20 血染めの少女
ヴォルフの変貌をこの目で見てなお、俺は信じていた。
きっとあいつは一時的におかしくなっているだけで、数日もすれば元に戻るはずだ、と。
だが、俺がそんな甘い考えを持っていた間に事件は起こってしまった。
しばらく休んでろ、とアニエスに言われたとおり、翌日も俺は救護の任に当たることなく部屋で休んでいた。
すると、廊下がにわかに騒がしくなった。悲鳴に怒鳴り散らす声、俺は慌ててベッドから飛び起きて廊下へと飛び出した。
「何があったんですか!?」
人の集まる方へと走り、そこに現れた光景を見て俺は絶句した。
俺より少し年下くらいに見える女の子が、服を血に染めて泣きじゃくっていた。服の襟のあたりがべったりと赤く染まっている。その周囲では、解放軍の兵士たちが険しい顔をして何やら言い合っているのが見えた。
俺はしばらく呆然としていたが、すぐにはっと気が付いた。
怪我をしているのなら、はやく手当てをしないと……!
杖はあのティレーネちゃんに呼び出された一件で失くしてしまったが、杖なしでもある程度は治癒魔法が効くはずだ。
「っ、大丈夫!?」
慌ててその女の子に駆け寄ると、彼女は顔を上げて俺の顔を見た。
だが次の瞬間女の子は怯えたように息を飲み、俺を指差して叫んだ。
「近寄らないでっ! あんたも化け物の仲間なんでしょ!?」
一瞬、何を言われたのか意味が分からなかった。
ぽかんとする俺に、彼女は更に錯乱したように叫ぶ。
「私知ってるのよ! あんたがいつもあの吸血鬼とこそこそ何か話してたって!! この女も化け物にきまってるわ!!」
女の子の言葉に、周囲の人たちは怪しむような目で俺を見ている。
――吸血鬼、化け物
その言葉でやっと理解できた。
彼女はヴォルフの事を吸血鬼だと思い込んでいて、ヴォルフの仲間の俺も吸血鬼ではないかと疑っているんだ……!
「違うよ、俺は吸血鬼じゃない! それにヴォルフだって……」
「うるさい!! ふざけた事抜かすんじゃないわよっ!」
女の子は激高したように俺の方へと飛び掛かかろうとした。そんな彼女を、周囲の人たちが必死に止めている。
俺は思わず二、三歩後ずさった。彼女は汚らわしいものでも見るような目つきで俺を睨み付けている。
呆然としていると、急に背後から腕を掴まれた。
「……部屋に戻るぞ」
そこにいたのはアニエスだった。アニエスは俺の腕を引っ張って部屋へと連れ戻そうとしている。
「で、でも……あの子が」
「いいから! 今は言う事を聞け!!」
その必死な様子に、俺はもう抵抗ができなくなってしまった。そのままアニエスに引きずられるようにして部屋へと連れ戻される。
部屋に戻る途中でダリオともすれ違った。ダリオはアニエスに引っ張られる俺を見ると、慌てたように後をついてきた。
ダリオを含めた三人で部屋に入り扉を後ろ手に閉めると、アニエスは大きく息を吐いた。
「…………今は、部屋の外へ出るな」
「俺が、吸血鬼の仲間だって疑われてるから……?」
信じられない思いでそう問いかけると、アニエスは黙ったまま小さく頷いた。
「さっきのあの子、近隣の村の子で解放軍を手伝いに来てくれてた子だったんだ」
アニエスの言葉を補足するように、ダリオが言いにくそうに口を開いた。
「それでさ、ヴォルフの追っかけみたいな事してた子だったんだよ。それで今朝、ヴォルフに会いに行こうとしたみたいで……」
ダリオの言葉に、俺は続きが予測できてしまった。でも、信じたくはない。
だが、そんな俺の思いをあざ笑うように、ダリオの告げた事実は残酷だった。
「ヴォルフが一人で牢にいるって聞いて、チャンスだと思ったんだろうな……。うまく牢番を言いくるめて、地下牢に一人で入って行ったらしい。それで……」
その続きの言葉を俺は聞きたくなかった。でも、聞かなきゃいけない。
黙ってしまったダリオをちらりと横目で見て、アニエスは重い口を開いた。
「ヴォルフを外に出そうとしたところを、襲われたらしい。すぐに悲鳴に気づいた牢番が止めに入ったので、見た目より傷は深くないそうだ」
あの女の子は、ヴォルフに血を吸われかけたんだろう。
俺は何も言えなかった。いくら傷が深くないと言っても、彼女が受けた衝撃ははかりしれないだろう。……俺がそうだったように。
俺は信じていた。ヴォルフはちょっとおかしくなっているだけで、すぐにいつものあいつに戻るだろうと。
だから、事態を軽く考えていた。先ほどの服を血に染めた女の子の姿が蘇る。
『近寄らないでっ! あんたも化け物の仲間なんでしょ!?』
俺は化け物じゃない。ヴォルフだってそのはずだ。
でも、その認識が間違っていたとしたら……?
いや、そんなはずはない!
「お、俺……ずっとあいつと一緒にいたけど、あいつ……一度だって人の血を吸ったりしたことはなかったんだ! 本当に!!」
あいつと出会ってから、長い間朝も昼も夜も一緒にいた。でも、あいつは誰かの血を吸うなんてことはしなかった。
だから、あいつが吸血鬼のはずがない……!
俺の必死の訴えに、アニエスはぽんと俺の肩を叩いた。
「わかってるさ。私達だってあいつが危険な吸血鬼だったなんて思ってない。でも……」
「でも……?」
アニエスは言いにくそうに口を閉じてしまった。すると、傍らにいたダリオが困ったように笑った。
「俺たちはヴォルフの事もクリスちゃんの事も良く知ってる。でも、そうじゃない奴もいる。そう言う奴の誤解を解くのってさ、結構難しいんだよな……」
俺は何も言えなかった。
いくら俺がヴォルフは吸血鬼じゃないと主張したって、もう村の女の子が一人襲われている。その事実だけは覆せない。
ヴォルフの事をよく知らない人から見れば、きっと無差別に人を襲う化け物に見えてしまうだろう。
「とにかく、さっきみたいにお前が疑われる可能性もあるんだ。軽率に部屋から出るなよ!」
「うん……」
俺は力なく頷いた。
どうしようもなく、無力だった。
◇◇◇
部屋から出るな、とアニエスと約束して数時間後、俺はさっそくその約束を破っていた。
どうしても、あの血染めの女の子の姿が頭から離れない。せめて、彼女の怪我がどの程度かを聞いておきたかった。
できるだけ人気のない場所を通りながら、俺は誰か話を聞ける人を探していた。
アニエスかダリオ……アルベルトでもいいかな。きょろきょろとあたりを見回しながら歩いていると、すぐ傍のぴっちりと扉の閉められた部屋から急に男の怒鳴り声が聞こえてきた。
「これ以上はどうにもならん! すぐに不穏の種は刈り取ってしまうべきだ!!」
大声に思わず身がすくむ。俺はこの声の主を知っていた。
確か、この砦の中でもかなり偉い立場の人だったはずだ。俺みたいな下っ端は直接話したことはないけれど、何度か姿を見たり演説をしているのが聞こえてきたりしたことはある。
よく見れば、俺が今いる廊下も他の場所に比べれば綺麗だし、今声が聞こえてきた部屋の扉にも立派な装飾が施してある。
もしかして、ここは解放軍の上層部が集まる部屋なのか……?
この辺りに来たことがなかったので知らなかったが、アニエスにそう言った部屋があるという事は聞いていた。
これはまずい。怒られないうちに退散しようとした俺は、次に聞こえてきた声に思わず足を止めた。
「だが……あれはヴァイセンベルク家の者だろう? ユグランスが何と言うか……」
先ほどの男とは違う、どこか戸惑ったような声が聞こえた。問題はその内容だ。
ヴァイセンベルク家、ユグランス……今話題に上がっているのは、間違いなくヴォルフの事だろう。
俺はそっと気づかれないように扉に耳をつけて、中のやりとりを聞こうとした。
「ふん! あんな化け物を送り込まれたこっちこそ被害者だ!」
「そうだ! 逆にユグランスを糾弾すればよい!!」
「もうこちらは村人に被害が出ているのだぞ!? これ以上放置しておくわけにはいかん!!」
だん! と強く机を叩く音が響いた。俺は瞬きをするのも忘れて中の会話に聞き入っていた。
そして数秒後、俺の耳は最も聞きたくなかった言葉を拾い上げてしまった。
「即刻、あの化け物を処刑するべきだ!!」
その言葉を聞いた途端、思わず口から悲鳴が口から出かかったが、なんとか自分の手で口をふさいで抑えることができた。
ヴォルフを処刑するべきだという意見には、誰も異を唱える気配がない。
自分の体ががたがたと震えだすのが分かった。
…………このままだと、ヴォルフは殺されてしまう。
 




