29 わかちあい
「ひゃあっ!?」
突如もたらされた刺激に体全体がびくりと跳ねる。
ちょっと待て、今のは何だ? 舐められた、耳を。
…………何で!?
「ななな……、何してっ」
「いいから」
俺の抗議など気にしていないように、ヴォルフは片手で俺の肩を抑えるとまた耳を舐め始めた。
濡れた感触とぴちゃぴちゃという音がダイレクトに耳に響いて、俺の頭は一気にパニックになった。
「ゃ、やだ……!」
「大丈夫だから」
一体何が大丈夫だと言うのか。
こっちは全然大丈夫じゃないんだよ!!
思わず後ろへ逃げようとした体は簡単に抑え込まれ、腰のあたりをがっちりつかむようにして引き寄せられた。
「ぅ、あっ……」
普段だったら殴って止めていただろう。
でも、経験したことない感覚に頭の中が真っ白になって、もうそれどころじゃなかった。
耳を舐められ、首筋をくすぐられ、腰に巻きついた手にびくりと体が震える。
「んっ……」
唇を噛みしめて漏れそうになる声を抑える。
頭がぼぉっとして、背筋がぞくりと震える。
体に力が入らなくなって、何とか崩れ落ちそうになるのを持ちこたえるので精一杯だった。
耳を舐めていた舌は頬へと移り、遂には首筋へとたどり着いた。
「ひっ……んんっ」
首筋を舐められた途端、体が大きく跳ねてがくりと足から力が抜けた。
だが崩れ落ちそうになった体は、腰に巻き付いていた手によって支えられ、そのまま寄り掛かる様な体勢になる。
もう全然体に力が入らないし、なんだか頭がふわふわする。
首筋に舌とともに、何か硬い感触が当たったのが分かった。
次の瞬間、ずぷりと一気に牙を刺しこまれる。
「ひぃんっ!!」
いつものように血を吸われている。だが、いつものような耐えがたい激痛はなかった。
痛いような、くすぐったいような……ぞくぞくとした感覚に背筋が震える。
牙が刺さった所から、じんじんとした甘い痺れが全身に回っていくような気すらした。
何とか自分の指を噛んでその感覚に耐えていると、充分に血を吸ったのかゆっくりと牙が抜かれる。
牙を抜かれると同時に体を離され、俺はぺたんと床に崩れ落ちた。
心臓がどくどくと早鐘を打っている。
体が熱い。一体、何がどうしてこうなったんだ……?
「うーん……やっぱり……」
堂々とセクハラをかましやがった張本人であるヴォルフは、何やらぶつぶつと呟きながら考え込んでいるようだった。俺の事などもう眼中には無さそうだ。
……おい、ちょっと待て。その態度はなんだよ!
「お、まえっ……何すんだよ!」
座り込んだまま睨み付けると、ヴォルフは驚いたように俺を見下ろしてきた。
……なんで何事も無かったような顔してるんだよ!
過剰反応しちゃった俺が馬鹿みたいじゃないか!!
「クリスさん、どうしたんですか!」
「ど、どうしたもこうしたもないだろ! このドスケベ吸血鬼がっ!!」
思いっきり怒鳴りつけると、ヴォルフは慌てたように弁解してきた。
「スケっ……!? ち、違います! 今のはそういう意味じゃなくて!」
「嘘つけ! やらしい感じで舐めたり触ったりしてきた癖に!」
「それは……っ! その、そうじゃなくて……」
ヴォルフは慌てたように白々しく言い訳を始めた。
俺はなんとか壁に手をついて立ち上がると、ヴォルフを問い詰める。
「なんでいきなりこんなことしたんだよ……」
血を吸われるのはいつものことだが、耳を舐められたり首を舐められたりしたのは初めてだ。
これが誰も見てない家の中だったからよかったものの。外だったら完全にアウトだ。即通報だ。
なんだろう、興奮してついやってしまったとかそんな感じなんだろうか。
相手が俺だったから良かったものの、普通の女の子だったら衛兵に捕まるぞ。
そう諭すと、ヴォルフは視線を床に落として申し訳なさそうに呟いた。
「昼間、キリルさんに聞いたんです」
「キリルさん……?」
確かに、昼間ヴォルフとキリルさんは二人で外に出ていた。
てっきり吸血鬼の生き方とかを学んでいるのかと思っていたが、まさかこんなセクハラの仕方を伝授されたとでもいうのだろうか。
「さっき、血を吸った時……普段と比べてどうでしたか?」
「えっ!?」
そう問いかけられ、自分でも頬が熱くなるのが分かった。
何て答えればいいんだろう。こいつは俺に何を言わせたいんだ……!
「普段より痛くないとか、そういうことは……」
「あっ、それそれ!」
あやうく恥ずかしい事を口走りそうになったが、どうやらヴォルフが聞きたいのは吸血時の苦痛についてらしかった。
「いつもより痛くなかった、と思う……」
意識がふわふわして痛みにまで気を配る余裕はなかったが、いつものように叫び出したくなるような痛みはなかった。それだけは確かだ。
そう答えると、ヴォルフは明らかにほっとした顔をした。
「キリルさんが言ってたんですけど、吸血するときに体が固くなってるとどうしても吸われる方は痛みを伴うらしいんです。だから、その前に舐めたり撫でたりして体をほぐしてやるといいって……」
「舐めたり、撫でたり……」
やっと合点が行った。
なるほど、そんな情報を聞いてさっそく俺相手に実践してみたという訳か。
生真面目なこいつらしい。たぶん、少しでも俺の苦痛を取り除ければいいとでも思ったんだろう。
それはわかる、わかるけど……
「だからって、いきなり耳舐められたら驚くだろ!」
「すみません、焦ってました」
ヴォルフは素直に謝罪した。本当に悪気はなかったみたいだ。
「あと、血の味も相手の精神状態によって変わるので、そういう状態の方が美味しく感じるので次の吸血までの期間を延ばすことができるらしいんです」
「へぇ……」
普段俺ががちがちになって嫌々血を吸われていたのがまずかったという訳か。
ということは、さっき吸った時は普段と味が違ったりしたんだろうか。
「それで、どうだった? いつもより美味かったりした?」
そう聞いた途端、ヴォルフは目の色を変えた。金色に。
……これは、魔族が興奮した時の反応だ。
「まぁ、効果はあったと思います……」
言葉は落ち着いているが、その目からは隠しきれない興奮が滲みだしていた。
なんだかヤバい雰囲気になりかけているような気がして、俺は慌てて空気を変えようと声を張り上げた。
「あ、あのさっ! いきなりこんなことした理由はわかったけど、これから吸血する時って……」
まさか、毎回あんなことをされるんだろうか……。
想像して、また顔が熱くなった。
だがそんな俺とは対照的に、ヴォルフは悲しそうに視線を落とした。
「その、つもりだったんですけど……そんなに嫌がられるとは思ってなくて……」
その意気消沈した様子を見ていると、なんだか俺の方が悪い事をしているような気分になってきた。
きっと、ヴォルフも俺のためによかれと思ってやったことなんだろう。
確かに言われたとおりいつもより痛くなかった。それに原理はよくわからないが次の吸血までの期間を延ばせるって事は、今までよりも吸血の回数を減らせるってことなんだろう。
そう考えると、なんだか一方的に責めるのもかわいそうになってきた。
「いやその……嫌っていうか、いきなりで驚いただけで……」
思わずそう弁解していた。
たぶんヴォルフだって俺の血を吸うのは不本意なはずだ。
ここで俺が嫌がって餓死したら困るし、他の人の血を吸ったりするのも駄目だ。
俺の血ならいくらでも吸っていい、だから生きてくれと懇願したのは俺自身だ。
その俺が、こいつを拒絶なんてできるわけがない……!
「あのさ……事前に言ってくれれば、いいよ……」
小さな声でそう告げると、ヴォルフは驚いたように目を見開いた。
そして、次の瞬間強く抱き寄せられた。
「っ……ありがとうございます」
俺の肩に顔をうずめたヴォルフが、小さくそう絞り出した。
……たぶん俺以上に、ここに来るまでのヴォルフは追い詰められていたんだろう。
いきなり吸血鬼になって、自分の意志とは関係なく人に襲い掛かるようになって、混乱しないわけがない。
俺に殺してくれとか言ってきたくらいだし、結構ギリギリだったんだろうな、と今になって思う。
だから、俺はあらためて決意した。
この先何があっても、俺だけはこいつの味方でいよう、と。
そう心に誓って、俺はゆっくりヴォルフの頭を撫でた。
俺は一人っ子だけど、弟がいたらこんな感じなのかな……と失礼な事を考えながら。




