段階だったの!?」
スコルとハティはいつの間にか元の子犬くらいの大きさに戻っていた。
何か不穏な言葉が聞こえてきたけど、とりあえずあの枢機卿を倒せたしよしとしよう!
「後はルディスをなんとか……」
そう口にした途端、小さなうめき声が聞こえてきた。
まさかと思いつつ振り返ると、血まみれの体でニコラウスが立ち上がろうとしている所だった。
「そんな、嘘だろ!?」
「まだ息があったのか……!」
レーテが警戒したように剣を抜く。俺も慌てて杖を構える。
その時、こつこつとこちらに近づいてくるような足音が聞こえた。
俺達は思わず振り返ってしまう。
そこに立っていたのは、いつもの修道服を身に着け、剣を携えたティレーネちゃんだった。




