18 血の覚醒
「あっ……ぐぅっ……!」
ティレーネちゃんの手の甲を貫いて、突如地面から透明な氷の刃が生えるように現れた。
彼女はその瞬間小さく悲鳴を上げたが、すぐに刃から掌を引き抜いた。
氷の刃が彼女の手のひらから流れ出た真っ赤な血で染まっている。
「何事だっ!?」
枢機卿がうろたえながらそう叫んだ瞬間だった。
呆然と俯いていたはずのレーテが、突如剣を抜いて枢機卿へと斬りかかった。
「ぐっ……!」
枢機卿もとっさに避けようとしたので致命傷にはならなかったようだが、服がざっくりと裂けて血に染まっている。
なおも枢機卿に斬りかかろうとするレーテを、ティレーネちゃんが瞬時に魔法障壁を張って防いだ。
「姑息な真似をっ!」
「……君に言われたくはないなっ!」
睨みあう二人を、俺はただ見ている事しかできなかった。レーテに加勢をするべきだろうとは思ったが、どうしても地面に座り込んだまま体が動かなかったのだ。
そんな俺の肩を、突然誰かが背後から掴んだ。
てっきり枢機卿の配下の誰かだと思って俺は引きはがそうと暴れたが、すぐに聞こえてきた声にぴたりと動きを止めた。
「クリスさん、僕ですって!!」
慌てて振り返ると、そこにいたのは息を切らしたヴォルフだった。
その姿に安堵感が込み上げる。氷の刃を見た時からもしかしたら……と思っていたが、やっぱり助けに来てくれたんだ!
足に絡みついていた杖を斬り落とし、ヴォルフは俺の体を支えるようにして立ち上がらせた。
「何者だ! 私のアンジェリカから離れろ!!」
俺たちの姿を見た枢機卿が激高したように大声を上げたが、彼は俺たちの背後へ視線をやると急に顔をこわばらせた。
「……もうすぐ解放軍がここへ到着します。それでもいいんですか?」
冷静にそう告げたヴォルフの言葉に思わず背後を振り返る。森の木々の向こうにちらちらといくつもの明かりが見え、かすかに人の声が聞こえてくる。
きっと解放軍のみんなが来てくれるんだ!
「レーテさん、逃がさないでくださいよ!」
「わかってるって!!」
仮面の集団が枢機卿を守るように立ちふさがる。レーテがまた雷撃の呪文を唱えたが、ティレーネちゃんの張った魔法障壁に阻まれていた。
「猊下、ここは退いてください!!」
ティレーネちゃんが声を張り上げると、枢機卿はまた何かを求めるような瞳で俺を凝視してきた。
その視線が怖くて思わずヴォルフの背中にしがみつく。
「だが、すぐそこにアンジェリカが……!」
「ここで解放軍に捕まっては終わりです! いずれ機会は訪れます、だからっ……!」
ティレーネちゃんの必死の説得に枢機卿も決意を固めたようだ。最後の最後まで俺から視線を外さずに、仮面の集団に守られるように森の奥へと消えて行った。
「……それで、君はどうするんだい?」
ティレーネちゃんは杖を構えたままその場に残っていた。
レーテは攻撃の手を止めると、冷静を装いながらもどこか焦ったようにティレーネちゃんにそう問いかけた。
ここには解放軍が近づいてきてるし、俺とヴォルフを含めればこっちは三人。ティレーネちゃんだって勝ち目はない事はわかるだろう。
「クリス様……いいえ、レーテさん」
ティレーネちゃんは顔を上げると、何故かすっきりしたような顔で微笑んだ。
「今からでも、ニコラウス様の作り上げる世界へ共に参りませんか? あなたのしたことは卑劣な行為と言わざるを得ませんが、あなたの育った環境を鑑みればある意味仕方のない事とも言えます」
ティレーネちゃんは邪気のない晴れやかな笑顔を浮かべていた。
まるで、自分が正しいと信じて疑っていないように。
「ニコラウス様の作る新たな世界では生まれや身分は関係ない。誰でもその力次第で上を目指すことができるのです。もう誰かに見下されたり踏みつけられることもない。どうです、あなたや私のような者にとっては最高の環境でしょう?」
ティレーネちゃんはレーテに向かってそっと手を差し出した。レーテは感情の読めない表情を浮かべてその手を見ている。
「……いろいろ言いましたけど、あなたの事……嫌いではありませんよ。その力、是非とも猊下のお役に――」
「断る」
ティレーネちゃんの甘い言葉をレーテはぴしゃりと跳ね除けた。
ティレーネちゃんは差し出していた手を降ろすと、どこか冷めたような目つきでレーテを見つめていた。
「……そうですか。結局あなたは自分を縛る鎖から抜け出せないままなんですね。それならば……」
ティレーネちゃんは自らの胸元に手を置くと、そっと目を閉じた。
「“……しの全……捧げ、…………をこの身に……込みます……”」
「やめろっ!!」
ティレーネちゃんが小さな声で何かを呟きだした途端、レーテの顔色が変わった。
レーテはそのままティレーネちゃんに掴みかかり……次の瞬間には二人の姿は忽然とその場から消えていた。
「レーテ!?」
慌てて辺りを見回したが、レーテもティレーネちゃんもその姿を見つけることはできなかった。
「一体、どこに……」
ヴォルフも何が起こったのかわかっていないようだ。俺の腕を掴んだまま呆然としている。
その場には俺たち二人だけが取り残された。
俺はどうしていいのかわからずに視線を彷徨わせた。すると、突如その場にぱんぱんと手を叩く音が響いた。
「誰だっ!?」
ヴォルフが威嚇するように声を出した。
すると、派手なマントを纏った金髪の男がするりと暗闇から姿を現した。
てっきり枢機卿たちと一緒に逃げたかと思っていたが、どうやら闇にまぎれてこの場に残っていたようだ。
ヴォルフが俺を庇うように背後へと追いやる。もう解放軍がすぐそこまで近づいているというのに、マントの男は興味深そうにと俺たちを眺めている。
「……教団の者か」
「ニコラウスの同志、といった意味ではそうなのでしょうが……いやはや彼らのように熱心に神に縋る気持ちはわかりませんのでねぇ。あそこまでしてたった一人の女性を追い求める姿勢は尊敬に値しますが」
男は一歩一歩俺たちの方へと近づいてくる。
その余裕な態度にぞくっとした。
あのヤバそうな枢機卿ですらこの状況では逃げ出したのに、こいつは一体何を考えているんだ……?
男は俺たちの前まで進み出ると、朗らかな笑みを浮かべた。
「まさかこんな所で同胞にお会いできるとは思っていませんでしたよ! あなたは何故ここに?」
マントの男は、そう親しげにヴォルフに話しかけてきた。
俺は意味が分からず戸惑ったが、ヴォルフにとっても同じだったようだ。
「な、何を言っている……?」
ヴォルフは明らかに動揺した声でそう返した。少なくとも知り合いとかではなさそうだ。
マントの男は目を見張ると、何かに気づいたようにぶつぶつと呟いている。
「もしや自分の事に気づいていない? 何かで封じられているのか? だとしたら……」
男の目が金色にきらりと光った。
次の瞬間、男は片手でヴォルフの首を掴むと一気にその手に力を込めた。
「な、やめっ……」
「本当の自分を解放するべきですよ。せっかくこんな素敵な世界で過ごせるのですから、もっと楽しむべきです!」
金色の目、それは魔族の特徴だと以前聞いたことがある。
ということは、目の前の男は魔族なのか!?
「やめろ、離せ!!」
ヴォルフを助けようと男の腕を外そうとしたが、俺の力ではびくともしなかった。
男はヴォルフから視線を外して俺を見下ろすと、愉快そうに笑った。
「ニコラウスには悪いですが……大丈夫、きっとあなたも楽しめますよ」
「ぐっ……!」
男がいっそう腕に力を込めると、ヴォルフが苦しげな声を上げた。
焦ってまた腕を外そうとすると今度はあっさりと外れ、ヴォルフの体はそのまま地面に崩れ落ちた。
「ヴォルフ、ヴォルフ! しっかりしろよ!!」
地面に落ちたヴォルフはうつ伏せに倒れぴくりとも動かない。
どれだけ呼びかけてゆすっても反応はなかった。
「お前……こいつに何したんだよ!?」
マントの男を睨み付けると、彼はやれやれといったように肩をすくめた。
「彼を戒めていた鎖を一つ解き放っただけですよ。大丈夫、じきに目を覚ますでしょう」
男の言葉が本当かどうかはわからない。でも、そう言われて俺は少し安堵した。
彼は俺の傍に屈みこむと、そっと耳元に囁きかけてきた。
「あなたも罪な人ですね……ニコラウスの運命の女性でさえなければ私もお相手願いたいところではありますが、今日はこのあたりにしておきましょう」
そう言うと、男は立ち上がりマントをはためかせながら優雅に一礼した。
「良い夜を、美しい聖女様。そちらの彼にもお伝えください。いずれ、また会いましょうとね……」
それだけ告げると、男は焦るそぶりも見せず優雅に森の奥の暗闇へと消えて行った
俺はその様子を呆然と見ていたが、ふいにうめき声が耳に入り慌ててヴォルフの方へと視線を戻した。
「ヴォルフ、大丈夫か!?」
ヴォルフは返事はしなかったが、むくりと地面に手をついて起き上がった。
そして、ゆっくりと俺の方を見た。
その目はこんな暗い場所でもはっきりとわかるくらいに、金色に光っていた。
「ぇ…………?」
呆気にとられる俺の肩を強く掴むと、ヴォルフは大きく口を開けた。
その口内に異常に長く尖った歯が見える。いや、いままで何度もこいつと食事を共にしてきたけれど、あんな歯は生えていなかったはずだ。
俺はヴォルフが口を開けてたまま顔を寄せてくるのをぼんやりと見ている事しかできなかった。
もう自分でも、何がどうなっているのかさっぱりわからなかったからだ。
ヴォルフが俺の首元に顔を寄せると、次の瞬間首筋に激痛が走った。
「あぐぅぅ……ああぁぁぁ!!」
噛みつかれたなんて生易しいものじゃない。まるで、食いちぎろうとするかのように鋭い歯が俺の首筋に食い込んでいた。
必死にヴォルフの体を引きはがそうとしたが、背中と腰をがっしりと押さえられて身動きが取れなかった。
痛みに暴れていると、ふいにじゅる、という音が噛まれている箇所から聞こえてきた。その音と感触に、俺は戦慄した。
血を、吸われている。
「ゃ……やめて…………」
震えながらそう懇願したが、ヴォルフは俺の言葉など聞こえていないように血をすすり続けている。
激痛とその衝撃的な出来事に、俺の意識は次第に薄れていく。
何人かの声が近づいてくるのが聞こえたのを最後に、俺の意識はぷつりと途切れた。




