これから
津島「なるほど、僕はこれらの課題を克服すべきというわけか」津島はうんうんとうなずく。
鴻鳥「顔は少し違うと思いますが、あなたがそうする必要があると考えた場合は、やはり改善するべきでしょう」と鴻鳥は翼を上下に揺らす。
改善するべき、か。しかしそれでも、なんだか気が乗らない。と津島は目を細める。
津島「僕の持つ課題の大体は判明したわけだけど、どうもそれらを改める気になれないよ」津島は難しい顔をして腕を組む。
鴻鳥「ほう、それはどうしてですか?」
津島「だって、悪い点を直したところで、現状が良くなるとは限らないじゃないか」と肩をすくめる。
鴻鳥「なるほど、そういうことですね」鴻鳥は大翼を広げた。「でしたら、もう一つの方法をお教えしましょう」
津島「もう一つの方法?」と津島は首を傾げる。まだ手段があるのか。
鴻鳥「ええ」大きく口を開いた。「もう一つの方法、それは他者を信頼することです」
津島「他者を信頼する?」と津島は微かに眉間に皺を寄せる。「それは一体どういうことだ?」
鴻鳥「そのまんまの意味です。見返りなど求めずに他者を信じる、ということです」
またか。と津島は心の中でつぶやく。見返りを求めないだなんて、そんなの僕には不可能なのだ。
津島「そんな無茶なことを言わないでくれよ。貢献といい、信頼といい、そんなものは裏切りの格好の獲物じゃないか」
鴻鳥「ええ、そうかもしれませんね 」と鴻鳥は言った。
津島「そうかもしれない、って、あんた他人事みたいに――」
鴻鳥「だって裏切られたって構わないじゃないですか」鴻鳥は大声を出しかけた津島を制して淡白に発した。
津島「なっ、裏切られたって構わないって、どういうことだよ」と津島は狼狽して尋ねる。
鴻鳥「裏切るか裏切らないかは他者の課題であり、あくまであなたの課題ではないからです」
津島「だが物事はそんな簡単ではない!」
鴻鳥「いいえ、世界はとてもシンプルなものです。それを複雑に捉えてしまうのは、あなたがそうしようとしているからに過ぎません」
津島「だけど、もし裏切られて莫大な損害を被った場合にはどうすればいいんだ」
鴻鳥「そのときは失ったものの埋め合わせをすることがあなたの課題になります」
津島「何も悪いことしていないのに僕の課題になるというのか!」
鴻鳥「課題とはベルトコンベヤーに流れるようにしてやってくるものです。たとえその原因があなたにあろうが他人にあろうが、課題はそれが影響を与える者に回帰します」
津島「しかしそれじゃあ、裏切り者はどういう立場になるんだ」
鴻鳥「裏切り者がこれからどうするかも彼の課題となります。だからといってあなたが彼に責任を押し付けてはいけません。それはあなたが向上しない怠惰な人間だと認定することなのですから」
津島「でも、そんな人を許しておくような高度な人格を僕は持ち合わせていない!」
鴻鳥「ならばあなたはその人間と縁を切ってしまえばいいのです。あなたがいつまでもその人と付き合っている必要など微塵もないのですから」
津島「だけどそんな簡単じゃ……」津島は言いよどむ。「そうか、そして付いてくる問題も課題の一つ、というわけか」
鴻鳥「その通りです」と深く頭を下げる。「津島さん、これから私が言うことをしっかりと覚えていてください」
津島は「ああ」と返事して心を真っ直ぐに話し手の方へ向けた。
鴻鳥「あなたが一体何をしようとも、あなたはいつまで経ってもあなたのままです。はばかられることなど一切ありません。存在するのは大なり小なりの障壁のみ。それをあなたは休むことなく越えて行くのです」鴻鳥は包み込んでくれそうな優しい声色で言った。「いいですか、あなたはあなたの人生を生きるのです。決して他人のためではありません。しかし自分に執着してはいけません。他者に貢献して生きるのです。自己犠牲ではなく、無償の愛によって。そうすればあなたは常に報われます。目に見えなくとも、あなたに幸福は必ず訪れています」
津島は澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
なるほど、世界というものは、人生というものは、僕の思っていた以上にシンプルだったんだな。
彼は鴻鳥の啓示をしっかりと聞き受けたあと、ゆっくりと目を閉じた。
人生とは素晴らしい。なぜなら、自分自身で作ることができるから――。
*
底本「ん……、まくんっ……」底本の声が聞こえてくる。
津島の瞼を通じて明るい光が認識される。意識が朦朧として五感全てが鈍くなっている。
ああ、ふわふわするなあ。なんだか気持ちがいい。陽が暖かくて、清々しい風に晒されて。このまま、ずっと、眠っていたい……。
底本「津島君!」
津島「はっ!」津島は底本の張り上げられた声によって目を覚ました。
底本「やっと起きたでござるね」
そこには呆れた顔をした底本と、なぜかゲラゲラと笑い転げている狂郷がいた。
津島「ああ、ええと……」と不自然にまごつく。何て言ったらいいんだろう。「どうして僕はこんなところにいるんでしょうね?」
底本「何わけの分からないことを言っているのでござるか」
狂郷「ぎゃははははははっ!」狂郷の笑いが一層激しいものになる。
津島は一瞬だけ不快に思った。しかし、すぐに曇った気持ちは晴れた。僕の人生はこれからだ。
津島「だよね! 何言ってるんだろうね!」と津島は愛想笑いをする。
底本と狂郷は顔を見合わせる。そして底本は津島の方を一瞥した。
底本「さあ、帰るでござるよ」一人の単細胞ではあるが凛々しい姿の侍が津島に大きく優しい背中を向けた。
参考……著:岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』