23 異形
「アルフォンス様……?」
オリヴィアさんが呼びかけても、アルフォンスさんはどこかふらついた様子で壁に手をついただけだった。
のこのことオリヴィアさんの部屋に入り込んでいた俺は一瞬ドキッとしたが、すぐに思い直した。
そうだ、今の俺は女になっているんだ。
女同士なら夜更けに婚約者を持つ女性の部屋に入り込んでいても問題はないだろう、……たぶん。
だがアルフォンスさんは俺の存在になど全く気に留めていないようで、壁に手をついたまま何事か唸っている。
もしかして酔っているんだろうか。
どうしよう、こういう時は人を呼んだ方がいいのかな。
俺はオリヴィアさんと顔を見合わせた。
「ここ、は……どこだ」
唸っていたアルフォンスさんがやっと意味の通じる言葉を発した。
それにしても、婚約者の部屋に来といてここがどこだかわからないとか、相当酔っているみたいだ。
オリヴィアさんも苦笑しながら言葉を返していた。
「ここはわたくしの部屋ですわ、アルフォンス様」
「オリヴィア……?」
アルフォンスさんは顔をあげてじっとオリヴィアさんを見つめている。
うーん、ここは気を利かせて退散した方がいいかな、と俺が立ち上がった時、アルフォンスさんはゆらりと一歩前へと踏み出した。
「…………暗い」
「え? まぁ、夜ですからね……」
オリヴィアさんも怪訝そうに返事をしている。
なんだろう、酔っぱらうとよくわからない事を言うタイプの人なんだろうか、初めて見たぞ。
「暗い、暗い……」
アルフォンスさんはなおもぶつぶつと呟いている。
……どこか様子がおかしい気がする。やっぱり人を呼んで来よう。
だが俺が部屋の外へと出ようとする前に、アルフォンスさんは片手で顔を覆いながらまた一歩こちらへと近づいてきた。
「暗い…………どこだ、ここは……」
「ア、アルフォンス様……?」
オリヴィアさんもさすがにおかしいと思ったのか、アルフォンスさんへと駆け寄ろうとした。
だが、その途端急に嫌な予感がして俺は慌ててオリヴィアさんを引き留めた。
「待ってください、何か……おかしい……」
「クリスさん……?」
俺はしっかりとオリヴィアさんの手を掴んだ。
何故だろう、彼女を行かせちゃいけない。
とにかくそう思ったんだ。
「オリヴィア……そこにいるのか……?」
「アルフォンス様、何を言って……」
アルフォンスさんがよろよろとオリヴィアさんに向かって手を伸ばした。
だが、オリヴィアさんは何かを恐れるように一歩後ずさる。
その途端、アルフォンスさんはカッと目を見開いた。
「何故、私を拒絶する……?」
「あのっ、そういうつもりでは……」
「私に、逆らウナ…………オリヴィアァァ……!」
言葉の途中で、アルフォンスさんの声が低く獣が唸るような声に変わった。
そして、オリヴィアさんに向かって伸ばされていた手が一瞬で黒く変色した。
「えっ!?」
「ひっ……!」
俺は思わず掴んだままだったオリヴィアさんの手を強く引く。
彼女に向かって伸ばされていた手がぴくぴくと痙攣している。そして、その黒く染まった手のひらがいきなりぼこりと膨らんだ。
「なっ……!?」
だが、異変はそれだけではなかった。手のひらは不格好にぼこぼこと膨らみ、一気に伸びた鋭利な爪が空気を引っ掻いた。
そして手だけではなく、俺たちの見ている前でアルフォンスさんの顔が黒く変色し、めりめりと変形し始めた。
見開かれた眼は濁った金色に変わり、頭からは角のようなものまで生え始めている。
体が、足が……アルフォンスさんの全身がどんどんおかしくなっていく。
俺は自分の目の前で起こったことが理解できなかった。
一体、何が起こっているんだ……。
俺もオリヴィアさんも、その光景をただ震えながら見ている事しかできなかった。
そして、数秒の内に優しく穏やかな貴公子だったアルフォンスさんの姿は、全身が黒ずんだおぞましい異形の怪物へと変わり果ててしまった。
不格好にめりめりとあちこちが盛り上がり黒ずんだ体、ぎょろりと見開かれた金色の瞳、鋭利な爪ににょきりと生えた二本の角。
その怪物は濁った瞳で呆然と立ちすくむ俺たちの姿を見つめると、にやりと笑った。
その瞬間、俺の背筋がぞくりと震えた。
駄目だ、こいつは危険すぎる……!!
「っ、“聖気解放!!”」
咄嗟に唱えた呪文により、俺の放った小さな光が怪物の体へとぶつかる。
牽制にでもなればいいと思っていたが、光がぶつかった途端怪物はよろめきその場に倒れ込んだ。
チャンスだ、逃げるなら今しかない!!
「今のうちにっ!!」
俺は強くオリヴィアさんの手を引くと、怪物の横をすり抜け部屋から廊下へと飛び出した。
あの怪物が何なのかはわからない。あれはアルフォンスさんが変化した姿なのか……いや、そんなはずはない!
きっとあの得体の知れない化け物がアルフォンスさんの振りをしていたんだ!! そうに違いない!!
だとしたら大変だ。
あんな訳の分からないものが屋敷に入り込んでいるなんて!!
「誰か、誰か来てください!! 大変なんです!!」
できるだけ部屋から離れようと走り続けながら、俺は精一杯声を張り上げた。
俺とオリヴィアさんの二人だけであの怪物に立ち向かうなんて無謀すぎる。ここは応援を呼ぶべきだろう。
まだ夜中という時間でもないし、屋敷の人だってまだ起きているはずだ。
そう思って何度か声を上げたが、屋敷はしんと静まり返って誰の声もしなかった。それに、不自然に明かりが消されていてやたらと暗い。声どころか誰の気配もない。
……おかしい、そんなはずはない。
「まさか、さっきの怪物に……」
真っ青な顔をしたオリヴィアさんがそう呟いた。
嫌な想像が頭をよぎる。昼間はたくさんいた屋敷の使用人、まさかあの怪物にやられてしまったなんてことは……。
「そんな、そんなこと……あるわけないですよ……」
必死にそう返したが、自分でも声がみっともなく震えているのが分かった。
だって、そんなはずはない。ここには兵士だっているし、テオだっているのに……そうだ、テオ!
「テオ!! リルカ!?」
必死に屋敷内にいるはずの二人に呼びかけたが、先ほどと同じく誰の声も帰ってこなかった。
自分でも手足ががくがくと震えたのがわかった。
……違う、そんなはずはない。テオはあんなに強いんだ。いくら怪物が襲ってきたからって、そんな簡単にやられたりするはずはない……。
そう必死に思い込もうとしたが、嫌な想像が頭から離れない。みっともなく涙が出そうになる。体が震えて走れない。
駄目だ、こんなんじゃ……
「……きっと大丈夫ですわ。お二人を探しましょう」
そんな時、震える俺の肩をオリヴィアさんがそっと抱いてくれた。
思わず彼女を振り返ると、彼女は俺を安心させるようににっこりと笑った。
その笑顔を見て、俺は自分が情けなくなった。
従者を皆殺しにされ、やっとたどり着いたこの場所では婚約者の姿をしたものが目の前であんな化け物になって、今一番つらいのはオリヴィアさんのはずだ。
それなのに、彼女は俺を気遣っている。自分だって不安だろうし、泣きだしたいのは同じはずなのに。
「…………はい、行きましょう!」
ぱん、と両手で頬を叩いて気合を入れなおす。
泣いてる暇なんてない。テオがいない今は俺がオリヴィアさんを守らなきゃいけないんだ!
遠くで獣の唸るような声が聞こえた。方向的には俺たちが逃げてきたオリヴィアさんの部屋の方だ。
もしかしたら、あの怪物の声かもしれない!
俺とオリヴィアさんは顔を見合わせると、瞬時にその場から走り出した。
ぼんやりしてる暇はない!
「とりあえず下へ行きましょう! そこから外に!」
「はいっ!!」
オリヴィアさんが階段の位置を知っていたので、俺たちはそこへ向かって走り続けた。
その途中、足元からぴちゃりと音がして濡れた感触が広がった。視線を下げると、廊下のあちこちが濡れて水たまりのようになっているのが見えた。
夜のせいでそう見えるのかもしれないが、まるで闇を溶かしたかのように真っ黒な水たまりだ。
なんでこんな廊下に水たまりがあるのか、とか引っかかったが、今はそんな事を気にしている余裕はなかった。
やっと階段が見えてきて俺はほっとした。
そのまま必死に足を動かして階段を駆け下りる。途中の踊り場にも廊下で見たのと同じような黒い水たまりができていた。
そして、踊り場から一階へと駆け下りようとしたその時、突如一階の廊下から黒い影が飛び出してきた。
まさかさっきの怪物か!? と俺は思わず足を止めたが、ぼんやりとした星明りに照らされたその姿には見覚えがあった。
「っ、ディルク様!?」
すぐ後ろにいたオリヴィアさんが声を上げる。
そこにいたのは、昼間少しだけ顔を合わせたアルフォンスさんの弟のディルクさんだった。




