23 炎の記憶
粗末な安宿の一室に入り扉を閉めた途端、俺の体は唐突に床に引き倒された。
痛みにうめく暇もなく首元を隠すように巻いていたショールを剥ぎ取られ、首筋に鋭い痛みを感じた。
「っ、ふぅっ……!」
漏れそうになった悲鳴をなんとか噛み殺す。生理的な涙で滲む視界にうつるのは、俺に覆いかぶさるようにして一心不乱に血を吸っているヴォルフの姿だった。
なんとか解放軍から逃げ出した俺たちの旅路は、とても順調とは言い難かった。
俺はヴォルフがおかしくなったのは一時的なもので、きっとすぐに元に戻るのではないかと希望を抱いていた。だが、そんなにうまくはいかなかった。
数日に一回、こうしてヴォルフはまるで理性を失ったように乱暴に血を吸う。
さすがに人のいる所では吸わないようにしているようだが、こうして他人がいなくなった場所に来るとタガが外れてしまうようだ。
血を吸われるのはすごく痛いし、一度血を吸われるとふらふらになってしばらく起き上がれなくなることもある。
でも、今の所ヴォルフは俺以外の血は吸っていないし、吸おうとした事も無い。
だから、我慢できた。
いつかは元のヴォルフに戻ってくれないかな……と願いつつ、俺は血を吸い続けるヴォルフの頭を撫でていた。
◇◇◇
「……すみません」
ひとしきり血を吸い終わるとヴォルフはやっと今の状況に気づいたのか、今にも死にそうな声で謝って来た。その姿を見て俺はほっとした。
ヴォルフがおかしくなるのは、言い方は悪いが血に飢えている時のようだ。
そうなる前に定期的に俺の血を吸えと何度も言っているのだが、ヴォルフは決して必要以上に俺の血を吸おうとはしない。
そして、いつもこうやって暴走してから後悔するのだ。
「ん……大丈夫」
ほんとは今にも気を失いそうなほどに辛かったが、俺はなんとか虚勢を張って立ち上がった。
ヴォルフに気を使わせたくない。だから、俺は血を吸われている時は悲鳴を上げないようにしていたし、できるだけ疲れた様子も見せないように気を付けていた。
まぁ、功を奏しているとは言い難かったが……。
「もっと吸ってもいいのに……」
「……そんなことできませんよ」
ヴォルフはそれだけ言うと俯いてしまった。俺もなんと声を掛けていいのかわからずに、部屋の中に沈黙が落ちる。
俺たちの気遣いはこうして互いに空回りばかりして、事態はどんどん悪くなっていくような気すらした。
◇◇◇
――目の前に、紅蓮の炎が迫っていた。
思わず叫ぼうと開いた口は思いっきり煙を吸い込んでしまい、げほげほと激しく咳き込む。
足元から炎が迫ってくる。煙と炎で視界は最悪で、息もまともにできない。
逃げようと身をよじったが、縛られているのか体を動かすことすらできなかった。
そうしているうちにも、どんどんと炎は迫ってくる。
熱い、苦しい、怖いよ……。
誰か、誰か……助け――
「クリスさんっ!!」
大声でそう呼びかけられ、俺ははっと目を覚ました。
視線を上げると、心配そうな顔をしたヴォルフが俺を見下ろしていた。
「随分とうなされてましたけど……大丈夫ですか?」
よくよく見れば、ここは昨日泊まった宿屋だった。
いつの間にか俺は寝ていたらしい。
「うん…………大丈夫……」
「……嫌な夢でも見たんですか」
ヴォルフが気遣わしげな視線を寄越した。
心配を掛けさせないようにと立ち上がろうとして、俺はまだ全身が震えていることに気が付いた。
怖かった。
熱くて、苦しくて、あのまま死ぬんじゃないかと思ったくらいだ。
いや、あのまま死んだんだろう…………アンジェリカは。
「アンジェリカの夢、見たんだ」
「アンジェリカって、あなたの前世とかいう……」
ヴォルフは疑わしそうな顔を隠そうともしていなかった。まぁ、いきなり前世がどうこう言われても信じられないのは仕方ないだろう。
でも、俺は確かにアンジェリカの事を思い出しつつあったんだ。
「アンジェリカ、火炙りになって死んだんだ。同じ教会の人に嵌められて……。どんどん炎が迫って来て、熱くて息ができなくて苦しくてそれで」
「クリスさん!」
ヴォルフが慌てたように俺の肩を強く掴む。そこで俺ははっと我に返った。
「ごめん、変なこと言って……」
「……悪い夢ですよ」
ヴォルフの指がそっと俺の目元をぬぐう。そこで初めて、俺は自分が泣いていたことに気が付いた。
「ごめん、もう大丈夫」
慌てて自分でも涙をぬぐう。
激しく今更だけど、俺はすぐ泣く面倒くさい奴だと思われていないだろうか。
思われてるだろうな……。
「いくつか果物買ってきたんです。これでも食べて元気出してください」
そう言うと、ヴォルフは俺に向かってリンゴを差し出した。
俺は慌ててヴォルフの顔を覗き込む。
「お前、一人で外に出て……!?」
「…………別に誰も襲ったり、血を吸ったりはしてませんよ」
俺の懸念が伝わったのか、ヴォルフは悲しそうに笑った。
やってしまった…………。俺は激しく自己嫌悪に陥った。
ヴォルフだって好きで吸血鬼になったわけじゃない。きっと今の状態に一番苦しんでいるのはこいつ自身だろう。
だから、俺はできるだけヴォルフが吸血鬼だってことを気にしていないように振る舞ってきたつもりだったし、今のヴォルフならむやみやたらと人を傷つけたりしないと信じていた。
いや……心の底では信じ切れていなかった。
だから、常に傍にいるようにしたし、他人を襲わないように定期的に血の供給もしようとしている。
でも、そんな俺の気遣いをヴォルフは息苦しく思っているのは明白だった。
「リンゴ、食べよっか。俺が剥くから」
沈黙が気まずくて、俺はわざと明るい声を出してナイフを手に取った。
◇◇◇
解放軍の砦を逃げ出して以降、しばらくの間俺たちは当てもなくただひたすら遠くへ行こうとしていた。
それでも教団の支配地はどんどん広がっていき、安全な町や村を探すのもだんだんと難しくなってきていた。
どこかもっと安全な場所は……そう考えた俺の頭に、ある考えがひらめいた。
俺の故郷、リグリア村だ。
リグリア村はミルターナの北端付近にあって、びっくりするほどのド田舎だ。
特に戦略的に重要な地でもないし、教団もあんな辺境には足を延ばさないだろうという自信があった。
きっとあそこならしばらくの間は平穏に過ごせるはずだ。一刻も早くリルカに会いに行きたい気持ちはあったが、おかしくなったヴォルフを連れてフリジアを目指すのは今の俺には厳しいだろう。
それに、こんな乱暴に俺の血を吸うヴォルフの姿をリルカに見せたくなかった。優しいリルカは驚くだろうし、きっと傷つくだろう。
取りあえずリグリア村まで行って、ヴォルフが元通りになるのを待とう。
それで、ヴォルフがよくなったらまたフリジアを目指せばいい。そうヴォルフにも説明して了解は得た。
もしかしたらヴォルフはもう元には戻らないかもしれない。そう心の奥底で不安を感じていたが、俺はわざと気づかない振りをした。
それと、リグリア村へ向かう目的はもう一つあった。
リグリア村に行けば、きっとそこに俺の家族がいるだろう。女になってしまった今の姿で、息子のクリスだと名乗り出るつもりはない。
でも、一目だけでも無事な姿を確認しておきたかった。
テオみたいに、ある日突然俺の前から消えてしまうかもしれない。
そう思ったら、どうしても家族の事が気になって仕方なくなった。
素直に家族の事が気になるとヴォルフに話すと、気になるなら会いに行けばいいと普通に返されてしまった。
ヴォルフだって家族の事が気にならないはずはないのに俺だけ……と申し訳なく思ったが、それでも俺は父さんと母さんに会いたい気持ちを押さえることができなかった。
ここは、ありがたくヴォルフの気遣いを受けておくことにしよう。
そうして、俺たちはまた人々の目を避けるようにして辺境のリグリア村を目指し始めた。




