深泥ヶ池
津島「財布持ったー。生徒手帳持ったー。よし、忘れ物はなさそうだな」。津島は何やら荷造りをしている。
底本「ん、津島君、荷造りなんかしてどうしたんだ? 家出でもするのか?」
津島「違いますよ底本さん。明日から僕は修学旅行へ行くんですよ」
底本「修学旅行? それはいったいどこへ」
津島「関西ですよ。京都とか、大阪とか、神戸とか」
狂郷「へぇ、津島君、関西の方へ行くんだ」。狂郷が現れる。
底本「関西かあ。そこにはどういうのがあるっけか?」
津島「有名なところでは、『清水寺』や『伏見稲荷大社』とかですかね」
狂郷「他に『金閣寺』や『南禅寺』とかも有名ですよね」
底本「ほう、拙者は『貴船神社』や『深泥ヶ池』を知っているぞ」
津島「『深泥ヶ池』? 聞いたことがありませんね。そこってどんなところですか?」
底本「よくぞ聞いてくれた。『深泥ヶ池』ってのはな、氷河期時代から生き残った生物などが生息していたりしていて、さらに浮島まであるという、非常に珍しく貴重な池でござるよ」
狂郷「へぇ、底本さんって意外ともの知りなんですね」。狂郷は感嘆する。
底本「しかもな、その池には、大蛇が棲むという伝説もある」
津島「それはすごいですね」
底本「だが、そこには恐ろしい話もある」
運転「それを私がお話しましょう」。突如タクシーの運転手が現れる。
狂郷「誰っ!」
運転「あれは、とても暗く、冷たい風が絶えることなく吹いている夜でした。
その日、私はいつもの習慣通り、京都駅前で乗車してくる客を待っていました。
待ち続けてしばらくすると、白い服を着た長い髪の女性が乗ってきました。
彼女は驚くほど細身で、体調が悪いのではないかと思うほど顔色が悪かったです。
私は彼女を気にしつつも『どちらまで?』と尋ねました。
すると彼女は『深泥ヶ池まで』と、耳を澄ませないと聞こえないくらい弱々しい声で答えました。
こんな時間にそんなところへ何をしに行くのだろう、と私は疑問に思いました。
しかし、私はそのようなことなど気にしないような素振りをして、車を発進させました。
私は目的地までの道で、いくつかの質問をしました。
最近の天気、話題、景色など、様々な問いかけをしてみました。
しかし女性は、『はい』、『違います』、『知りません』など、素っ気ない返事ばかりしかしませんでした。
どうしたんだこの女性。元気もないし、こんな時間に深泥ヶ池へ行こうとしている。なんだか気味悪いな。
それから、彼女との会話は徐々に減少していき、深泥ヶ池に到着した頃には会話など一切なくなっていました。
しかも、そのとき私は気付いてしまったのです。この静けさ、彼女は呼吸をしていない、と。
その瞬間私の心臓がばくばくと鳴り出しました。急に恐怖が襲ってきたのです。後ろを振り返って確認したい。しかし、恐ろしくて振り向くことができない。そのようなジレンマに、私は十分ほど侵されていました。
そして、私は意を決して、おどおどしながらも、客席を振り返りました。
しかし、女性は既に、消えていました」
底本「ということがあったらしい」。底本は耳栓を外して言う。
狂郷「底本さんぇ……」
この話は実際に、1969年(昭和44年)10月7日に朝日新聞の記事になりました。
また、タクシーの運転手の話した内容はフィクションです。