19 吸血鬼
遠くで誰かが呼んでいる声が聞こえた。
あれは誰だろう。アウグストかクリストフか、それとも……
◇◇◇
眩しい光を感じて、俺はそっと目を開いた。
体が重い。まぶたを開くだけで一苦労だ。なんとか体を起こそうと唸ると、慌てたような声が掛けられた。
「クリス、起きたのか!?」
アニエスが俺の顔を覗き込んできた。
俺が体を起こそうとしているのに気が付くと、彼女は背中を支えてくれた。
「ア、ニエス……?」
「とりあえず水飲め!」
コップに入った水を手渡され、俺はゆっくりと水を口にした。
冷たい水が体に染みわたる。意識していなかったが相当喉が渇いていたようで、俺はコップ一杯の水をすぐに飲みほしてしまった。
喉の渇きが癒されると、少しずつ意識がはっきりしてきた。この部屋は知ってる。解放軍の砦の中の医務室の一つだ。
そこまで考えたところで、急に意識を失う直前に起こった事が思い出された。
ティレーネちゃんに森の奥へと導かれて、そこに枢機卿がいて、レーテとティレーネちゃんが消えて、それで……ヴォルフがいきなり俺の首に噛みついてきて……
そこまで思い出したところで、俺は慌てて自分の首筋に触れた。
ちゃんと首は繋がっていたが、そこにはぴっちりと包帯が巻かれており、触れるとずきんと痛む。
…………ということは、夢じゃない?
「アニエス、ヴォルフは!?」
慌てて飛び起きアニエスに詰め寄ると、アニエスはぽつりと呟いた。
「あいつも、戻ってきている」
それを聞いて俺は安心した。意識を失う直前のあいつは明らかに様子がおかしかったけど、きっと今は元に戻ったんだろう。
あいつは今どこに、と聞こうとした時、コンコンと軽く部屋の戸が叩かれた。
アニエスが軽く返事をして扉を開ける。そこに立っていたのは両手にトレイを持ったアルベルトだった。
アルベルトはずんずん部屋の中へと入ってくると、俺の寝ていたベッドの傍らの机にスープの載ったトレイを置いた。
「ほら、食え」
「それよりヴォルフがっ!」
そう言って起き上がろうすると、アニエスにベッドに押し戻されてしまった。
「後で会わせてやる! だから今は食事をしろ。お前、二日も寝てたんだからな……!」
「えっ!?」
全然気づかなかった。俺はそんなにも寝てたのか。
どうりで体が重いはずだ。
上半身だけを起こした体勢になると、アニエスがスープを掬ってスプーンを俺の口元まで持ってきた。
「ほら、食わせてやるから口開けろ」
「じ、自分でできるって……!」
俺は慌ててアニエスの手からスプーンをひったくる。
女の子に手ずから食べさせてもらえるなんて憧れのシチュエーションだが、今のアニエスは完全に俺を子ども扱いしているのでそれよりも恥ずかしさが上回った。
ぱくりと口に含むと、煮込まれて柔らかくなったにんじんが俺の口の中でとろける。
……中々にうまい。絶妙な味付けのされた野菜のスープは、二日間寝込んでいたらしい俺の胃にも優しかった。
「……おいしい」
「当然だ! このアルベルト様が精魂込めて作り上げたものだからな!!」
そう言って胸を張ったアルベルトを見て俺は仰天した。
普段のアルベルトはつんつんしてて一切家事なんてやる気はありません! みたいな顔と態度をしてるくせに、まさかこんなにおいしいスープを作れるなんて……全然知らなかった。
「アルベルトってさ、神殿騎士より料理人の方が向いてるんじゃないの?」
「なっ、私を侮辱するのか貴様! 一流の神殿騎士は何事につけても一流でなければならんのだ! もちろんティエラ様に与えられた神聖な使命が一番重要に決まっているだろうが!!」
ただの冗談だったのに、アルベルトは顔を真っ赤にしてぎゃんぎゃんとわめきだした。
うーん、このすぐ怒る性格を除けば結構何事にも器用な奴なのかもしれないな……。
特に取り柄がない俺からすれば羨ましい限りだ。
ありがたくスープを完食すると、アニエスが言いにくそうに口を開いた。
「それで、お前とティレーネが外に出て行った時……何があったか教えてくれるか」
その言葉で、美味しい料理を食べて少し弾んでいた気分が一気に落ち込んだ。
あの夜起こった出来事は、俺の理解を超えていた。
ティレーネちゃんはもうずっと前から枢機卿に……ルディス教団についていた。それに、思い出してしまった俺の前世であるアンジェリカの最期……今でも体が震える。
それでも、直接見ていた俺には説明する責任がある。
アンジェリカが俺の前世だという点だけは隠して、俺はあの夜起こった出来事をアニエスとアルベルトに話した。
二人は難しい顔をしてじっと俺の話を聞いていた。
最期にヴォルフが急におかしくなって俺に噛みついてきたという事を話すと、今まで黙っていたアルベルトが口を開いた。
「貴様は、知っていたのか」
「え、何が?」
何のことかわからずに聞き返すと、アルベルトは怖いくらい真剣な目で俺を見下ろしていた。
しかし俺には何のことかはわからない。
ティレーネちゃんが教団とつながっていた事なら知らなかったと伝えると、アルベルトは眉をしかめた。
「とぼけるなよ、ヴォルフリートの事だ」
「ヴォルフが何なんだよ! 言っとくけどあいつは被害者だぞ。なんか急におかしくなって……」
「本当に、知らないのか。隠してるわけじゃないだろうな」
アニエスまで何かを探る様な目で俺を見つめてきた。その目に胸がざわつく。
二人とも、一体何が言いたいんだよ……。
困惑する俺の前で、アニエスはゆっくりと口を開いた。
「あいつは……ヴォルフは、吸血鬼だ」
アニエスはひどく真剣な顔をしてそう告げた。
「はぁ…………?」
思わず気の抜けた声が出てしまった。
ヴォルフが吸血鬼? そんな事あるわけがない。
「いやだから、あいつ魔族の男に何かされていきなりおかしくなって……」
「私たちが駆けつけた時、あいつはお前の血を吸っていた。慌てて引きはがそうとしたんだがあいつは暴れて……何人かに怪我を負わせた」
「嘘だ! あいつがそんな事するわけがない!!」
思わずそう叫んでいた。
俺は信じたくなかった。
ヴォルフが仲間である解放軍の人たちに危害を加えるなんて、そんなことあるわけない!
だが、アニエスは険しい顔をして首を横に振った。
「事実だ。今は危険だという事で地下牢に閉じ込めている」
「なんでそんな酷い事するんだよ!!」
俺は思わずアニエスに掴みかかろうとしたが、なんとか思いとどまる。
きっとアニエスだってしたくてそんな事をしてるわけじゃないんだろう。でも、ヴォルフがそんな事をしたんなんてやっぱり信じられない。
混乱する俺に、アルベルトはそっと声を掛けてきた。
「だったら、今から会いに行くか。あいつも貴様の話なら聞くかもしれん」
「行く! 今すぐ行く!!」
俺は慌ててベッドから立ち上がった。
少し体がふらついたが、今はそんな事を気にしてる場合じゃない!
◇◇◇
地下牢は薄暗く寒々しかった。ここに足を踏み入れたのは初めてだ。
きっとこんな機会が無かったら来る事も無かっただろう。
「ほら、あそこだ」
アニエスはその中の一つの指差して固い声でそう告げた。俺は慌ててその牢へと近寄る。
「ヴォルフ!」
その狭い牢の奥の方で、ヴォルフは俯くようにして座っていた。
見たところ大きな怪我をしているような様子はない。俺は少しだけ安堵した。
「待ってろよ、今出して……」
「来ないでください」
冷たくそう声を掛けられて俺は固まった。ヴォルフが緩慢な動作で俯いていた顔を上げる。
その目は、少しだけ金色に染まっていた。
「すぐにここから出て行ってください」
「何言ってんだよ! お前は悪くないって俺がすぐ証明するから……」
「だから来るなってっ!…………いや、」
ヴォルフは急に態度を変えて、身を乗り出すように一歩俺の方へと近づいてきた。
そして、突然嬉しそうな笑みを浮かべた。
「やっと来てくれたんですね、クリスさん……」
今までに聞いたことも無いような優しい声だった。
ヴォルフは俺の目の前までやって来ると、鉄格子を掴んでいた俺の手にそっと自らの手を重ねた。
「あなたなら来てくれると思ってました……」
そのまま指を絡めるようにして手を取られ、ぎゅっと握られる。
「……ヴォルフ?」
その態度に違和感を覚えて、俺はそっと呼びかけた。
おかしい、こいつは俺相手にこんなことをする奴だっただろうか……?
そして、ヴォルフはついにその違和感を決定づけるような行動に出た。
掴んだままの俺の手を口元にまで持って行ったかと思うと、そのまま口内に導かれ指に軽く歯を立てられる。思わず体が固まる。
指先に、明らかに人間の歯とは違う尖った感触が当たる。
気を失う前に見た尖った歯の事が頭をよぎる。
いや、でもまさか……、あれは一時的におかしくなっていただけで……
呆然としていると、急に指に鋭い痛みを感じた。
「っ、つぅっ……!」
「やめろ!!」
背後にいたアニエスが慌てたように俺の腕を引っ張った。意外とあっさり俺の手は解放され、おそるおそる確認した指先にはぷっくりと血がにじんでいた。
俺は信じられない思いでその赤色を見つめた。
ヴォルフに噛まれた。……というか牙を刺された?
「……ヴォルフ、やめろ」
アニエスの声が震えている。ヴォルフは舌なめずりをすると、物欲しげな目で血のにじんだ俺の指先を凝視していた。
「クリスさん。もう少し……」
「おい、正気に戻れ……お前はそんな奴じゃないだろ」
そう言ったアニエスの声は少し震えていた。
だがヴォルフは意に介さないように俺の方へと手を伸ばしてきた。
「やめろ……」
その様子を見て、アニエスは怯えたように俺の肩を引き寄せた。
まるで、ヴォルフから遠ざけようとするかのように。
「やはり貴様でも同じか」
少し離れた所にいたアルベルトが近づいてきた。その顔は、少しだけ落胆したような表情を浮かべていた。
「一旦戻るぞ。貴様らはここにいない方がいいだろう」
アルベルトがそう口に出した途端、ヴォルフは不快そうに舌打ちをしてアルベルトを睨み付けた。
その態度を見て、俺は衝撃を受けた。
……目の前のこいつは誰だ? 本当にヴォルフなのか……?
アルベルトは冷たい目でヴォルフを見返すと、俺とアニエスを引っ張るようにして地下牢の出口まで連れて行った。
「わかっただろう、あいつは血を欲している。吸血鬼の特性だな」
「でもっ……!」
ヴォルフは吸血鬼じゃない、普通の人間だ。
吸血鬼に噛まれた人が同じように吸血鬼になるって話は聞いたことがあるけど、ヴォルフは噛まれていない。
だから、吸血鬼になんてなったはずがない!!
きっと一時的におかしくなっているだけだ。俺は必死にアルベルトとアニエスに向かってそう主張していたが、二人は疑わしそうな目で俺を見ていた。
「取りあえず部屋に戻るぞ。お前はまだ休んでいた方がいい」
アニエスにそう説得されて、俺は渋々頷いた。
なんだかどっと疲れたような気がするし、今はゆっくり頭を整理したかった。




