8 レーテとイリス
弱々しい脈拍と、今にも消えそうなほどに浅い息。
レーテの命の灯が消えようとしている。
その事実を、俺はすぐには受け入れられなかった。
「ここに来る直前、ほとんど力を使い果たした状態だったんです! それなのにっ……」
ヴォルフが焦ったようにそう告げる。
確かに、ヴァイセンベルク家の屋敷に帰って来た時からレーテの様子はおかしかった。
あの時にもうほとんど力を使い果たした状態で、それなのにここに来て何人もの奴らを相手に戦って、イリスを庇って斬られて、瀕死の状態であんな大魔法を使ったりしたら……
どう考えても、無事でいられるわけがない!
「おい、しっかりしろっ! 今なんとかするから!!」
後悔する時間も、迷っている暇もない。
「せ、生命の息吹よ、どうか彼の者に力を与えん……。“癒しの風!”」
必死の思いで治癒魔法をかける。呪文を紡ぐ声も、杖を持つ手も震えてしまったが、優しい癒しの魔力がレーテに流れ込むのを感じる。
まぶたをわずかに震わして、レーテは緩慢な仕草で目を開いた。
「……リス、は…………?」
「生きてる! 無事だよ!! ほら、イリス……!」
戸惑った様子のイリスを慌てて呼び寄せる。
イリスの顔を見てほっとしたようなレーテとは対照的に、イリスは真っ青な顔でレーテを凝視している。
「な、んで……なんで私なんてかばったの……!?」
イリスにとっては、今のレーテはまったく知らない男だ。そんな奴が命懸けで自分を庇って死にかけてるなんて、きっと理解不能なんだろう。
レーテは何も言わない。ただ、泣きそうなイリスを見て安心したように目を閉じただけだ。
俺は迷った。
でも、ここで言わなきゃいけない気がしたんだ。
「イリス」
今にも泣き出しそうなイリスの手を取って、投げ出されたレーテの手に触れさせる。
「こいつが、レーテ……お前の姉さんだよ」
そう告げた瞬間、イリスが目を見開いて、ヴォルフが驚いたように息を飲んだ。
レーテは力なく俺を睨み付けると、かすかな声で「馬鹿」とののしって来た。
「うそ…………」
イリスは呆然と倒れ伏すレーテを見ていたが、やがて何かに気づいたかのように目を見開いた。
「………レーテ、ほんとにレーテ……!?……ううん、わかるよ…………」
イリスは力ないレーテの手を握りしめると、ぎゅっと目を瞑った。
そして、握ったままのレーテの手を頬に触れさせ、ぼろぼろと涙をこぼし始める。
「……てくれた……。レーテ、迎えに来てくれたんだよね……」
……例え姿が変わっても、イリスには目の前の相手が自分の姉だとわかったようだ。
俺の父さんと母さんも女になった俺の事を「クリス」だって気が付いてくれた。
家族って、そういうものなのかな……。
レーテはイリスを見て困ったような表情を浮かべて、たった一言絞り出した。
「…………ごめん」
「うっ、うわああぁぁぁぁん!!!」
それを聞いて、イリスは今度こそ大声を上げて泣き始めてしまった。
おろおろする俺を置いて、レーテはそっとイリスに向かって手を伸ばす。
「聞け、イリス……これからは、こいつらの……言うこと、聞いて……」
「……おい、何言って…………」
何でそんな事を言うんだ……とレーテの肩に触れて、俺は思わず手を離してしまった。
熱い、燃えるように熱い。
レーテの体は明らかに正常じゃない!
なんですぐに気づかなかったんだ!!
「生命の息吹よ、どうか彼の者にっ……!」
再び治癒魔法を唱えようとしたところで、急に体から力が抜けて俺はその場に倒れ込んでしまった。
すぐにヴォルフが抱き起こしてくれたが、苦しそうな表情のレーテは俺を見てかすかに笑った。
「魔力、切れ……だよ。君も、ボクもね……」
「待てよ、もう一度……」
「やめなよ、君まで死ぬぞ……」
「レーテ、何言ってるの……!?」
イリスは必死な様子で姉の体にしがみついた。
「せっかく会えたのに!! 死んじゃうなんていやだよ!!」
「イリス、わがままは……」
「うるさい!! 今までの分、これからずっと一緒にいてくれないと許さないんだからっ……!!」
イリスは泣いていた。俺も何とかもう一度治癒魔法をかけようとしたが、激しく咳き込んでしまい呪文を唱えることができなかった。
「やだ、やだよレーテ!! 私をおいていかないでっ……!!!」
イリスの悲痛な声が、崩れかけた部屋にこだまする。
その瞬間、部屋の中に置かれたままだった魔導砲が再び光を放ち始めた。
「えっ?」
「なっ!?」
まさか、また起動したのか!?
だったら大変だ。こんどこそ大学が焼かれるかもしれない……!
ヴォルフが止めようと立ち上がる。だが、魔導砲からあふれた光は外へはむかわず、部屋の中へと溢れ出す。
そして、優しく温かな光が、レーテにしがみついて泣きじゃくるイリスの中へと入って行くのが見えた。
「どういうことだ……?」
イリスは気が付いていないのか、倒れたままのレーテの体に顔をうずめて泣いている。
魔導砲からあふれる光は、とめどなくイリスの体へと流れ込んでいく。
「……なるほど、そういうことか」
急に背後から声が聞こえ、俺は慌てて力を振り絞って振り返る。
すると、部屋の入口に全身真っ黒な服に身をつつんだ男――アコルドが立っているのが見えた。
アコルドはゆっくりとこちらに近づいてくると、泣きじゃくるイリスと、彼女の体に入り込んでいく光を興味深そうに眺めはじめた。
「あんた、何して……」
「この少女も、また異能者だったという事だ」
…………悪いけど、全然どういうことなのかはわからない。
アコルドも俺の理解は初めから期待していなかったんだろう。すぐに詳しく教えてくれた。
「君たちと同じように、この子供も常人ではありえない特殊な力を持っているという事だ。……それも、非常に強力な」
俺……はともかく、レーテの持つ特殊な能力のことなら知っている。
まさかイリスも、人の心や記憶を読んだり瞬間移動ができたりするのか!?
そんな事を考えた俺の内心を見透かしたかのように、アコルドは大きくため息をついた。
「この子供の場合は……実際にやってみた方が早いだろう」
アコルドは泣きじゃくるイリスの肩を叩く。真っ赤な目をして振り返ったイリスに、アコルドは俺の方を指差してみせた。
「……姉を助けたいんだろう。だったら、君の力を分けてやれ」
「そんなの、どうやって……」
「簡単だ。祈り、念じるだけでいい」
アコルドはイリスを立ち上がらせると、俺の傍へと連れて来た。
そして、イリスの小さな手を取って、俺の手に触れさせる。
「姉を助ける。それだけを考えればいい」
アコルドは今度は俺の方へ振り返ると、簡潔に指示を出した。
「……君は、もう一度治癒魔法をかけてくれ」
「……わかった」
なんとか力を振り絞って体を起こすと、ヴォルフが慌てたように俺の手を掴んだ。
「でも、もうクリスさんの力だって限界で……」
「大丈夫。イリスがいるから」
正直、これ以上魔法を使えば俺だって危ないだろう。自分でもはっきりそうわかる。
……でも、不思議と大丈夫だって気がした。
つないだ手から、イリスの力が流れ込んでくる。そんな不思議な感覚がしたんだ。
体のだるさが消えていく。これなら、呪文を唱えることもできるだろう。
「生命の息吹よ、どうか彼の者に力を与えん……」
体中に、温かな力が流れ込んでくる。
失っていた力が蘇って……いや、元々俺が持っている力をはるかに超えた強い力が泉のように湧き出てくる。
今なら、どんなことでもできるような気がした。
「“癒しの風!”」
何の変哲もない、初歩的な治癒魔法だ。
紡いだ癒しの風がレーテの体を優しく包み込む。
次の瞬間、剣で斬りつけられたレーテの背中の傷口が、みるみる塞がっていくのが見えた。
「なっ……!?」
ヴォルフが驚いたように息を飲む。俺だって、これが自分の使った魔法の効果だとはとても信じられなかった。
だって今まで何回もこの魔法を使ったことがあるけど、こんなに深い傷を治すことなんてできなかった。せいぜいかすり傷程度の怪我を治癒するだけのはずだ。
背中の傷口がふさがると、今にも死にそうな顔をしていたレーテの顔色までもがよくなっていた。
そのままゆっくりと目を開くと、レーテはけだるそうに俺とイリスの方を振り返る。
「なんか、全然意味わかんないんだけど……」
安心しろ、俺もだよ。
戸惑った様子のレーテを見ていると、どっと疲れが押し寄せてくる。
「レーテ!!」
俺から手を離したイリスがレーテに駆け寄る。
レーテはイリスを見下ろし大きくため息をつくと、不器用な手つきでその頭を撫でて、ぽつりと呟いた。
「…………ありがとう」
その言葉を聞いて感極まったのか再び大声で泣きだしたイリスと、泣きやまない妹にどうしていいのかわからない、といった様子のレーテに、俺は思わず笑ってしまった。
……なんだかよくわからないけど、レーテも助かったし、たぶん二人も仲直りしたみたいだし、これで良しとしよう!!




