4 過去の足音
イリスはどこか心配そうにじっと俺の顔を覗き込んでいる。
「お前……さっきは大丈夫だったのか!?」……と呼びかけようとして、俺は自分の体がまったく動かせないのに気が付いた。
それなのに口は勝手に動いて、俺の意志とは無関係の言葉をイリスに告げていた。
「……うっさいな、あっちいってろ」
『でも……』
「いいから! 放っといてよ!!」
その言葉に、泣きそうな顔のイリスが離れていくのが分かった。
俺の体は今度は勝手に寝返りをうち、イリスの姿は見えなくなり目の前には冷たい石の壁が広がる。
そこで、俺は気が付いた。
なんで、イリスの姿や部屋の様子が見えるんだ? さっきまで、真っ暗だったはずなのに。
相変わらず体は動かせないのでここがどんな場所なのかはわからない。
でも、この感覚には覚えがあった。
俺がアンジェリカの夢を見ていた時と、同じような感覚だ。
それに、さっき俺が発した言葉は俺の意志じゃなかったけど、声自体は自分の声に聞こえた。
ということは、これはアンジェリカの夢じゃない。
アンジェリカの夢は、俺の奥底に残るアンジェリカの記憶を夢として見ている……と俺は思っている。
今回も同じような状況だけど、少なくとも今壁の方を向いて寝そべっているのはアンジェリカじゃない。
イリスがいて、声自体は俺と同じ。
そういえば、さっきのイリスは俺の知っているイリスより少し幼いような気がした。
……きっとこれは、レーテの過去の記憶なんだろう。
何でいきなりレーテの過去の記憶を視ているのかはよくわからないが、これは過去の出来事だ。俺自身はどうにもできないとわかっていても、俺は何とか体を動かそうと奮闘した。
でも、やっぱり意味はなかった。
レーテはふてくされたように壁の方を向いて寝転がっている。イリスの様子を確認したかったが、ここからだと何も見えない。
そうしてるうちに、遠くからコツコツという足音が聞こえてきた。
イリスが息を飲む音が聞こえ、レーテは俊敏な動きで立ち上がった。
すぐに鉄格子のような扉の向こうに人影が現れる。
さっき見た二人の男とは別人だったが、あまりお近づきになりたくないような嫌な顔つきの男だった。
レーテは立ち上がると部屋の隅っこで縮こまるイリスを置いて、扉の前へと進み出た。
冷たく暗い石の壁に囲まれた、狭い部屋だった。
俺が押し込まれた牢屋と、そんなに変わりはないかもしれない。
「……何の用?」
不機嫌そうにそう口にしたレーテに構わず、男は平淡な口調で告げた。
「仕事だ、来い」
「…………またか」
レーテが大きくため息をつく。すると、今まで何も言わなかったイリスがおずおずと口を出してきた。
「ま、まって……レーテ、具合が悪いみたいで……」
「黙れ」
そう言ってイリスを制したのは、やって来た男ではなくレーテ自身だった。
レーテの視線がイリスに向く。レーテ自身がどんな顔をしていたのかはわからないが、イリスが怯えたように息を飲んだ。きっと、レーテの奴はイリスを睨み付けたんだろう。
「余計な事は言うな」
冷たくそれだけ言い放つと、レーテはイリスには目もくれずに部屋を出た。
前を歩く男は何も言わない。きっとこれが、彼らの日常茶飯事だったんだろう。
そう思った次の瞬間頭の中にバチリ、と火花が飛ぶような感覚がして、気づいたら俺は大きな屋敷の裏手にいた。
夜中なのか、暗いしとても静かだ。
「いいか、入ったらすぐに鍵を開けろ」
すぐ後ろから声が聞こえる。
レーテは振り向かなかったが、その聞こえてきた声はさっきレーテとイリスの部屋にやって来た男と同じものだった。
レーテは少し進むと、屋敷の壁に手を突く。
そして次の瞬間、レーテは屋敷の中にいた。
俺は驚いたが、レーテは驚く様子はない。すぐに身を隠すように家具の横に身を滑らせたが、屋敷内は何の音もしないし、どうやら気づかれてはいないようだ。
レーテは音をたてないように素早く屋敷内を進み、裏口を見つける。
慎重に扉を確認し、罠が仕掛けられていないのを確認すると内側から扉を開く。
そして夜空に向かって小さな電撃を放った。きっと、それが合図だったのだろう。闇から溶け出たように、黒装束を身に纏った何人もの人影が姿を現した。
「……てめぇはここで見張ってろ」
黒装束の一人に小声でそう言われ、レーテは無言で頷いた。
そのまま黒装束たちは屋敷の奥へと消えていく。レーテはその場から動かずに、じっと屋敷の中と外に目を凝らしていた。
やがて屋敷の奥からは、どたどたという物音、何かを殴りつけるような音、人のうめき声などが小さく聞こえてきた。
……さっきの黒装束たちが屋敷の奥に向かって何をしているのか、嫌な想像が俺の頭をよぎった。
レーテはじっと足元を見つめている。
すると、小さな泣き声が聞こえ、レーテは素早く周囲に視線を走らせる。
暗闇から、何かが動く気配がした。
レーテは素早く飛び出し、そこに潜む者へと飛び掛かる。
だがそこにいたのは、まだ幼い……さっき見たイリスよりも幼い女の子だった。
「パパ、ママ……」
女の子が大きく顔を歪めたので、レーテは慌てた様子で女の子の口をふさぐ。
そのまま引きずるように女の子を裏口まで連れてくると、女の子を外に押しやって押し殺した声で言い聞かせはじめた。
「逃げろ、今すぐ!!」
「パパとママが……っ!」
「いいから、外へ出たらできるだけ遠くに逃げろ!! 私の言ってること、わかるな!?」
レーテはしきりに屋敷内の様子を気にしている。さっきの黒装束が戻ってくるのを恐れているのかもしれない。
女の子は渋っていたが、レーテの鬼気迫る様子に幼いながらもただならない状況を察したのだろう。
震えながら屋敷の外へと走り出す。
レーテはその様子をじっと見つめていた。ぎゅっと握りしめた拳が汗ばんでいる。
あの黒装束たちは、レーテに裏口を見張れと言っていた。彼らのしていることを考えれば、どう考えてもさっきの女の子を逃がしたのを良しとするはずがない。
……しばらくたって、屋敷内からは何の物音もしなくなった。そして、屋敷の奥から再び黒装束が姿を現す。
「撤収するぞ」
黒装束たちからは、確かに濃い血の匂いがした。俺はぞっとしたが、レーテは何も言わずに彼らの後に続く。
そして屋敷から遠ざかる途中、レーテは信じられないものを目にした。
先ほどレーテが逃がした幼い女の子。その女の子が、屋敷から少し離れた所で血だまりの中に倒れていた。
小さな女の子は泣き声一つ上げず、ピクリとも動かない。
……既に事切れているのは、一目でわかった。
レーテはその女の子の姿を見た途端、凍りついたように動かなくなった。
女の子の亡骸の前で立ち竦むレーテに気が付いたのか、黒装束の一人が声を掛けてくる。
「あぁ、レーテ。一匹逃がしてたぞ、気をつけろ」
黒装束はレーテの傍にやって来ると、低い声で告げた。
「…………次にヘマしやがったら、こうなるのはお前の妹だ」
その言葉にレーテの肩がびくりと跳ねる。
まるでレーテがわざと女の子を逃がしたのをわかっているかのように、黒装束はそう言って低く笑った。
レーテがぎゅっと拳を握りしめる。
そして意を決したように、女の子の亡骸から視線を外し黒装束たちの後を追う。
そこでまた頭の中で火花が散る様な感覚がして、俺は違う場所にいた。
次々に、レーテの記憶の断片が現れる。
窃盗、強盗、殺人、人体実験……。レーテとイリスを捕えていた魔術結社は、思わず目を覆いたくなるような悪事を繰り返している。
さっき屋敷に侵入したように、レーテの持つ特殊な力は際限なく彼らの悪事に利用されていた。
レーテが反抗しようとすると、彼らはイリスの存在をちらつかせレーテを押さえつけた。
きっとレーテ一人ならどんな手段でもここを逃げられただろう。でも、イリスが一緒だとそうはいかない。
イリスは魔術結社の悪事に駆り出されることはなった。それがまた、レーテを苛立たせているようだ。
イリスはいつも心配そうにレーテに声を掛けてくるが、レーテはイラついたように怒鳴り散らすことが多かった。
悪事に手を染めているという罪悪感と、妹の存在。
その二つに板挟みになり、レーテは……苦しんでいたんだろう。
ある日、とある要人の殺人を命じられたレーテは、その途中で……逃げ出していた。
はっと我に返り戻ろうとしたが、遠くに黒装束の姿が見えた途端レーテの足は止まった。
レーテの記憶に入り込んでいても、レーテの感情まではわからない。
でも、想像することはできる。
……きっとレーテはもう限界だったんだろう。
自分の力が、罪もない人を傷つけるのが。
そして、レーテはイリスを置いて逃げ出した。
俺には、その行為を責めることはできない。
俺は知らなかった。レーテの過去に何があったのか。あいつが、どんなものを抱えているのかを。
いきなり人に電撃を浴びせかけて体を乗っ取る様なとんでもない奴だ。
絶対に許せないし、見つけたらボコボコにしてやろうと思っていた。
……レーテは、そんな俺の怒りなんて馬鹿馬鹿しくなるくらい、重いものを抱えていたんだ。
あいつは俺に体を返すのを渋っていた。てっきり勇者として称賛を浴びたいからそう言っているのかと思っていたが、きっと違うんだろう。
あいつは別人になりきることで、自分が抱えた凄惨な過去から逃げ出そうとしていたのかもしれない。
態度は冷たかったし、結局は見捨てるような形になってしまったけど、イリスのことだって本心では大切に思っていたはずだ。
そうじゃなければ、もっと早い段階で逃げ出していただろう。
一度見捨てたはずの妹が生きていた。
仲良くなかったから会いたくないなんてレーテは言っていたけど、きっとあいつは……再会したイリスに、自分を見捨てた事を糾弾されるのが怖かったんだろう。
俺は、そんなレーテの思いに気が付かなかった。
いきなり体を入れ変えられた自分の事を不幸だと思っていたけど、きっとレーテからしたら俺なんて腹立たしくてしょうがない存在だったんだろう。
優しい家族に囲まれて、勇者に選ばれて、体を取られてからもテオにヴォルフにリルカ……いつでも傍にいてくれる人がいた。
レーテや、ティレーネちゃんが晒されていた境遇に比べれば、なんて恵まれていたんだろう。
俺は、そんな事も知らなかった。知らなかったんだ。




