21 ヴォルフの決意
「……随分と物騒な事をおっしゃるんですね」
吸血鬼は驚いたように目を丸くした。その白々しい態度に、思わずヴォルフは舌打ちする。
ヴォルフはただ、この世界から出ていくかここで死ぬか選べと言っただけだ。
散々この世界を滅茶苦茶にしておいて、今更何が物騒だと言うのだろう。
「しかし、心配されなくても用が済めば再び魔界へと帰還するつもりでしたよ」
「じゃあさっさと帰れ」
「用が済めば、と言ったでしょう。残念ながらまだ私の目的は果たされていませんので」
そう言うと、吸血鬼は大げさな仕草でため息をついた。
「貴方は御存じないのでしょうが、魔界と言う場所はとても殺伐としたところなのです」
「知るか、どうでもいい」
「まあまあそんな事をおっしゃらずに。貴方にとっても悪いお話ではないのですから」
吸血鬼は不気味なほど優雅な笑みを浮かべている。
ヴォルフは一瞬たりとも目を離さないようにしながら吸血鬼を睨み付けた。
奴のペースに飲まれたら終わりだ。どんな手を使ってでも目の前の吸血鬼を消す。それだけを考えなければ。
「簡単に言えば、私は戦力を欲している。魔界でのし上がる為には、他者を圧倒する力が必要ですから」
吸血鬼は真っ直ぐにヴォルフと視線を合わせてそう告げた。
「この世界には魔界にはない興味深い力を持つ者がいましてね……貴方も、貴方の大事な聖女もその一人です」
自分の持つ力、クリスの持つ力。
目の前の吸血鬼は、その力を欲しているというのだろうか。
「そこで提案です。私に協力をしていただけませんか?」
吸血鬼は朗らかな笑みを浮かべてそう告げた。
「協力……」
「簡単な事です。私の同志となって、共に魔界の頂点に立つために戦っていただきたいのです」
「あんたの同志はあの枢機卿じゃないのか」
ヴォルフ達とあの枢機卿は敵対関係にある。
だったら、枢機卿の仲間だというこの吸血鬼と手を組めるはずなどないこともわかっていそうなものだが。
そう口にすると、吸血鬼はやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
「確かに、ニコラウスの目的は貴方と共にいるあの聖女です。貴方が彼女を独占したままでは、彼の協力が得られなくなってしまう。そこで私は考えました」
そして吸血鬼は、優雅にと笑うとゆっくりと口を開いた。
「貴方の聖女を、たまにでいいのでニコラウスに貸してやってもらえませんか?」
「…………は?」
思ってもみなかったことを言われて、ヴォルフは思わず吸血鬼を凝視した。
だが吸血鬼はヴォルフの動揺など気づいてもいない様子で、名案を思い付いたとばかりに目を輝かせている。
「所有権は貴方が持っていても良いでしょうし、使いたい時には使えばいい。ただ、ニコラウスが彼女を欲した時に貸してやって欲しいのです」
「何を、言って……」
ヴォルフには目の前の吸血鬼の言っている意味が理解できなかった。
いや、吸血鬼が言っていることの意味自体はわかる。だが、理解したくはなかった。
「……貸すとか使うとか……クリスさんは物じゃない」
何とかそれだけ言い返すと、吸血鬼は愉快そうに笑った。
「物と同じですよ、人間なんてね!」
その途端、ヴォルフの中で何かが崩壊した。
冷静でいなければならない、と決めたのも忘れて、ヴォルフは怒りのまま吸血鬼に向かって氷柱を撃ち込んだ。
だが、吸血鬼はひらりと身をかわすと、不思議そうにヴォルフを見返してきた。
「何を怒っているのです。貴方にも悪い話ではないでしょうに」
「……人間は物じゃない。クリスは渡さない」
はっきりとそう告げると、吸血鬼は不快そうに眉をしかめた。
「貴方はまさか……あの人間に心奪われたなどと言うつもりではないでしょうね」
「……だったら何だっていうんだ」
そう言い返すと、吸血鬼はやれやれ、と言った様子で肩をすくめた。
「魔族の血に目覚めたばかりと考えれば無理もないのかもしれませんが、いけませんよそんな事は。魔族が人間に心奪われる、なんてあってはならないことです」
「そんなの僕の勝手だ」
「いえ、貴方のその行動自体が吸血鬼の品位そのものを貶めかねないのです。我々は人間を惑わし、その身と心を捧げさせる立場にあるのですから!」
吸血鬼は憤慨した様子でそう告げた。
なるほど、彼の持論では魔族は人間よりも上位の立場にあるので、ヴォルフのように人間に心を奪われるなんてことはあってはならないらしい。
勝手な事を……と内心でヴォルフは吐き捨てた。
少なくとも勝手に人の世界にやってきて好き放題している奴に、品位がどうこうと言われる筋合いはない。
「……何とでも言えばいい。僕の思いは変わらない」
クリスを好きでいてもいいのか。
それはもう何百回も自問自答したことだった。
ヴォルフもクリスも、様々なしがらみを背負っている。自分がクリスを愛することで、クリスにはまた一つ重荷を背負わせることになるのかもしれない。
そう考えたが、心は止められなかった。
初めて、心から好きになった人だった。
幼いころに母を失い、愛情というものがよく分からなくなった。
そんな自分を連れ出し、育ててくれた第二の母とでも言うべき人が死んだとき、ヴォルフは悟った。
自分が大切に思った人はすぐに死んでしまう。もう、誰とも深くかかわってはいけないと。
そうやって生きていくつもりだったが、その目論みはすぐに崩されることとなった。
常識はずれの勇者と、どう見ても女なのに自分を男だと言い張るおかしな二人によって。
初めてクリスに会った時、自分は死んで遂に天使が迎えに来てくれたのかと思った。
だが、その天使はすぐに怒り、泣き、わがままを言って周囲を困らせていた。すぐに最初に抱いたイメージは崩れ去った。
ヴォルフは成り行きでクリスとテオ、おかしな二人に同行することになった。
すぐに二人からも離れるつもりでいた。だが、結局はその機会を見つけられなかった。
クリスの甘い言動に苛立つことも多かったが、不思議と目が離せず、気がつけばその輝く金髪を、ころころ変わる表情を目で追っているような状態になっていた。
旅の仲間に幼い少女が増え、守るものが増えた。
何度も危険な目に遭ったが、その度に何とか生き延びることができた。
特にもう二度と戻らないと決めたはずの故郷に戻った時には、きっと自分はここで死ぬのだと思い込んでいた。実際、叔父のグントラムや神獣フェンリルと対峙した時は、一歩間違えれば殺されていた。
精霊と契約することのできないヴォルフは出来損ないだ。
それは、何度も何度も叔父から言われた事だ。精霊と契約できない自分はヴァイセンベルク家の正式な一員としては認められない。
自分の存在自体を否定されるような重荷から、ヴォルフはずっと逃げ続けていた。
やむおえなくフェンリルの所へ向かった時も、契約なんてできるはずがないと思っていた。
きっと自分はここで死ぬのだと、半ば諦めていたのだ。
そんな自分を変えたのが、クリスだった。
クリスはここで死んでいい人間じゃない。何がなんでもクリスを守り、テオ達の元へ帰さなければいけない。
そう必死で、気が付いたらフェンリルとの契約に成功していた。
クリスは、長い間ヴォルフを縛っていた呪縛を解き放ってくれたのだ。
その時から……もしかしたらもっと前から、ヴォルフにとってクリスは特別な人になっていたのかもしれない。
わがままだし、文句は多いし、大雑把で人の言う事は聞かないしすぐに一人で突っ走って行く。
でも、そんな欠点すらも好ましく思えた。
自分の気持ちを伝えるつもりはなかった。ただ、テオやリルカも交えた穏やかな時間がずっと続けばいいと思っていた。
そんなささやかな願いさえも、あっけなく打ち砕かれてしまった。
テオが処刑された。
最初にその報を聞いた時、ヴォルフは自分がどんな様子だったのかを全く思い出せない。
ただ、隣で泣きじゃくるリルカを慰める余裕もないほどに憔悴していたのは確かだろう。
信じられない、信じたくなかった。
すぐに近くにいたフィオナにリルカのことを頼み、その足でアムラント島を飛び出した。
そして、テオとクリスの足取りを必死で調べた。
結局分かったのは、間違いなくテオが処刑されたという事実だけだった。
心がばらばらになりそうなほどに悲しかったが、ただ一つだけ希望があった。
テオと一緒にいたはずのクリスについては、処刑されたという記録が無かったのだ。
ただ単に記録に残らなかっただけなのかもしれない。状況から見て、ほぼ確実にクリスも殺されているだろう。
頭の中の冷静な部分はそう告げていたが、どうしても諦めたくはなかった。
そして、その日からヴォルフはクリスを探し始めた。
何度も諦めろと言われた。
女なんて星の数ほどいるんだから、他の奴にしろと馬鹿にされたこともあった。
それでも、ヴォルフはずっとクリスを探し続けた。
情報を得るために解放軍に入って、クリスとよく似た特徴の女がいたと聞けば、すぐに飛んで行った。そのほとんどが空振りに終わったが、一年と少し経った頃、奇跡は起こった。
クリスは生きていた。またヴォルフの元へと戻ってきてくれたのだ。
その時は、初めて神に感謝した。
もう二度と離れない。
何があっても守って見せると固く心に誓った。
自分が大切に思った人はどんどん死んでいく。
それでも、クリスは今も生きている。
クリスの存在は、ヴォルフにとって最後の砦だ。
次にクリスを失えば、きっともう自分は自分ではいられなくなる。
元が男であろうと女であろうと、前世が誰であろうと関係ない。
クリスは忌まわしい吸血鬼に成り果てたヴォルフを受け入れてくれた。一緒にいて欲しいとすら言った。
……誰よりも、愚かで優しい最愛の人。
クリスの心は傷つきやすく、壊れやすい。
……だから、クリスを傷つける可能性がある者はすぐに排除しなければならない。
ヴォルフ自身は、世界の行く末にそこまで興味はなかった。どれだけ世界が変わろうと、ヴァイセンベルク家は存続しつづける。それだけは確かなのだから。
重要なのは世界ではない。
ヴォルフにとっては、魔界だろうと地獄だろうとそこにクリスがいてくれればそれでよかった。でも、クリスはそうじゃない。
あの人は、今のこの世界を守りたいと願っている。傷つきながらも、前に進もうとしている。
だったら、自分もクリスの思いを守らなければならない。
その為には、目の前の吸血鬼の排除が不可欠だ。
「……お前は、ここで殺す」
素直に魔界へ帰ればそれでよかったが、どうやらその気はないようだ。
だったら、殺すしかない。




