25 繋ぐ人
手に取ったクリストフの日記は、以前読めなかった箇所がところどころ読めるようになっていた。
ぱらぱらとめくると覚えのある町の名前や出来事が目に入り、アンジェリカは懐かしさに少しだけ頬を緩ませる。
かつて、まだ自分に待ち受ける運命など知らずにアウグストとクリストフと一緒に各地を巡っていた頃。
アンジェリカは確かに……幸せだった。
ページを進めると、以前も目にした大地の中心――テラ・アルカへ向かう前の箇所へとたどり着いた。
だが完璧に復元できたわけではないようで、相変わらずリルカやヴォルフから見れば不明瞭な内容になっている。
彼らはテラ・アルカを目指している。その正確な場所を、そこに何があるのかを、アンジェリカから聞き出したいのだろう。
だが、アンジェリカは話すつもりはない。
きっともう一度そこに行ったら、もう後戻りはできないから。
アンジェリカは黙って読み進めた。
テラ・アルカへ向かったころから、頻繁に日記を書く余裕もなくなったのか、日記に記された内容はどんどん簡素になり、日付の間隔も開いていった。
そして、あの日。
アウグストとクリストフは異界からの門を通ってやってくる竜の大群を迎え撃ち、アンジェリカは秘密裏にこの世界へとやってこようとしていたルディスを退けた日。
――再会を祈る。
と簡素な一文のみが、クリストフの日記には記されていた。
その先を、アンジェリカは知らない。
クリストフの祈りは届かずに、二度と二人と会うことなくアンジェリカは死んだのだから。
ページをめくろうとする自分の手が震えているのに気が付いた。
この先を見るのが怖い。それでも、手は勝手にページをめくっていた。
――アンジェリカが死んだ。
最初に目に入ってきたのはその言葉だった。
その後には、信じられない。きっと誤報に決まっているというクリストフの叶わぬ願いが記されていた。
その部分を見て、アンジェリカは少し安堵した。少なくとも、仲間は自分を心配していてくれたようだ。
そしてその先には、アンジェリカの知らない彼らの行動が記されていた。
アンジェリカの死は、すぐさまアウグストとクリストフの二人にも伝わったようだ。
二人はすぐに事の真偽を問いただしにティエラ教会へと喰いついたが、先手を打たれていた。
既に名の知られていたアウグストは家族を人質に取られ、教会に従わざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。
何とかアンジェリカの遺品数点だけを確保したアウグストは、お前だけは逃げろとクリストフに告げた。その時点で、クリストフはまだ教会に名も素性も知られてはいなかった。
クリストフは王都を離れ、故郷へと逃げ延びた。やがて勇者アウグストの名が大々的に持て囃されるようになって、クリストフは悟った。
アウグストもティエラ教会の闇には太刀打ちできなかった。
教会は、アンジェリカの存在を、彼女の身に起こったことを完全に抹消したのだと。
ただの片田舎の剣士でしかないクリストフには、それ以上手は残されていなかった。
今教会に反旗を翻せば、故郷や家族まで巻き込んでしまう可能性がある。
そこでクリストフは実家の納屋の地下に秘密裏に部屋を作り、アンジェリカの遺品をそこに保管した。
誰にも、壊されないように。
「……そう、そんなことがあったのね」
アンジェリカは女神ティエラを信じていた。その心は今も変わらないが、ティエラを信望する団体、ティエラ教会は所詮人が作ったものだ。
自分たちに不都合なことがあれば、全力でつぶしにかかることも容易に想像できる。
でも、仲間たちが自分の事を心配していたのがわかったのはよかったのかもしれない。
「この後、クリストフは故郷で暖かい家族に囲まれて幸せな余生を過ごして……」
「そうでもないですよ」
アンジェリカが顔を上げると、ヴォルフに先を読めと促される。
どうせこの後なんて、クリストフの故郷に戻ってからの安穏とした生活が記されているだけだろう。
そうは思っていたが、アンジェリカは再びページをめくり始めた。
そして、そこに飛び込んできた文字に思わず目を見開く。
――アンジェリカに会いたい。あの時どうしてあいつを一人で行かせてしまったんだろう。
それは、アンジェリカの死んだ日から数年後の日付で記されていた。
数年たっても、クリストフはアンジェリカを死なせてしまった事を悔いていたのだろうか。
「でも、この後結婚とかして幸せな家庭を築いて……」
そんなアンジェリカの予想は、すぐに裏切られた。
その後のクリストフの日記は、あまり頻繁に記されることはなく数年単位で書かれないこともあったが、数十年にわたって書き込まれた形跡があった。
どのページをめくっても、そこにはアンジェリカの名前と、彼女への切々とした思いがつづられていた。
――アンジェリカに会いたい。もしその願いがかなうのなら、何もかもを捧げるのに。
――自分は大馬鹿だ。時間を戻せたら、すぐにでもあいつを救いに行くのに。
――いったいこれから、自分はアンジェリカのために何ができるのだろうか……。
最後の一ページまで、途切れずにクリストフからアンジェリカへの思慕の念が記されていた。
「クリスさんって、クリストフの直接の子孫じゃないんですよ」
ヴォルフがぽつりとこぼした言葉に、アンジェリカは思わず息を飲む。
「……嘘よ。だって、昔からそう聞いて、」
「確かにクリスさんの故郷のビアンキ家とクリストフの生家は同じものですけど、クリスさん自体はクリストフの弟の血筋らしいんです」
その言葉が信じられずに、アンジェリカはヴォルフを見つめた。
だって、昔からクリスは「剣士クリストフ」の子孫だと聞いていたのに。
「クリスさんのお父上に聞いたんです。『クリスはそう信じてるから、秘密にしてほしい』って言われてたんですけど……。クリストフは生涯独身を貫いたので、彼の直接の子や孫はいないんです」
ヴォルフに告げられた言葉に、アンジェリカはひどく衝撃を受けた。
だってクリストフは故郷に戻って、結婚をして家族に囲まれて、幸せな余生を過ごしたと思っていたのに。
なのに、どうして……。
「クリストフが生涯結婚をしなかったのは……あなたの事を、思っていたからじゃないんですか」
思ってもみなかった言葉に、アンジェリカの体がびくりと震える。
再び日記に目を落とすと、その日付が目に入ってきた。
アンジェリカが死んでから、何十年も後の日付だ。
「教会にあなたの存在が消されても、クリストフさんは、ずっとあなたの事を忘れなかった。あなたが救った世界で、生きていたんだよ」
リルカがそっと口を開いた。
アンジェリカものろのろと顔を上げる。
確かに、アンジェリカの行いによって世界は救われたといってもいいだろう。
だが、ルディスは再びこの世界に魔の手を伸ばし、世界は再び危機に陥っているではないか。
「でも、またルディスがやって来てる。私のしたことは無駄に……」
「無駄じゃないよ」
リルカがそっとアンジェリカの手を握った。そして、一言一言言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「あなたのおかげで、今の世界がある。あなたのおかげで、今リルカたちは生きてる。だから……ありがとう」
そう言うと、小さなホムンクルスの少女は深く頭を下げた。
その様子を見て、アンジェリカの胸に熱いものが込み上げる。
クリスの目を通して、アンジェリカも今の世界の事は知っていた。
嫌な事、理不尽な事も多いけど、今もこの世界は美しくあり続けている。
「私のしたこと、無駄じゃなかった……?」
ぽつりとそう呟くと、レーテが呆れたようにため息をついた。
「今も君の熱狂的なファンがいろいろやらかしてるだろ。よくも悪くも影響力はあった、ってことだよ」
「熱狂的なファンって……まさかニコラウスのこと?」
「そう。あいつの牛耳ってる修道院ではさ、君のこと『奇跡の聖女』とか大層な呼び名で呼んでるみたいだよ」
アンジェリカは黙り込んだ。
かつて親交のあった修道士、ニコラウスがアンジェリカを欲しているのは知っている。
だが、アンジェリカとしては何故彼がそこまで自分に執着するのかがわからなかった。てっきり自分の持つ力を必要としているのかと思っていたが、レーテの話を聞く限りはそうでもないのかもしれない。
「テオさんだって、百年以上もあなたとの約束を守って戦い続けてきたんです。だから、それを無駄だなんて言わないでください」
アンジェリカの目から、再び涙が溢れだした。
公の歴史の中に、自分の名前や功績は残らなかった。
でも、クリストフのように確かに自分のことを覚えていて、今に繋げてくれた人がいる。
テオのように自分が残した思いを、ずっと守り続けていた者もいる。
そして、今もこの美しい世界は新たな命を育みつづけている。
…………アンジェリカのしたことは、無駄ではなかったのだ。
「……うっ、ひぅっ…………」
思わず嗚咽がこぼれた。
ずっと悲しかった。悔しかった。
あんな所で、無残に殺されたくはなかった……!
その思いは今でも変わらない。でも、変わったものもある。
「ごめんなさい……」
アンジェリカはそっと涙を拭いて前を向いた。
三人は、そんなアンジェリカをじっと見つめている。
「クリスのこと、乗っ取ろうとかそういうつもりはなかったの。この子を守ろうとしていたのは本当。でも……表に出てきたら、クリスが羨ましくなって」
好きなものを食べて、好きなものを買って、好きな事をする。
アンジェリカがずっと欲していたものだ。
「……クリスの心、少しずつ回復してきてる。きっともうすぐ目覚めるわ。だから……」
もうすぐクリスが目覚めて、アンジェリカはまたクリスの奥深くに戻ることになる。
その前に、どうしても言っておきたいことがあった。
「クリスのこと、守ってね。私みたいにならないように……」
それだけ告げると、アンジェリカはそっと目を瞑った。
そして次の瞬間、彼女の体はふらりと倒れ込んだ。
「っ!」
慌ててヴォルフが抱き留めると、アンジェリカはぐったりと力を抜いているようだった。
呼吸に苦しげな様子は見られない。まるで眠っているように見えた。
「……取りあえず、部屋に戻ろう」
レーテにそう言われ、ヴォルフは力の抜けた体を抱え上げた。
彼女の言葉が正しいのなら、きっともうすぐ「クリス」が目覚めるはずだ。
『クリスのこと、守ってね。私みたいにならないように……』
アンジェリカに言われた言葉を、何度も頭の中で反芻した。




