13 ゲームの始まり
「な、何を……する気、なんですか……!」
そう必死に絞り出した声が震えているのに、リルカは気づかざるを得なかった。
そうしている間にも、湖の水はどんどんと上空へと上って行く。アムラント島の空には、巨大な水球が不安定に浮いているのが見える。空へ昇った水が水球へと引き込まれ、水球はどんどん成長しつつあった。
……万が一あれだけの量の水が島に落ちてきたら、ここに住む者は一瞬で潰されてしまうだろう。
「こうでもしないと本気にはなってくれなさそうだったからね」
何が面白いのか、ミトロスは愉快そうな笑みを絶やさない。
リルカはぐっと掴んでいた杖を握りしめた。
「今すぐ……元に、戻してください」
「……それではつまらないだろう? だから、ゲームをしよう。リルカさん」
ミトロスはそう言うと、一歩リルカの方へと近づいた。
「あの水球がこの島を覆い尽くすほどに成長したら、僕はあれを落とす。それまでに僕を止められたら君の勝ち。止められなかったら僕の勝ちだ。……簡単だろう?」
まるで鬼ごっこやかくれんぼでもしようかと誘うように、ミトロスは軽くそう告げた。
「お、落とすって……」
「賭す物が大きければ大きいほどゲームは盛り上がる。そうだろう?」
今までに見たことのないほど楽しそうに、ミトロスはそう言って笑った。
あの水球が落ちれば、きっとこの島に住む者の多くが死んでしまうだろう。
賭す物が大きければ大きいほど……彼は、彼の言う「ゲーム」で、この島の人の命を懸けると言っているのだ……!
辿り着いた答えに、リルカは呆然と目の前に男を見つめる事しかできなかった。
「まあそんなに心配しなくても、僕はいつっ……!」
鈍い音が聞こえ、ミトロスの言葉が止まる。
リルカは思わず目を見開く。目の前のミトロスの胸の中央を、背後から尖った石の槍が貫通していたのだ。
「……これで、俺たちの勝ちだ」
いつの間にかミトロスの背後にまわっていたルカが低く呟く。
彼はミトロスに悟られないように背後にまわり、魔法で作り出した石の槍でミトロスの胸を貫いたのだろう。
ミトロスは驚いたように目を見開いて、自らの胸から突きだす槍を見つめている。
そして、その状態のままおかしそうに笑い出した。
「あはははは!! 悪くないですよ、そういうの!! そういえばスタートの合図もしてませんでしたね。これは一本取られたな!!」
ミトロスは愉快そうに笑うと、槍が胸に突き刺さったまま背後のルカの方へと振り向いた。
ルカの顔が引きつる。リルカも、目の前の光景が信じられなかった。
石の槍は、確かにミトロスの胸を貫通している。そんな状態で、笑ったり喋ったりできるはずがない……!
ミトロスはそのまま自らの胸に刺さった槍を引き抜くと、地面に放り投げた。
リルカも、ルカも、その場の精霊たちも固唾をのんでその様子を見守るしかなかった。
ミトロスは大きく息を吐くと、胸に穴の開いたままリルカへと視線を戻す。
「あなたがたのその機転に敬意を表して、少しだけ制限時間を伸ばしました」
彼はぐるりと周囲を見渡すと、にやりと笑って口を開いた。
「……それじゃあ、始めようか」
そう告げた途端、ミトロスの体が宙に浮いた。
そのまま、まるで羽でも生えているかのように彼の体は上空へと上って行く。リルカは呆気にとられたままその光景を見ていた。
そして鳥のように空へと舞いあがったミトロスの体が、一瞬で黒く染まった。
「えっ!?」
彼の体を黒い靄が覆う。そしてその靄が空を覆う程に膨張し、唐突に弾けた。
その靄の向こうに姿を現したモノを見て、リルカは思わず息を飲んだ。
最初は、巨大な黒いヘビのように見えた。
無数の鱗に覆われた体。だがその細長い体躯には、まるで銀色のヒレや羽のように見えるものがいくつも連なっている。
その姿は以前目にしたドラゴンに似通っているようにも感じられる。
ヘビか、魚のようにも見えるが、どこか神秘的な雰囲気を纏ったその姿に、リルカはその場の状況も忘れてしばし見惚れた。
『……大海蛇っ!!』
焦ったような母の声が聞こえ、リルカははっと我に返る。
母はきつく上空の黒いヘビ――おそらくは、姿を変えたミトロスを睨み付けている。
『あれは危険な存在です。まさか、こんな時に現れるなんて……!』
「な、なんなんですか……?」
おそるおそる問いかけると、母は静かに首を横に振った。
『あれは、異世界の幻獣です。神のような、精霊のような……そのどちらとも異なる存在です。ただし、そのどちらにも匹敵する力を持っている』
「え……?」
『自らの領域外であれほどの力を発揮するとは……とにかく、今はあれを止めるのが先決です!!』
そう言うと、母はものすごい速さで一陣の風となり上空のミトロスへと向かって行った。
強力な竜巻へと姿を変えたシルフィードが、ミトロスへと襲い掛かる。
だが、ミトロスも負けてはいなかった。その長い体をひねり、逆に竜巻へと突っ込んでいく。そして、黒い靄が竜巻を覆い、次の瞬間竜巻は消滅しシルフィードは地面へと落下していった。
『母様っ!!』
周囲の精霊から慌てふためいた声が上がる。
リルカも精霊も、一斉に母が墜落した地点へと駆けだした。
『ぐっ…………』
果たして、母はそこにいた。
だが、その体には黒い靄が網のように絡みついている。
「母様! 大丈夫ですか!?」
リルカは慌てて靄を払おうとしたが、黒い靄はしっかりと母に絡みつき、リルカには引きはがすことができなかった。
『あの男っ、この地に細工を……!』
母は苦々しげに上空の黒いヘビを睨み付けている。
その姿を見て、リルカは息を飲んだ。
リルカにとって精霊の母――シルフィードは、ある意味神にも等しい存在だった。この地を守り、優しく包み込む地護精霊。
彼女に、できないことなんてないと思っていたのに。
リルカは上空を見上げる。鳥のように上空を舞う黒いヘビの更に上、巨大な水球は、今もなお湖の水を吸収し、膨張を続けていた。
ミトロスの言った事が本当であれば、いずれあの水球がこの地に堕ちてくる。
そうなったら、この場所は……
『リルカ』
母に呼びかけられ、リルカは慌てて意識を戻す。
シルフィードは苦しそうに、だがどこか優しくリルカへと微笑みかけた。
『私の力を、あなたへと託します』
「え……?」
『頼みますよ。必ずや、あの大海蛇を討ち取って……』
「ま、待ってください!!」
リルカは慌てて母の手を取る。
「む、無理です! 母様にだってできなかったのに、リルカになんて……」
リルカにとって母は絶対的な存在だ。その彼女でも歯が立たなかったのに、リルカにどうにかできるわけはない!!
『大丈夫、大丈夫です』
「でもっ……!」
『私とて、普段ならあんな海蛇に後れを取ることはありません。しかし、あの者は卑怯にもこの地に小細工を施し、私の力を封じています。いずれ元には戻るでしょうが、今は時間がありません』
母はそっとリルカの手を握りしめる。すると、リルカの中にすっと力が流れ込んできた。
『私の可愛い子供たち……。皆、力を合わせて危機に立ち向かいなさい。あなた達は一人じゃない。共に支え合えるきょうだいがいます。必ずや、うまくいくでしょう』
リルカはぎゅっと唇を噛みしめると、母に向かって大きく頷いた。
本当は自信なんてない。でも、今はとにかくやるしかない。
ミトロスが何を考えているのかはわからないが、あの水球が落ちてきたらこの島に住む生き物は皆死んでしまう。
それを、黙って見ているわけにはいかないのだから。
『人の作った体を持つ、この地に縛られないあなたなら、あの者の妨害を受けることはないでしょう。皆……どうか、リルカに力を』
母がそう呼びかけると、いっきにリルカの中に力が流れ込んでくる。
これはみんなの、精霊の力だ。
『大丈夫、私たちがついてるよ』
きょうだいの一人にそう呼びかけられ、リルカはその場から立ち上がり、空を見上げた。
黒いヘビ――ミトロスが、リルカを見ているのがはっきりとわかった。
「あなたの……思い通りにはさせません!!」
そう宣戦布告すると、リルカは一気に空へと舞いあがる。




