21 もう一人のクリス
「あっ、見て! これかわいい!!」
町に繰り出したクリスは、目を輝かせて服やアクセサリーの物色をしていた。
リルカはてっきり離れていた一年ほどの間に、クリスもそういうものが好きになったのかと思った。
だが、リルカよりもずっと前にクリスと再会したはずのヴォルフは、まるで奇妙なものでも見るような目でクリスを凝視していた。
……やっぱり、今のクリスはどこかおかしい。
「リルカ! これどうかな?」
クリスは店の窓から見えるネックレスを指差している。
リルカもそっと覗き込むと、そのネックレスは高価そうな宝石に彩られているのが見えた。ちらりと値段に目をやれば、ネックレスひとつで優に数か月は暮らしていけそうなほどの高値がついている。
……さすがに、これは買えないだろう。
「ねぇ、買って買って!」
クリスが甘えるようにヴォルフの腕にしがみついた。
リルカは驚いたが、それはヴォルフも同じだったのだろう。引きつった顔でクリスを引きはがそうとしている。
「……こんなに高いの、金の無駄遣いですよ」
「いいじゃない。あなたの実家、お金持ちなんでしょ」
クリスが拗ねたようにそう口に出した。その途端、ヴォルフの表情が凍りついた。
リルカも自分の耳を疑った。
確かにヴォルフの実家であるヴァイセンベルク家は大陸でも有数の貴族だが、そんな気軽に金の無心ができるような間柄ではないのは、クリスだって良く知っているはずなのに。
元々そこまでネックレスが欲しかったわけでもなかったのか、クリスは他の何かに興味がうつったかのようにぱっと走り出した。
リルカはその後ろ姿を呆然と眺める事しかできなかった。
「やっぱりあいつ、頭でも打ったのか?」
一緒に来ていたレーテが不快そうに吐き出した。
頭を打った……かどうかはわからないが、リルカの目にも今のクリスはまるで別人になってしまったかのように見える。
いったい、どうしたんだろう。
リルカが思考を巡らせようとした時、さっきとは別の店を覗き込むクリスの足元に、小さな二匹の子犬が現れたのが見えた。
あれは、クリスが契約する精霊……スコルとハティだ。
スコルとハティが何かクリスに話しかけたように見えた。
だが、次の瞬間クリスは鬱陶しそうに手で何かを払いのけるようなしぐさを見せた。その途端、スコルとハティの姿は空気に溶けるように消えてしまった。
「えっ!?」
リルカは自分の目を疑った。
今、クリスは何をした?
「ヴォルフさん、あの……スコルとハティを呼んでもらってもいいかな……?」
リルカは慌ててヴォルフにそう頼みこむ。
何かを察したのか、ヴォルフはすぐに頷いた。クリスの監視はレーテに任せて、そのままリルカとヴォルフは人気のない路地裏へと移動する。
「……フェンリル」
ヴォルフがそう呼びかけると、すぐに精霊フェンリルが姿を現した。
その途端周囲の気温が一気に下がり、すぐにリルカの足元にスコルとハティが姿を見せた。
『リルカー、聞いてよー!』
『クリスってばひどいんだよー!!』
子犬たちは憤慨したようにキャンキャンと鳴いている。
いきなり姿が消えたので驚いたが、特に異常はなさそうだ。リルカは安堵した。
「さっき、何があったの……?」
地面にしゃがみこみ二匹にそう問いかけると、子犬たちは待ってました! とばかりにまくしたてた。
『クリス、あの辺の元素をいじってボクたちが出てこれないようにしたんだよー!』
『リルカもひどいと思うよね!?』
慰めるように二匹を撫でながら、リルカは今聞いたばかりの言葉を反芻した。
元素をいじって精霊の出現を押さえつけた? そんなこと……
「あの人に、できるわけがない……」
無理やり絞り出したようなひどい声で、ヴォルフが小さく呟いたのが聞こえた。
ヴォルフの顔は青褪めていた。でも、たぶんそれはリルカも同じだろう。
クリスには精霊の出現を押さえることはできない。
じゃあ、あれは誰だ?
考えても答えは出ない。
スコルとハティはあれを「クリス」だと言っていた。精霊が契約を交わした人間を間違えるとは思えない。……となると、やっぱりあれはクリスなのだろうか。
すぐに自分たちを害するようなつもりはないようだし、しばらくは様子を見よう。という事でリルカとヴォルフの意見は一致した。
本当はいますぐにでもクリスを問いただしたかったが、ぐっと我慢した。
相手が何者かわからない以上、急いては事を仕損じるだけだ。
「もう、どこに行ってたの?」
リルカとヴォルフが路地裏から出ると、頬を膨らませたクリスが走り寄って来た。
「あっちにかわいい髪留めがあってね! 絶対リルカに似合うと思って!!」
そう言うとクリスは嬉しそうに笑った。その笑顔を見てリルカの胸は痛んだ。
今目の前にいるのは、いったい誰なんだろう。
スコルとハティへの態度をはじめとして、明らかに今までのクリスと違うというのはわかる。
でも、今目の前にある優しい笑顔だけは、リルカの大好きなクリスのものと同じだった。
◇◇◇
「あー、楽しかったっー!!」
クリスの望み通りに買い物を終えて、四人は町はずれの宿へ戻ろうと人気のない道を歩いていた
前を行くクリスは、鼻歌をうたいながら飛び跳ねるように歩いている。
随分と機嫌が良さそうだ。両手に持ちきれないほど衣服やアクセサリーを買ったからだろうか。
肝心の荷物をほとんど持たされたヴォルフは、げんなりとした様子でクリスを眺めていた。
リルカもちょっぴり同情してしまう。
「楽しめたようならよかったよ。……じゃあ、そろそろ聞いてもいいかい?」
リルカの隣を歩いていたレーテが優しくクリスに声を掛けた。
クリスが足を止めて振り向く。
レーテはすぅ、と息を吸うと、底冷えするような声を放った。
「お前は誰だ」
リルカは思わず息を飲む。レーテは刃のように刺すような鋭い視線をクリスに向けていた。
クリスはしばらく呆気にとられた様子でレーテを見つめていたが、やがておかしそうにくすくすと笑いだした。
「何言ってるの? クリスだよ、クリス・ビアンキ。あなたも知ってるでしょ?」
クリスがそう言った途端、レーテは止める間もなくクリスに向かって電撃を放った。
ヴォルフの慌てたような声が聞こえる。リルカもレーテの腕を掴んだが、もう遅かった。
クリスは相変わらずぽかん、とした様子で迫りくる電撃を見ていた。
そして電撃が直撃する直前、クリスは顔の前で軽く手を振った。
それだけでクリスの前に強固な魔法障壁が現れ、レーテの放った雷撃を弾き飛ばした。
リルカはその光景を見て固まった。
クリスは詠唱なしで魔法を使う事はできなかったはずだし、呪文を唱えて作り出す魔法障壁はもっと脆いものだったはずだ。
「……いきなり何? びっくりするんだけど」
クリスは相変わらず微笑んだままだ。
どこか余裕すら感じさせるその態度に、リルカの背筋はぞくりと震えた。
「……やっぱりね。残念だけど、そいつはそんな高度な魔法は使えないんだよ」
「さっきの話? まだそんな事言ってるの? だからクリス本人だって……」
「確かに、体も魂も変わりはない。……でも、顕在意識は別物だ。そうだろう?」
レーテがそう告げると、クリスはそこではじめて驚いたように目を見開いた。
「ど、どういうこと……」
リルカは何が何だかわからなくてそう呟くと、レーテはクリスから目を離さないまま教えてくれた。
「二重人格、みたいなものだろ。あいつがそうだとは気付かなかったけど、でも、」
「……ふふっ、あははは!!」
レーテの言葉の途中で、場違いに楽しそうな笑い声が聞こえた。
見れば、クリスが腹を抱えておかしそうに笑っていた。
「二重人格、かぁ……まあ、そうとも言えるのかな。ごめんね? そんなに驚かせるつもりはなかったの」
そう言うと、クリスはにっこりと笑った。
「私はあなたたちのことよーく知ってるから。どうしても初対面って気がしなくって!」
クリスは順番にゆっくりとリルカたち三人の顔を見まわした。
その表情は嬉しそうで、どこか親しみすら感じさせた。
リルカは困惑した。目の前のクリスの姿をした誰かは、リルカたちの事を良く知っていると言った。
二重人格、というものがあることはリルカも知っていたが、それがどんなものかまでは良く知らなかった。
呆然とするリルカの前で、クリスの姿をした誰かは、嬉しそうに告げた。
「初めまして……になるのかな? 私はアンジェリカよ」
隣にいたヴォルフが息を飲んだのがわかった。リルカも、信じられない思いで目の前の人物を見つめた。
クリスとアンジェリカの関係は、リルカもレーテも簡単にだが聞いていた。
そう、アンジェリカは……クリスの前世だという女性の名前だったはずだ。




