16 百年の想い
誰よりも会いたくなかった男の姿を見つけて、俺は思わず立ち上がり二、三歩後ずさった。
枢機卿の他にも、何故か派手なマントを纏った金髪の見た事のない男、それに……何度か見たことのあるあの奇妙な仮面をつけた奴らが何人かいるのがわかった。
だが、明らかに怪しい人間がぞろぞろと現れたのに、ティレーネちゃんに驚いた様子はない。
「…………ティレーネちゃん」
そう呼びかけると、彼女はにっこりと笑って俺の方を振り返った。
……この状況を作り出したのが彼女であることは明白だった。
俺一人を夜更けにこんな人気のない森に連れて来たのも、きっと計算ずくだったんだろう。
「俺を、騙したのか」
「これも、すべてあなたの為に必要な事なんですよ」
ティレーネちゃんはそう言うと優しく笑った。でも、その目だけは笑っていなかった。
その表情にうすら寒さを感じてぞっとする。
一体いつから、彼女は俺とレーテの事を……アンジェリカの事を知っていたんだろう。
いや、いつからだって関係ない。
今は、とにかく逃げることを考えなければ……!
そう思った次の瞬間、俺はティレーネちゃん達に背を向け勢いよく地面を蹴って駆け出した。
俺は逃げ足だけには自信がある。いくら相手が大人数でも、解放軍の砦まで逃げてしまえば俺の勝ちだ!
だが、少し進んだ時点で何かに足首を掴まれ、俺は勢いよく転倒した。
思いっきり地面にぶつかったので体が痛い。でも今は痛がっている時間はない。
足に絡みついた何かを引きはがそうと視線をやり、そこにあった物を見てぎょっとした。
俺の足首には、木の枝のようなものが絡みついていた。てっきり森の木の幹か何かに引っかかったのかと思ったが、そうじゃなかった。
念のために、と持ってきていたティレーネちゃんにもらった杖。
若木のように美しいその杖が、まるでヘビのように俺の足に絡みついていたのだ。
「な、なんだよこれ……!」
慌てて引きはがそうとしたが、くるんと丸まった杖にますます足を締め付けられるだけだった。
そうこうしているうちに、かさりと草を踏みしめる音が聞こえた。
絶望的な思いで顔を上げると、想像通りそこにいたのは枢機卿と、ティレーネちゃんと謎のマントの男だった。
「あぁアンジェリカ……! 貴女が海原に消えてから、どれほど貴女を探し求めたか……!」
一年前と同じく、枢機卿が俺をアンジェリカと呼ぶ。
彼は涙を浮かべながら、芝居がかった仕草で天を仰いでいる。
……気持ち悪い。
俺にはその様子がとてつもなくおぞましいもののように思えた。
この一年、アンジェリカの事とかこの枢機卿の事は何度も考えた。でも、どれだけ考えてもこの男に対する生理的嫌悪感はぬぐえない。
前に見た夢では、アンジェリカの知り合いの「ニコラウス」という名前の修道士が出てきた。以前この枢機卿が名乗った名前と同じだ。
「…………ニコラウス?」
そっとそう呼びかけると、枢機卿はすごい速さで尻餅をついたままの俺の前に屈みこみ、ぎゅっと手を握ってきた。
「思い出してくださったのですか……!」
その感極まった表情に、俺は自分の失敗を悟った。
駄目だ、こいつを刺激するような言葉を掛けるべきじゃなかった……!
「し、知らない!! お前なんか知らない!」
「あぁ、やはり貴女と私は固い運命で結ばれていたのですね……! 輪廻の輪を超えて、またこうして想い合えるのですから……!」
必死に否定したが、枢機卿は俺の言葉など聞こえていないようになにやらぶつぶつと歓喜の言葉を呟いている。
「ほぉ、彼女が貴方の 運命の女性ですか。これはなかなか……」
いつの間にか近くまで来ていたマントの男が、値踏みするような目で俺を見ていた。
闇夜にも明るく輝く金髪に、赤い裏地の漆黒のマントという派手ないでたちの男だ。
以前会ったユグランスのヴィルヘルム皇子並におかしい恰好をしている男だが、その端正な顔立ちに不思議と派手なマントが似合っていた。
きっとこんな森の中じゃなくて社交界にいたら、さぞや持て囃されることだろう。
「……彼女に触れることは許しませんよ」
にやにやと俺を眺めていたマントの男は、ティレーネちゃんにそう釘を刺されるとやれやれと肩をすくめた。
「言われなくても心得ていますよ。我が同志ニコラウスの運命の女性を奪い取るなんて野蛮な真似は、優雅ではありませんからねぇ……」
ティレーネちゃんとこのマントの男は初対面、という感じではなさそうだ。
そして、マントの男はニコラウス……おそらくは枢機卿の事を同志と呼んだ。
……ということは、ティレーネちゃんは枢機卿とも知り合いだったのか?
一年前、俺を追い詰めた枢機卿は自身にとっては教会の地位などどうでも良く、ただアンジェリカの生まれ変わりを探すためのものだと言ってのけた。
心からティエラ様を信仰しているように見えるティレーネちゃんは、その事を知っているのだろうか。
「……ティレーネちゃん、教えてくれ」
足に絡みつく枝を剥がそうとするのを諦めてそう問いかけると、ティレーネちゃんは微笑みながら首をかしげた。
「はい、何でしょう」
「君は……いつから枢機卿と結託していたんだ」
半ば睨み付けるようにしてそう問いかけると、彼女は物怖じもせずにくすりと笑った。
「結託……というのは語弊がありますね。私が孤児で、修道院で育ったという話はしましたよね?」
「……うん」
ついさっき聞いたばかりの話だ。その話を聞いた時は、まさか彼女が俺を嵌めようとしているなんて夢にも思わなかったけど。
「その修道院に惜しみない援助をくださっているのがジェルミ枢機卿……いえ、ニコラウス様なのです。…………オルキデア修道院、アンジェリカ様もご存じでしょう?」
ティレーネちゃんは有無を言わせぬ口調でそう告げた。
そんな場所は知らない! と叫びたかったが、残念ながら俺はその名前を知っていた。
オルキデア修道院――アンジェリカの夢に出てきた、彼女が旅に出る前に生活していた場所だ。
「あそこは貴女と私が出会った運命の場所ですからね。ご安心ください、何もかも当時のまま残っておりますので!」
黙り込んだ俺に、何を勘違いしたのか枢機卿が嬉しそうにそう告げた。
その言葉自体が気持ち悪かったが、一つだけわかったことがあった。
貴女と私の出会った場所。それは、きっとアンジェリカとあの修道士のニコラウスの事を言っているのだろう。
……という事は、本当に目の前の男は百年以上前の人物、修道士のニコラウスなのか?
「あんたは、誰なんだ」
枢機卿を睨み付けてそう問いかけると、彼は驚いたように目を瞬かせた。
「何をおっしゃるのですかアンジェリカ。私は貴女の良く知るニコラウスですよ」
「だって、ニコラウスは百年以上前の人間だろ! それに、あんたとは姿が違うじゃないか!!」
そう叫ぶと、枢機卿は数秒固まった後、何がおかしいのか大声で笑い出した。
「あぁ……なぜそんなに私を拒絶するのか疑問に思っていましたが、やっと合点がいきましたよ! 私の姿かたちが変わっていたので混乱されていたのですね!!」
枢機卿はそう言うとぴたりと笑うのをやめ、薄気味悪い笑みを浮かべた。
思わず全身に鳥肌が立つ。
「……人間の体というのはままならないもので、百年も経てば朽ち果て、神界へと送られる。そこで清浄の海を通ってしまえば過去の記憶は魂の奥底へと沈み込み、次の生では取り出すことも難しくなる。私にはそんな事は耐えられなかった!!」
枢機卿は急に憤怒の表情を浮かべると、忌々しいものでも見るように天空を仰ぎ見た。
「アンジェリカ、貴女と過ごした日々の美しい記憶は永劫に私だけのものだ! 例え神であろうとも消し去ることは許されない!! なのに刻一刻と時間は過ぎていく!!……そんな時、ルディス様が私に囁きかけたのです」
急にルディスの名前が出てきたので、俺は思わず息のんだ。
枢機卿は再び俺に視線を戻すと、慈しむような笑みを浮かべた。
「体が朽ちるのは止められない。ならば、新しい体を用意すればよいとね。そうすれば、神々に貴女との記憶を奪われることもない。私は貴女への思いを抱えたまま、この大地で貴女が帰ってくるのを待ち続けることができる。……私は感激しました」
枢機卿は俺の前に跪くと、涙を浮かべて俺を見つめてきた。
「この体で何人目でしょうか……私は教会で自分の後継者を育て、時期を見て新たな体へと魂を移し替えてきました。百年間、新たなる世界を作る準備を進めてきたのです。そして、今こうして貴方は私の元へと戻ってきた! さぁ愛しのアンジェリカ……今こそ私と貴女で、永遠の王国を作り上げましょう!!」
そう言って枢機卿がうやうやしく差し出した手を、俺は呆然と見つめる事しかできなかった。




