ファンタシィ・フェイダ・ウェイ/十
月曜日の夜はアオと寝なかった。一度抱いてしまったアオへの疑心は留まることなく膨らみ続け、塔の遊園のバス停でバスを待つ間はなんとかぎこちなくもアオと会話をすることが出来たが、帰りの電車ではアオと話し続けることが出来なくなって眠ったふりをしてなんとかやり過ごした。ユウリのぎこちなさがアオに伝わらないはずはなく、アオもユウリに戸惑いを見せていた。しかしアオはユウリのぎこちなさについて何も言わなかった。「ごめんね、アオちゃん、今日はすっごく眠くて」とユウリが一緒に眠るのを拒絶してもアオは「そう、ならしょうがないね」とそれだけ言っただけでユウリの家から帰っていった。「それじゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
火曜日の朝、眠りから覚めても、アオへの疑心は消えてなかった。それどころかどんどん燃えていて大きな火になっている。ファンタシィ・フェイダ・ウェイの覚えている限りの旋律を口ずさみながらユウリはシャワーを浴びた。疑心はシャワーによって一時的にだが薄まったような気がする。しかしすぐに蘇ってくるだろうな、とユウリは自分の心を客観的に分析しながら春日中学校の制服を纏っていた。
右足が不自由であるのもユウリはすっかり慣れていた。器用に体を動かし朝の準備を滞りなく終わらせた。ユウリは朝食を食べない。熱い紅茶をカップの半分だけ飲んだところでインターフォンが鳴った。コナツが迎えに来てくれたのだ。ユウリは送受器を取る。「あ、コナツ?」
「おはよー、はやく出てきなー」
「おはよ、あ、ちょっと待ってて、まだ紅茶、半分しか飲んでないの」
「随分優雅じゃないの、遅刻するからはやく出てきなー」
「え、もうそんな時間?」
「そんな時間だよ」
時刻を確認すればそんな時間だった。ユウリは紅茶を諦めて自宅を出た。
「おはよ」ユウリはエントランスを出て華壇に咲いた華々を眺めているコナツに手を振った。
「おはよ、」コナツは満天の笑顔を見せて車椅子のユウリの後ろに周り込んで押してくれる。「さ、急ぐよ」
「うん、急げぇ」ユウリは歩かないので楽ちんなのである。
「ぬぉおおぉ」コナツは変な声を上げて車椅子を走って押した。
「わぁ、はやい、はやいっ」ユウリは高い声を出してはしゃぐ。
火曜日の朝の空気は晩夏初秋を感じさせる涼しさだった。頬をかすめ髪をなびかせる風は心地いい。晴れた空を見る。青い空。青い空を見てアオへの疑心を思い出す。ユウリの心はたちまち空の色の反対の青に染められてしまった。
「ねぇ、ユウリ、」学校のすぐ手前の赤信号でコナツは聞いてきた。「昨日はなんで休んだのさ」
「別にただ、」ユウリは正面を横切る自動車の波に視線を注ぎながら口を尖らせている。「だるかっただけだよぉ」
「もしかして、ユウリ、内藤君に会うのが気まずかったんじゃないの?」
「あ、そうだった、」ユウリはマサヤの件について、本日初めて思い出した。アオのことばかりが頭にあってマサヤに告白されて振ったことなんてすっかり忘れていたのだ。「やだ、すっごく気まずいじゃん、やだ、準備出来てないよ、何も、やだ、ああ、嫌だ」
「準備って何よ?」他人事だと思ってコナツは楽しそうに笑っている。「ユウリ、もう内藤君のこと振ったんでしょ? もう終わってるんでしょ?」
「いや、振った手前、なんだか気まずくない? 気まずいでしょ」
「へぇ、ユウリがそんなこと言うなんて、気まずいだなんて、それって優しさじゃない?」
「いや別に、優しさじゃないでしょ」
「昨日はクラス中、内藤君がユウリに振られたって話題で大変だったよぉ、私、何回インタビュウされたか分かんないよ」
「なんでそんなことになってんのよ、」ユウリは舌打ちした。「あいつしゃべったの?」
「喋り散らしてたのは河原崎君だよ、他のクラスにも喋り散らしに行ってて、内藤君、キレてたな、河原崎、てめぇ、ぶっ殺すって」
「誰だよっ、河原崎って誰だよ」
「一応クラスメイトだよ、ほら、キネマ研究会の部長だよ」
「知らねーよ、そんなことっ」
「一応三年間、一緒のクラスだったんだけどな」
「ああ、やだな、会いたくないな、今日も休もうかな」
「駄目よ、駄目駄目、」赤信号は青信号になっていて気の抜けた、かごめかごめ、のメロディが横断歩道に響いていた。「残念、もう、学校ですよぉーだ」
車椅子はコナツのコントロールのもと、校内にするりと滑り込んだ。ユウリはちょっとしたパニックになっていた。マサヤとどんな顔をしてしゃべればいいのか分からない。とりあえず、笑顔で「おはよう、元気?」かな? あれ、でも今までマサヤにおはようなんて声を掛けたことがあっただろうか。考えれば何も喋らないっていう日もあったはずだ。というか、マサヤと話したことのある日の方が少ないような気がする。それにしゃべったと言ってもほとんど事務的な無いようだし、そうでなかったとしてもユウリの一方的な罵倒の類だったからコミュニケーションではなかったはずだ。なのだとしたら別段、今日頑張ってマサヤと何事もなかったかのように和やかに話す必要なんてないはずだ。つまりこんなことを考えているのは無駄だ。時間の乱費だ。そう思えばマサヤに対して無性に腹が立ってくる。こんな風になっているのはマサヤがユウリに告白したからだ。マサヤが悪い。罪人だ。罪人は抹殺されるべきだ。うん、うん。いつもの調子になって来たぞ。もうマサヤのことなんて無視してやればいい。万が一、声を掛けて来たら思いっきり、いつもの倍の倍の倍の倍で罵ってやればいいんだ。簡単じゃないか。
ええ、分かっています。
こんな風に思考が乱れているのってつまり。
簡単じゃないってことだって。
「まあ、何も気にすることってないんじゃない?」コナツが笑顔で言って三年二組の教室の扉を開けてくれた。
車椅子から松葉杖に装備を変えたユウリは硬い表情で教室の中に入る。
すると。
二秒も経たない内に教室は静まり返った。
今まで騒がしかったのに。
その騒がしさは廊下に漏れて中庭まで聞こえるレベルだったのに。
ユウリの登場によって教室の空気に変化があって最も顕著なのは静まり返ったこととクラスの皆の視線がユウリに集中したってこととマサヤがユウリの机の上に跳び乗るようにして座ったことだった。
マサヤが自分の机の上に座っていることにユウリはとてつもなく、瞬間沸騰的に腹が立ち途端、ヒステリックに染まった。
ユウリは教室の扉に近い位置からマサヤのことを睨み付けて怒鳴る。「私の机の上に何座ってんだよ、莫迦野郎っ!」
「ご、ごめん、國丸、」マサヤの表情と声は恐怖に震えていた。「ごめん」
「謝るんだったらすぐにどけって!」
「は、はいっ、ごめんなさい」マサヤはユウリの机からガタッと音を立てて降りた。そして机の前で直立している。まるで何かを後ろに隠すように直立している、というのはすぐに分かった。それに気になるのはマサヤの手にある雑巾だった。使い過ぎて色が灰色になった最高に汚い雑巾だった。
「お前!」ユウリはクラスメイトの机にぶつかりながらマサヤに近づき怒鳴った。「私の机に何してんだよっ!」
「く、國丸っ、」マサヤの声は裏返っている。そして両手でユウリを制止しながら言った。「見ない方がいい?」
「は? 見ない方がいい? 何、訳分かんねぇこと言ってんだよ! っていうか汚ねぇ雑巾こっちに向けるんじゃねぇよ、莫迦野郎!」
「ご、ごめん、」マサヤは足元に雑巾を落とした。直立のまま、ユウリに背後を見せないようにしている。「あ、いやね、國丸さん、そのね、ちょっと保健室行っててくれないかな?」
「はあ!? なんで私が保健室に行かなくちゃいけないんだよっ!?」
「き、昨日、や、や、休んでたし」
「病気で休んでたんじゃねーよ! お前と会うのが気まずかったからに決まってんだろ!」
「ご、ごめんなさい」
「謝るなよ、なんで謝られなくちゃいけないんだよ、振ったのはこっちだろ!」
「あ、そうでした」
「っていうか、本当に私の机に何してたんだよ!」ユウリはマサヤの後ろを覗き込もうとする。
「あ、いや、だからユウリさん、見ない方が」マサヤは俊敏に動きユウリに視界を阻む。
「ああ、もう、なんなんだよ!」ユウリのヒステリックは最高潮に達していた。松葉杖を振り回してしまいそうだった。いや、もう振り回す姿勢に入りかけていた。そのタイミングだった。
「……レズ野郎」コナツがユウリの机の上を見て、小さく声を上げた。
「え?」ユウリは松葉杖を持ち上げるのを止めてコナツを見る。
「あちゃー、」マサヤは目元を手で隠してオーバに後ろに仰け反った。「って、新島! なんで読むんだよ! 読んじゃうんだよ! 読むなよぉ! 読まないで下さいよぉ」
「だって、だって、」コナツはユウリの机の上を指差し言う。「ここに書いてあるんだもんっ!」
「書いてあるのを素直に読むやつがあるかよ! 莫迦!」
「だって! っていうか、莫迦って言ったな!」
「どいて!」
ユウリが叫ぶとマサヤはピストルを額に突き付けられたみたいに両手を上げて体を横に移動させた。するとユウリの机の上にレズ野郎と紫色のスプレで悪戯書きされているのが見えた。なるほど、マサヤはこのスプレで書かれたレズ野郎という罵倒を必死で消そうとしていたんだ。
なるほど。
「なるほど」
心が痛くなって吐きそう。
涙が出そう。
凄く感情的になっている。
感情的になり過ぎて、ちょっと出口が詰まってしまったみたいだ。
すぐに表には出て来ない。
とりあえず。
ユウリは左手に持った松葉杖をマサヤのお腹に突き付けた。「……これ、あんたの仕業なわけ?」
「ち、違うって、俺じゃないよ、俺が朝来たらこんな風になってて、消そうとしたんだけど消えなくって」
「書いた後に後悔して慌てて消そうとしたんだけどスプレが油性で大変だったね、消えなくて、無駄なことを、ご苦労さま」
「だから俺じゃないってば、なあ!?」マサヤは近くに立っている男子数人に同意を求めたが彼らはユウリが睨み付けると皆、一様に首を捻った。「お、おい、おいおい、お前ら、俺と一緒に教室に着ただろ? そのときにはもう、こんな風になってたよなぁ?」
「いや、」男子の内の一人が発言する。「確かに一緒に教室には来たけど、先に来てた可能性もあるし」
「そうだよ、」別の男子が同意する。「学校には一緒に来てないから、内藤とは玄関で会ったんだ、だから、うん、誰もいない早朝の教室で落書きして何事もなかったかのように俺たちと玄関で合流、そしてあたかも初めて落書きを見た風に俺たちの前で装った」
「ああ確かに、」さらに別の男子が大きく頷く。「内藤の驚きはちょっとオーバ過ぎだったよな、落書きを消すって言い出したのも妙な話だよな」
「そりゃだって、」マサヤは反論する。「こんな落書きされてたら、國丸がレズビアンだって変な噂が立っちまうかもしれないだろ?」
「國丸のことは内藤に関係ねぇじゃん、ほっとけばいい話だろ」
「ほっとけねぇよ、俺は、國丸のこと、國丸のことが、す、す、好き、なんだからよ」
「振られたくせにか?」
「ああ、そうだよ! 振られたくせにまだ未練があるんだよ! 未練タラタラなんだよ、こっちは! そんな未練垂れ流しの俺が、こんな落書き書く訳ないだろ!」
「じゃあ誰なのよ!?」ユウリはがなった。
「分かんないけど!」マサヤもがなった。「ホント、誰なんだよ、こんなことするやつは!」
「お前以外にいないだろっ!」ユウリはマサヤの頬を叩いた。
教室に鈍い音が響いた。
「……な、」マサヤは涙目だった。「何すんだよっ!」
「死ねっ!」ユウリは吐き捨てる。「くそったれ!」
ユウリはレズ野郎と紫色のスプレで落書きされた机を視界の中心に入れて椅子に勢いよく座った。
レズ野郎。
間違いじゃない。
笑えてくる。
間違いじゃないからだ。
マサヤは自分のことを振るなんてレズ野郎だ、くらいの意味でスプレしたと思うんだけど正解なんだよ。
だからあんたを振ったんだ。
よぉーく分かってるじゃないか。
やっぱり男って最低最悪の汚い生き物。
未来が汚い生き物との子供を産むくらいなら。
レズ野郎でいい。
素敵じゃないか。
笑えてくる。
今日は人生で一番、笑える火曜日ですね。




