28 解放の神
ホールはどうやら屋敷の庭へと続いているようだった。
そこに現れた光景を見て、俺は絶句した。
「うわ、なんだよこれ……」
昼間に見た綺麗な庭園の姿は見る影もなく、至る所ににグロテスクな黒くブヨブヨとした謎の物体が張り付き、月明かりに不気味に照らされている。
おそらくさっきの水たまりや樹液のようなものと同じように、そこから影が飛び出してくるんだろう。
「とにかく焼き払えば……きゃあっ!!」
杖を構えようとしたリルカがいきなり地面に倒れ込んだ。見れば、その足に黒い影が絡みついている。
即座にヴォルフがその影を切り裂いたが、その途端暗闇の中から何かが猛烈な勢いで俺たちの方へと突進してきた。
「ロスヴァイセ!!」
すぐさまヴィルヘルム皇子が指示をだし、皇子の精霊ロスヴァイセはその細腕に似合わない猛烈な力でその何者かを食い止めた。
暗闇に浮かび上がったその姿を見て、俺とオリヴィアさんは思わず息を飲んだ。何も知らなければただの異形の化け物に見えたかもしれない。だが、俺たちは確かにこの目で見たのだ。
ロスヴァイセが食い止めているのは、化け物へと変貌したアルフォンスさんだったのだ。
「ちっ、こうなったら……」
「ま、待ってくれ!!」
テオがアルフォンスさんに斬りかかろうとするのを、俺はその手を掴んで慌てて止めた。
「この人、こんな姿だけどオリヴィアさんの婚約者なんだよ!!」
「なにっ……!?」
テオは信じられない、といった表情で化け物を凝視した。
無理もない、俺だってちょうどアルフォンスさんが化け物へと変わる瞬間を見ていなければ到底信じられなかっただろう。
「あはははは! どうだいオリヴィア、愛しの婚約者との再会は!? 君はどうする? 優しい君は兄さんを傷つけることなんてできるはずもないかい!?」
暗闇の向こうからディルクさんの狂ったような笑い声が響いた。
彼の言い方からすると、アルフォンスさんが襲ってきたのも彼がそう仕向けたという事か……!?
「卑劣な真似をっ……!」
皇子が憤った様子で吐き捨てた。俺も同感だ。わざわざオリヴィアさんに化け物となったアルフォンスさんをぶつけるなんて、趣味が悪すぎる……!
「何とかこの場を切り抜け……うわぁ!!」
遂にアルフォンスさんを食い止めていたロスヴァイセが押し負け、アルフォンスさんはその勢いのままヴィルヘルム皇子へと襲い掛かった。
「くっ……アルフォンス! 私がわからないのか!?」
皇子は応戦しつつ必死にアルフォンスさんに呼びかけているが、アルフォンスさんにはまったく届いている様子はない。もう心まで怪物になってしまったんだろうか。
いくら見た目が化け物そのものであっても、中身はアルフォンスさんだ。
皇子もできるだけ傷つけないように気を付けているのか、その動きには先ほどよりも精彩を欠いていた。
テオも皇子を援護しようとしていたが、やはり相手を傷つけずに動きを押さえるというのが難しいんだろう。二人は化け物の姿をしたアルフォンスさんに翻弄されているように見える。
オリヴィアさんはその光景を呆然と眺めていたが、思いっきり殴られた皇子が吹き飛ばされ地面に激突したのを見ると、はっとしたように目を見開いた。
「……手加減が通用する相手ではありません!! レーシー!!」
オリヴィアさんが命じると、精霊のレーシーが思いっきりアルフォンスさんへとぶつかって行った。
ぬいぐるみのような愛らしい見た目の割に、レーシーがぶつかるとアルフォンスさんの体はすごい勢いで吹っ飛んだ。
「本気でかかってください!!」
「おい、そんな事をすればそいつの体は……」
「……今はこの事態を収めるのが第一です。何があっても私が責任を取りますので」
オリヴィアさんは感情を抑えたような声でそう告げる。
テオもその顔を見てその決意を察したんだろう。背中から大剣を抜いた。
「……オレはうまく力加減はできないぞ」
オリヴィアさんは固い面持ちで頷いた。
テオは力加減ができない。本気で戦えばアルフォンスさんを殺してしまうかもしれない。
それでも、オリヴィアさんはそのリスクを承知でこの異常事態を収めることを選んだんだ。
だったら、俺たちはそれに応えなければ!!
「……やるぞ!」
「うんっ!」
躊躇していたリルカも、アルフォンスさんに向かって杖を向けた。ヴォルフは今にも飛び掛かろうとしている。
俺も杖を構える。以前テオに言われた「自分で習得した神聖魔法以外は使うな」という言葉が頭をよぎったが、今は非常事態だ。アンジェリカの出てくる記憶で視た魔法を使わせてもらおう……!
「楽園に満ちる光よ、我に集いて渾沌の闇を掻き消せ……」
「風よ……私の元へ集まって……」
テオが走り出したと同時に呪文を唱える。皇子も、オリヴィアさんもそのチャンスを狙っているはずだ。
そして、全員で一斉にアルフォンスさんに向かって攻撃を仕掛ける……!
「“聖気解放!!”」
「“風精霊の一撃!”」
相手が魔物やドラゴンならともかく、元は人間だった人に集団で集中砲火を浴びせるなんて勇者らしくはない……と思ったけど、きっと世の中そんなきれいごとだけじゃ回って行かない。
たとえアルフォンスさんを殺すことになっても、ここで躊躇することはできないんだ。
一つの攻撃を避けても、その直後に別の角度から襲い掛かる衝撃には耐えられない。
俺たちの見ている前で、一斉に攻撃を受けたアルフォンスさんはそのまま地面に倒れ、動かなくなった。
オリヴィアさんは数秒だけ悲しそうに目を伏せたのち、ぐっと拳を握りしめて顔をあげた。
「次はあなたの番です。ディルク・シュヴァルツシルト!」
庭園に立つディルクさんに向けて、オリヴィアさんが言い放つ。
当のディルクさんは、じっと倒れたアルフォンスさんの姿を見つめていた。どんな事情があるのかわからないけどやっぱり兄弟だし、後悔でもしているんだろうか……。
一瞬でもそう考えた俺が間違っていた。
「……くはははっ!! やっぱりそうだ! 君は兄さんの事なんてどうでもよかったんだろう!!」
ディルクさんは倒れ伏したアルフォンスさんからオリヴィアさんに視線を向けて、また狂ったように笑い出した。
「それは違いますっ!!」
「何だっていいさ。これで邪魔者はいなくなったんだから」
ディルクさんはこの場にそぐわない爽やかな笑みを浮かべると、オリヴィアさんに向かって手を差し伸べた。
「さぁ行こう、オリヴィア。邪魔な兄さんはもういないんだ、僕が必ず君を幸せにして見せる。何があっても君を守るし、君が望む物は何だって与えよう。だから……二人で新しい時代を作ろう!!」
……言われた張本人じゃない俺でもぞくりとした。
目の前の男は狂ってる。今までのオリヴィアさんを見ていて、どうしてそんな事が言えるんだろう。
思えばずっと、彼はオリヴィアさんだけを見ていた。家族であるアルフォンスさんや屋敷を滅茶苦茶にしてまで、彼はオリヴィアさんだけを欲している。その狂気が恐ろしかった。
「兄の婚約者に懸想した故の悲劇か……」
皇子が哀れむように呟いた。
その言葉で、俺はやっとどうして彼がこんなことを仕出かしたのかを理解した。
ディルクさんはオリヴィアさんの事が好きで、実の兄であっても渡したくはなくて、でもどうにもできなくて、それで……こんな凶行に走ってしまったんだろう。
オリヴィアさんは素敵な人だと俺も思う。好きになる気持ちはわからないでもないが、だからといってこんなことを仕出かすなんて信じられない。理解できなかった。
「規律、慣習、秩序……もうそんなものに捕らわれる必要はない。古き女神の教えを捨て、新しい時代へと歩み出す時が来たんだ!! 人が自分の思うままに生きることができる世界になるんだ!! 解放神ルディス様の元で!!」
「解放神ルディス……?」
聞いたことのない名前だ。だが、その言葉を聞いた途端ヴィルヘルム皇子はきつくディルクさんを睨み付けた。
「……邪教に手を染めたのか」
「邪教なんて言っていられるのも今の内だ。近いうちにルディス様がこの大地の主として君臨し、邪教徒として追われるのは貴様らの方になるのだからな!!」
ルディス……というのはどうやら神様の名前のようだ。それも、この大地では邪神と呼ばれる類のものらしい。
ディルクさんはまた狂ったような笑い声をあげると、急に俺たちから視線を外して大声を上げ始めた。
「おい、ミトロス! 早く来い!!」
「ぇ…………」
隣にいたリルカが戸惑ったような声を上げる。俺も思わず聞き覚えのある名前に体がこわばった。
……いや違う、そんなはずはない。きっと同じ名前の別人だろう。
そんな俺の考えは、直後に聞こえてきた眠そうな声に否定された。
「ふぁ……ディルク様、まだ夜中じゃないですか。勤務時間外ですよ」
「黙れ! 報酬なら好きなだけくれてやる!!」
「時間外手当ですか……まったく人使いの荒い……」
ぶつぶつと文句を言いながら、暗闇の中から見知った人影が現れる。
「な、んで……」
リルカの呆然としたつぶやきが耳に入る。俺だって信じられなかった。
その人影は、俺たちの姿を見ると爽やかな笑みを浮かべた。
「どうもみなさん、お久しぶりです」
さすがに会うのが三回目となれば俺の記憶にも残っている。ミルターナの大聖堂で、アルエスタからフリジアに行く船に乗る直前で、俺たちは彼に会っていた。
その場に現れたのは以前出会ったティエラ教会の修道士、ミトロスだったのだ。
【補足】
ミトロス……第一章40~47話、第二章28~29話あたりに登場。ティエラ教会の若き修道士であり、リルカに興味を持っている青年。




