16 蛇の忠告
『リルカ、危ないっ!!』
地面に激突する寸前に、リルカの体は一緒にいた精霊の起こした風によって、ふわりと浮かび上がる。
優しく地面に降ろされて、リルカはやっと重い瞼を開けた。
「……ありがとう」
『もう、しっかりしてよっ!』
どうやらここは、リルカたちが生まれた丘のようだ。優しい風が吹き抜けていく。
照れ隠しのような声が飛んできて、リルカはくすりと微笑む。
すると、どこかからぱちぱちと手を叩く音が聞こえてきた。
「すごいすごい、僕の予想以上だよ」
まさか……と言う思いで、リルカは残ったわずかな力を振り絞って身を起こす。
そこには、倒れたリルカを見下ろすようにして、傷一つない人間の姿をしたミトロスがいた。
「うそ……なん、で…………」
無意識にリルカの体が震えだす。
だって、リルカは確かに先ほどの一撃で大海蛇の体を二つに引き裂いたはずだ。
それなのに、こんな風に立っていられるはずがない……!
「見た目よりは丈夫なんだ。さすがに全身をばらばらに切り刻まれたりしたら死ぬと思うけどね。まぁ、試したことはないけど」
まるでリルカの心を見透かしたかのように、彼はにこにこと笑いながらそう告げる。
リルカはただただ固まって、彼を見つめる事しかできなかった。
「さて、それで肝心のゲームの結果だけど……」
ミトロスはそう言うと、真っ直ぐに頭上を指差した。
その様子を見て、リルカは戦慄する。
地上にこぼれた一滴を弾くことはできたが、まだ島を覆い尽くすほどの水球が空に漂っていた。
あの水球が落ちるまでに、リルカがミトロスを止めることができればリルカの勝ち、止められなければミトロスの勝ち。彼はそう言っていたはずだ。
それで、ミトロスは生きている。
リルカは、彼を止めることができなかったのだ。
「約束は、守るよ」
ミトロスは優しくそう言うと、頭上に手を掲げる。
そして、止める間もなく彼の指先から延びた黒い閃光が、頭上の水球の塊へと命中した。
「ああぁぁ!!」
リルカは絶望に捕らわれながらも必死に身を起こす。
だが、ミトロスの放った閃光の当たった水球は、既にその形を変え始めていた。
水球がいびつな形に伸び、そして……ドーナッツ状に中央を空けて広がって行った。
「えっ……?」
水球に遮られていた陽の光が直接当たるようになり、島が明るさを取り戻していく。
ぐんぐんと輪のように広がる水球は、綺麗に島を避けて湖の上まで移動したようだ。
そして、湖の上に水球から細かな雨が降り始めたのがリルカの目に映った。
アムラント島の空は、相変わらずからりと晴れている。
「数日間は降り続くだろうから、多少は湖の生態系に影響があるかもしれない。でも、この島に目立った変化は無いだろうから安心していいよ」
ミトロスはそう告げると、いたずらが成功した子供のようにくすりと笑った。
このまま湖に雨が降り続ければ、数日間で湖は元に戻るだろう。
この島にも、特に害はないはずだ。
ミトロスは、水球を落とさなかった。
リルカは彼を止められなかったはずなのに、何故……。
「元々、今の君じゃあ僕を殺せるほどじゃないと思ってたからね」
まるでリルカの心中を見透かしたように、ミトロスはそう告げる。
彼は怪しげな笑みを浮かべたまま、呆然とするリルカを見下ろしていた。
「だから、今回は君の勝ちにしておくよ」
リルカの勝ち。つまり、ミトロスは水球を落とさない。
そう理解した途端、リルカの体から再び力が抜けた。
地面に倒れ込んだリルカを見て、ミトロスがくすくすと笑う。
「あ、なたは……っ!」
残った力を振り絞り、リルカはミトロスを睨み付けた。
結果的に水球が落とされなかったとしても、一歩間違えれば大勢の人が死んでいたかもしれないのだ。
彼はこの勝負をリルカと自分のゲームだと言っていた。この島の人の命を懸けた、ゲームだと。
人の命をそんなに軽々しく扱っていいはずがない……!
「あなたは、なんなんですか! どうして、こんなことをっ……!」
義憤に駆られてそう叫ぶと、ミトロスはまたおかしそうにゲラゲラと笑い出した。
「僕のもう一つの姿はさっき見ただろう? あれが僕の本当の……というか元々の姿だ」
ミトロスのもう一つの姿……大海蛇は、リルカも間近で見た。
異世界の幻獣だと母は言っていたが、リルカにはそれがどんなものなのかよくわからなかった。
あれは、いったいなんなんだろう。母は、精霊や神に近いものであるが、そのどちらでもないと言っていた。
……なんであれ、強大な力を持っている存在、というのは間違いないだろう。
「それと、僕にあまり人間の感覚や価値観を期待しない方がいい。人間じゃないからね。……この世界の事を学ぼうとしばらく人間の振りをしてたけど、やっぱりよくわからなかったよ」
そう言うと、ミトロスはちらりと大学の方を振り返った。
まるで、そこで行われている人の営みなど全く理解できないとでも言うように。
「ただ、得たものはあったね。……一番は、君に会えたことかな」
ミトロスは仰向けに倒れたリルカの傍へしゃがみこむと、優しげな笑みを浮かべた。
「言った通り、いいことを教えてあげるよ」
そう言うと、ミトロスはわずかにリルカの方へ顔を近づけ、そっと囁いた。
「女神アリアがいなくなったのは知ってるだろう?」
リルカは思わず目を見開いた。女神アリアの事は、リルカもよく知っている。そのせいで、クリスが相当追い詰められていたことも。
リルカの反応で、ミトロスはすぐに悟ったのだろう。くすりと笑うと、よく晴れた空を指差した。
「今は落ち着いているけれど、本来四柱の神によって守られていたこの大地は、バランスを欠いている。台座が一つ空いてしまったからね」
今は収まっているが、アリアが死んでからは断続的に地震が起こっている。
それを、大地のバランスを欠いたからだとリルカたちは推測していた。ミトロスの言う事も、結局は同じなのだろう。
「……ルディスは、そこを狙っている」
ミトロスは笑みを浮かべたまま、冷静にそう告げた。
「アリアがいなくなって空いた場所に、自分が収まろうとしているんだ」
「そんなのっ……!」
ルディスは悪い神様だ。世界に混乱を引き起こし、多くの者を傷つけている。
そんな神が、この世界の支配者となったら……!
「君たちにとっては、大変だろうね」
まったく心配していないような声色で、ミトロスはそう続ける。
「世界は大混乱。どんどん闇に染められていって、いずれこの大地は人ではなく魔物が大手を振って闊歩するようになるかもね。最後にはルディスに全て吸い取られてお終いだ」
「そんなこと、させないっ……!」
精一杯強がって、リルカは威勢よくそう告げる。
ミトロスはそんなリルカを見て満足そうに微笑んだ。
「そうだね。だから……教えてあげるよ。ルディスの倒し方」
「えっ……!?」
ルディスは神様だ。並大抵の手段では傷一つつけることはできないだろう。
クリスは大地の中心に行った際に強大な力を手に入れたが、きっとその力を行使すればクリスは死ぬ。そんなのは、絶対に嫌だった。
まさかこの男は、他にルディスを倒す方法を知っているとでも言うのか……!?




