20 お前の隣は本物か
瞬く間に水中に引きずり込まれ、とっさに濁った水を飲んでしまった。
「っ……げほっ!!」
何とか池のふちに生えていた草を掴み、顔を水面に出す。
まだ足を引っ張られているが、陸地へ逃げようと無我夢中で抵抗した。
一体、何が俺の足を引っ張ってるんだ!? と恐る恐る振り向くと、そこには人間の子供くらいの大きさの、タコのような生き物がいた。
……間違いない、魔物だ。
まさか、こんな町に近い場所にまで魔物が潜んでいるなんて……。
とにかくこの魔物から逃げようと、俺は何とか足に巻き付くタコの足を引きはがそうと蹴り飛ばした。
だがその途端タコが俺の体を引っ張る力が一気に強くなり、再び水中へと引きずり戻された。
先ほどよりも深い場所まで引きずり込まれ、水辺の草にも手が届かない。
何とか泥を掻いて陸地へ上がろうとしたが、抵抗むなしく俺の体はどんどん池の底へと引きずられていく。
すぐに、息が苦しくなってきた。
助けを呼ぼうと手を伸ばしたが、水面には届かない。
あぁ、こんな濁った水の中じゃ、きっと誰かが傍を通っても俺には気づかないだろう。
もう息が続かない。
まさかこんな濁った池の中で魔物に襲われて溺死なんて、想像もしなかった嫌な死に方だ。
……でも、俺にはお似合いかもしれない。
ヴォルフとリルカには諦めないと言ったけど、やっぱり俺には無理だったんだ。
こんな魔物一匹も倒せないのに、世界を浸食しようとする邪神を倒せるわけがない。
アンジェリカはすごい人だったのかもしれないけれど、その生まれ変わりの俺はただ勇者に憧れているだけの普通の人間でしかない。
アンジェリカの記憶も、ただの宝の持ち腐れでしかなかった。
テオに申し訳ない。
俺さえいなければ、あいつが死ぬこともなかったのかもしれないのに。
(……悲しいの?)
あぁ、悲しいよ。
所詮俺はこんな汚い池で魔物の餌になるのがお似合いの人間なんだ。
(辛い? 苦しい?)
辛いし、苦しい。
本当はずっと逃げ出したかった。魔物と戦うのは怖いし、教団の奴らはもっと怖い。
そんな自分が嫌いだ。みんな、苦しくても頑張っているのに、どうして俺にはそれができないんだろう。
(……逃げ出したい?)
そうだよ、逃げたいよ。
俺には世界を救う力なんてない。そんなことずっとわかってた。
誰かが、代わりに世界を救ってくれればいいのに。
(じゃあ、私が代わってあげる)
そう頭の中に声が響いた途端、意識が真っ白に塗りつぶされた。
◇◇◇
急に何かが爆発したような音が聞こえ、リルカは思わず立ち上がった。
「何だっ!?……まさか!」
ヴォルフの顔が引きつる。すぐにリルカも思い当たった。
クリスが一人で外に出ている。もし、何か事件に巻き込まれたとしたら……。
リルカとヴォルフは顔を見合わせ、弾かれたように外に飛び出した。
爆発音は宿の裏手の方から聞こえてきた。
クリスがそちらに向かったという確証はない。だが、ざわざわと嫌な予感がリルカの胸中を支配していた。
しばらく走ると、道の脇にある池のほとりに放心したように座り込んでいる人影が見えた。
「クリスさん!」
ヴォルフが慌てたように人影に近づく。そこにいたのは確かにクリスだった。
全身ずぶ濡れで、足や手は泥にまみれている。……池に落ちたのだろうか。
ヴォルフの後を追ってクリスに近づくとその手前に落ちている物が目に入り、思わずリルカは足を止めた。
「ぇ…………?」
池のほとりには、ずたずたに引き裂かれたような魔物の死骸が落ちていた。
座り込むクリスに視線を戻す。ヴォルフが必死に何かクリスに呼びかけていたが、クリスはじっと黙って俯いたままだった。
「……すごい音がしたけど、何かあったの?」
その時降ってきた声にリルカが顔を上げると、道の向こうからレーテが歩いてくるのが見えた。
クリスはレーテに会いに宿屋を出て行ったはずだ。……となると、レーテに会いに行く途中で何かがあったのだろうか。
リルカがレーテに事情を説明しようとした時、蚊の鳴くような小さな声が聞こえた。
「…………たぃ」
リルカは開きかけていた口を閉じてクリスに視線を戻す。
クリスは感情の読めない瞳で自らの足元を見つめていた。
「汚れた、から……着替えたい」
「え? あぁ、それより大丈夫なんですか」
ヴォルフの問いかけに、クリスは黙って頷くとしっかりとした足取りで立ち上がった。
そのまますたすたと宿の方へ歩き出したので、リルカは慌ててその後を追いかける。
……あの魔物の死骸の事が気にかかったが、何故だか今は聞いてはいけないような気がした。
◇◇◇
「やっぱり、何かおかしかった気がする……」
そう呟いたヴォルフに、レーテが呆れたように声を掛けてきた。
「そうかい? 足を滑らせて池に落ちたのが恥ずかしかったんじゃないか?」
「じゃあ、あの魔物の死骸は?」
「誰かが殺して放置してったんだろ。ビアンキの事だし、魔物の死骸に驚いて池に落ちたとかそんな所だろ」
あり得なくもない……と、ヴォルフは内心で納得した。
あの爆発音がなんだったのかはわからないが、クリスは無事だった。
池に落ちたのか泥まみれだったが、怪我はないようだ。
だが、どこか態度がおかしかった気がする。
レーテの言う通り、ただ羞恥心からおかしな態度を取っていたのならまだいい。
それでも、どこか引っかかるものがあった。
そう口にしようとした時、がちゃりと音がして部屋の扉が開く。
反射的にそちらに目を向けたヴォルフは、思わず目を見開いた。
扉の向こうには、クリスが立っていた。
……やたらと短いスカートを身につけて。
「……君って、そう言う趣味があったんだ」
呆気にとられたようにレーテがそう呟く。ヴォルフも目の前の光景が信じられなかった。
再会してからのクリスは以前と比べて時折女物を身につけることがあったが、あんなに短いスカートを履いているのは見たことが無い。
だが、あの短いスカート自体は目にしたことがある。
クリスの故郷を発つ時に、クリスの母親が持たせてくれた服の一つだったはずだ。
さすがにこんなものは恥ずかしくて着れないと、クリスがぶつぶつ言っていたのをヴォルフは覚えている。
じゃあ、何で今そのスカートを履いたのか?
別に他の服が無かったという訳でもないだろう。
短いスカートの裾からのぞく白い太ももに視線を吸い寄せられながら、ヴォルフは混乱した。
「リルカには話したんだけど、これから買い物に行かない?」
クリスはヴォルフとレーテの困惑など気づいていない様子で、にっこりと笑ってそう提案した。
その後ろからひょっこりとリルカが顔を覗かせる。
「あ、あのね……くーちゃん、もっと服が欲しいって……」
「だって、もっといっぱい可愛いのが欲しいんだもん」
クリスが頬を膨らませながら短いスカートの裾をつまむ。
スカートの裾が持ち上がり下着が見えかけたところで、ヴォルフは慌てて立ち上がった。
「い、いいんじゃないですかっ!?」
「だよね! 行こ行こっ!!」
クリスは軽い調子でそう返すと、リルカの手を引っ張ってぱたぱたと走って行った。
……どう見てもおかしい。
一体、何が起こっている……?
「……あいつから目を離すなよ」
低く警戒したような声でレーテがそう呟く。その声で、ヴォルフははっと我に返った。
レーテの目から見ても、今のクリスは異常なのだろう。
嫌な予感を覚えつつ、ヴォルフはクリスとリルカの後を追った。




