32 彼の結末
「なっ、馬鹿な……! おい、ミトロス! どうなっている!?」
呆然と闇イソギンチャクが消え去った場所を眺めていたディルクさんは、はっとしたように背後のミトロスを怒鳴りつけた。
「どうなってる……と言われましても、見た通りですよ。残念ながら僕の呼び出した魔獣はあの方たちに倒されてしまいました」
「ふざけるなっ! 次だ、次の魔獣を召喚しろ!!」
ディルクさんはミトロスに詰め寄ったが、ミトロスはなだめる様に首を横に振るだけだった。
「それはできません」
「何故だっ!?」
「これ以上異界への穴を開ければ、あなたの領地の磁場が狂ってとんでもないことになりますよ」
「構わん、寄越せっ!!」
「あっ」
ディルクさんはミトロスの手から無理やり杖を奪い取ると、血走った目で俺たちの方を振り返った。
「はは……悔い改めろ! 今度こそ地獄へと突き落としてやる!!」
「おい、やめろ!!」
テオは慌てて止めようとしたが、その前にディルクさんは地面へと杖を叩きつけた。
「出でよっ……!!」
地面が黒く染まる。ディルクさんを中心に庭園に黒いヘドロの渦巻きが発生し、その中からそいつは現れた。
テオをも片手で鷲掴めそうなほど巨大な手が黒い渦巻の中から現れ、庭園へと這い出ようとしていた。
「な、なんだよあれ……」
明らかにさっきの闇イソギンチャクとは違う。もっと……ずっとヤバそうだ。
これだけ離れていても震えが止まらない。
あんなのが出てきたら……もう、どうしようもないんじゃ……。
そんな絶望的な思いが俺の心を支配していた。
「ははは、謝ってももう遅いぞ……! いますぐ私が貴様らに裁きを……なっ!?」
また狂ったように笑い出したディルクさんだったが、すぐに焦ったような顔をして自らの体を見下ろした。ディルクさんの胸から下……彼の胴体が闇から這い出てきた手に鷲掴みにされていたのだ。
「お、おい……いったい何を……うわぁぁぁ!!」
直後、俺たちの見ている目の前でディルクさんの体は一瞬のうちに渦巻く闇へと引きずり込まれる。
あまりに一瞬のことで、誰も止める暇さえなかった。
しんとした静寂がその場を支配し、溢れ出ていた闇も地面に溶けるように消えてしまう。
その場に残ったのは、ミトロスの持っていた杖だけだった。
「ふぅ……危機一髪でしたね」
ミトロスはそっと杖を拾い上げると、俺たちに向かって笑顔を見せた。
「あの、ディルク様はどこへ……」
オリヴィアさんが戸惑ったように声を掛けると、ミトロスは静かに首を振った。
「……常闇の世界、底根の国。追いかけると言うのなら止めはしませんが、やめた方がいいですよ。僕だったらいくら報酬をもらったとしても行く気にはなれませんね。だからこれ以上はやめろと言ったのに……」
ミトロスは相変わらずにやついたまま肩をすくめた。
「あーあ、僕はまた骨折り損ですよ。報酬も未払いだし、雇用主がいなくなってしまったのではもうここにいる意味もありませんね。それではみなさん、お元気で!」
「……おい、待て」
そのまま踵を返そうとしたミトロスをテオは低い声で呼びとめた。
訝しげにミトロスが振り返る。
「はいそうですか、とオレ達が引き下がると思っているのか?」
「そう言われましても、もうディルク様がいなくなってしまったので、僕としてはあなた方と敵対する理由もないんですよ」
ミトロスは何故テオが怒っているのかわからない、といった顔をして立ち止まっている。
……こいつは自分が何をしたか、わかってないのか?
俺たちが、お前のしたことをを許すとでも思っているのか……!?
「おまえに敵対する理由がなくとも、こちらには十分にあるんだがな」
「異端の魔術師、野放しにする訳にはいかないな……!」
テオとヴィルヘルム皇子が殺気立つ。
その様子を見て、ミトロスは困ったように肩をすくめた。
「勘弁してくださいよぉ。僕だって仕事だったんですから、好きでやってたわけじゃないんですよ」
「黙れ。そもそもおまえは何故ティエラ教会を放置してこんな所にいるんだ」
「だからあそこはもう駄目だって言ったじゃないですか。沈みゆく船にいつまでも乗っていられますか? あなた方も……真剣に身の振り方を考えた方がいいですよ」
ミトロスはまるで、かわいそうなものを見るかのような目で俺たちを見ている。
ティエラ教会がもう駄目? 沈みゆく船?
一体どういう事なんだ……?
「悪いけど、僕はまた次の仕事を探しに行かないといけないんですよね」
「その前に……じっくり話を聞かせてもらおうか」
テオが剣を構える。それを見たミトロスは舌打ちして杖を振った。その途端、あたりに青白い閃光が走り、俺は思わず目を瞑った。
そして、目を開けた時にはもうその場からミトロスは消えていた。
「ちっ、逃げたか……」
テオは剣を降ろした。俺も念のため庭園を見まわしたが、やっぱりミトロスの姿はなかった。
……こんな短時間でどうやって消えたんだ?
「今はあいつよりも屋敷を何とかした方がいいだろう。……オリヴィア?」
テオが呼びかけると、呆然と固まっていたオリヴィアさんは驚いたように肩を跳ねさせた。
「は、はい……そう、ですね……」
「おい、どうしたんだ」
「……テオ!」
オリヴィアさんは心ここにあらず、といった様子で視線を彷徨わせた。
そんな彼女に詰め寄ろうとするテオを、俺は慌てて制止した。
嫁ぎ先がこんなことになって、婚約者が死んで……しかも本人は全く悪くないけど、その原因はおそらく……ディルクさんがオリヴィアさんを好きになったことにあるんだ。
責任とか感じてるかもしれないし、今はそっとしておいた方がいいだろう。
「オリヴィアさんは疲れてるんだよ! 少し休んだ方が……」
「……いいえ、クリスさん。大丈夫ですわ、ありがとう」
オリヴィアさんは、先ほどよりもしっかりとした視線で俺を見据えるとにっこりと笑った。
いつも通り人を安心させるような笑みだったけど、俺にはやっぱり無理をしているように見える。
そう考えた瞬間、かすかなうめき声が俺たちの耳へと届いた。
「……リ、ヴィア……」
「その声は……アルフォンス様っ!?」
俺は信じられない思いで声の聞こえた先へと視線をやった。
そこには、異形の怪物と化したアルフォンスさんが先ほどまでと同じように倒れている。
ただ、その指先がぴくりと動いていた。
「まだっ、生きて……!?」
「アルフォンス様!!」
オリヴィアさんは止める間もなくアルフォンスさんの元へと駆け寄った。
俺は慌てたが、アルフォンスさんはオリヴィアさんを傷つけるような真似はしなかった。
「オリヴィア……無事、か……?」
途切れ途切れの声だけど、確かにオリヴィアさんの身を案じる言葉が、俺にも聞こえた。
「っ、アルフォンス! 正気に戻ったのか!?」
ヴィルヘルム皇子も慌てた様子でアルフォンスさんの横へと膝をついた。
怪物の姿のままのアルフォンスさんはゆっくりとそちらへ顔を向け、少しだけ目を見開いた。
「皇子……? 何故、ここに……いえ、この度の……我が家の、不祥事……誠に……」
「いい! 今はそんな事はどうでもいい!! しっかりしろ、アルフォンス!!」
どうやらあんな変な仮面をつけているのに、アルフォンスさんはヴィルヘルム皇子の事がわかったようだ。
……もしかしたら、そのくらい仲がよかったのかもしれない。
オリヴィアさんに抱きかかえられたアルフォンスさんは、それを聞くと安心したように目を細めた。
……が、次の瞬間全身が痙攣し、苦しげな唸り声をあげ始めた。
「アルフォンス様っ!? どうなさいました!?」
「くっ、やめろ……私の、中に……うぐぁ……!」
アルフォンスさんはごぽりと黒い塊を吐き出した。自身の喉をかきむしり、異常な目つきをしている。
俺たちの前で異形の怪物へと変貌した時と同じ、どう見ても様子がおかしい!
まだ闇の力が残っているのか……?
「クリス、浄化できないか!?」
「や、やってみる……!」
俺は慌てて精神を集中させて、浄化の魔法を唱えた。
だが、当主の時と違いアルフォンスさんの体は元には戻らなかった。
「何で……!?」
「もぅ、いい……私は、もう戻れないほどに染まってしまった……」
「ぇ……?」
アルフォンスさんの言葉に、その場に居る誰もが息を飲んだ。
彼は苦しげに、だがどこか穏やかな表情を浮かべて目を細めた。
「いまだに……私の中で、闇の力が……暴れて、いるんだ。だから……」
そこで一息つくと、アルフォンスさんは絶望的な一言を発した。
「ここで、私を…………殺してくれ」
「っ!? アルフォンス、何を言っている!?」
ヴィルヘルム皇子が必死に声を張り上げたが、アルフォンスさんはゆっくりと小さく首を横に振った。
「このまま、だと……また、君達を……傷つけてしまう。だから…………その前に。こうしてる、間にもっ、意識が乗っ取られそうなんだ……!」
アルフォンスさんは息を荒げ、指がぴくぴくと動いている。その指の動きがまるでオリヴィアさんの首を絞めようとしているように見えて、俺はぞっとした。
彼は俺の浄化魔法じゃ助けられない。このままだとまたさっきみたいに暴れ出すかもしれない。
じゃあ、どうすればいいんだ……?
「……ヴィルヘルム様、薔薇を一輪いただけますか」
必死にアルフォンスさんの頭を抱きかかえていたオリヴィアさんが、ぽつりと絞り出すようにそう呟いた。
「え? ああ……だが、一体何に……?」
ヴィルヘルム皇子が胸元から取り出した真紅の薔薇をオリヴィアさんに手渡す。
彼女はその薔薇をじっと見つめると、小さく呟いた。
「森の英知よ、わたくしに力を……」
そう呟いた途端、オリヴィアさんの持っていた花が三倍ほどの大きさに成長した。加工された鋭くとがった茎が、まるでナイフのように見えた。
オリヴィアさんはその薔薇の花をアルフォンスさんの胸元に添える。
そして、俺たちが止める間もなく一気に左胸へと突き刺した。
「オリヴィア!?」
ヴィルヘルム皇子は慌てたようにオリヴィアさんの手を掴んだが、アルフォンスさんはごぽり、と血が混じった黒い塊を吐き出して、それっきり動かなくなった。
アルフォンスさんが亡くなったと、その場の誰もが理解しただろう。
俺はその光景を呆然と見ている事しかできなかった。
なんで、オリヴィアさんはあんなこと……自分の手で、アルフォンスさんを殺すようなことをしたんだ……?
確かにアルフォンスさんは自分を殺してほしいと言った。その願いをオリヴィアさんが叶えたとでもいうのか!?
そんなの、酷すぎるよ……。
「どんな処罰でも謹んでお受けいたします」
俯いたオリヴィアさんはぽつりとそう吐き出した。
ヴィルヘルム皇子はオリヴィアさんの傍らへと膝をつくと、そっと優しく彼女の頭を撫でた。
「……不幸な事故だよ、オリヴィア」
俺はなんだか泣きたいような気分でじっとその光景を見ていた。
いまだにオリヴィアさんの腕に抱きかかえられたアルフォンスさんは異形の怪物の姿をしたままだったが、その顔は不思議と眠っているかのように穏やかな顔をしていた。
この結末に、彼は納得したうえで死んでいったのだろうか。
……俺には、よくわからない。
そのまま俺たちはじっとその場に佇んでいた。誰も、何も喋らなかった。
きっとみんな、何を言っていいかわからなかったんだろう。
どのくらいそうしていたのだろうか、やがて遠くから何かを呼ぶような声が聞こえてきた。
「屋敷の……衛兵か?」
「眠っていた人たちも目覚めたんですね……」
気が付けば、いつの間にか朝日が昇りかけていた。夜が終わり、朝が訪れたんだ。
それでも、失われた物はもう戻らない。
少しずつ屋敷が騒がしくなる声を聞きながら、俺はせめてアルフォンスさんの魂が迷わずに天へと昇って行けますように、と祈った。




